【Re:write】第48話 呪われし鉱山と、最初の観測
―絶望を、書き換えろ。
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朝靄が、ストーンヒルの屋根の低いところに残っていた。
石造りの家々は灰色に沈み、煙突から上がる煙も、冷えた空気の中で細くほどけている。
村の道には霜が張り、靴底がそれを踏むたびに、小さな破断音が白い息の下で鳴った。
誰も大きな声を出さなかった。
ドレイクは荷袋のベルトを締め直し、革の軋みを一度だけ確かめた。
エラーラは水晶板を布で包み、鞄の奥へ押し込む。いつものような早口はなかった。
アリアはミミの小さな手を包み、冷えた指先を自分の掌の中で温めている。
ミミは何かを言いかけて、アリアの顔を見上げた。
アリアは微笑んだ。
それだけで、ミミは黙って頷いた。
「行くぞ」
カイの号令は短かった。
一行は、村の境界を越えた。土の道に入ると、靴底へ返る感触が少し柔らかくなる。
昨日の街道にあった開放感は、もうない。
歩幅と呼吸だけが、互いにずれ、少しずつ揃い、またずれる。誰もそれを笑わなかった。
道は、山へ向かっていた。
西部鉱山地帯の稜線が近づくにつれ、空は狭くなっていく。
木々はまばらになり、地面の色は赤みを帯び、乾いた土の中に酸化した鉄の匂いが混じり始めた。
エラーラは時折、地層の変化を水晶板に記録したが、その手は早すぎず、余計な言葉もついてこなかった。
カイは歩きながら周囲を観測していた。
傾斜。気温。植生。土壌の色。風向き。
村人の証言。夜の歌。銀等級の未帰還。
情報は、まだ断片だった。断片であることが、かえって重かった。
太陽が中天に近づくころ、岩肌に囲まれた陥没地が眼前に現れた。
廃鉱山、ロスト・アンヴィル。
それは、山腹に開いた巨大な暗穴だった。
入口の周囲には、赤錆に覆われたトロッコのレールが残っている。
何か強い力でねじられたのか、鉄は飴細工のように歪み、途中で土に半ば埋もれていた。
折れた支柱。
砕けた木枠。
剥がれ落ちた古い標識。
どれも、捨てられたというより、途中で放棄されたまま乾いていた。
ドレイクの足が止まる。
「……ここが、ロスト・アンヴィルか」
声は、低かった。
「俺が若い頃は、ここも槌の音と熱気で満ちてた。山ごと鳴ってるような場所だったんだがな」
彼は、暗穴を見たまま、しばらく言葉を継げなかった。
「今じゃ、ゴブリンと、得体の知れねえ歌の棲家か」
アリアの手に力が入った。
ミミの指が、その中で少しだけ縮こまる。
アリアは慌てて力を緩め、もう一度、そっと握り直した。
カイは鉱山入口を見た。
黒い。
ただ暗いのではない。光が奥へ届かず、入口の縁で削り取られるように消えている。
風が吹いていた。山の冷たい風ではなかった。洞内から漏れるそれは、わずかに生温かく、湿りを帯び、喉の奥に薄い膜を張るような感触を残した。
ドレイクが一歩、前へ出ようとした。
カイの腕が、その前に入る。
「止まれ」
ドレイクは足を止めた。反射に近かった。
「内部構造の情報が不足している。このまま突入するには、リスクが大きすぎる」
「偵察か」
「ああ」
カイは肩に視線を向けた。
「ウンディーネ。霧化しろ。音を立てずに潜入。内部構造、熱源、生体反応、音源の位置を優先して特定する」
水の小鳥が、カイの肩で小さく震えた。
アリアが一歩近づく。
「ウンディーネちゃん……気をつけてください」
ウンディーネは、いつものようにぷるんと返事をした。
その輪郭がほどけ、水滴になり、霧になり、鉱山の闇へ吸い込まれていく。
音はなかった。
カイは瞼を閉じた。
ナノマシンを経由した感覚の同調が始まる。
視界の奥に、淡いノイズが走った。
現実の光が遠ざかり、代わりに、緑色の細い線で構成された三次元の空間が脳内に組み上がっていく。
空洞容積は想定より広い。
分岐は多い。
壁面には爪痕。古い食料の残渣。ゴブリンの生活痕。
だが、熱源は薄い。現在の生体反応は、入口付近にはない。
ウンディーネは、最初の角を曲がった。
その先に、大空洞があった。
次の瞬間。
音が来た。
――キィィィィィン。
鼓膜ではなかった。
頭蓋骨の内側に、錆びた釘を押し込まれるような感覚が走る。
視界のグリッドが歪み、線が線でなくなり、座標が泡のように弾けた。
カイの膝が、乾いた土を叩いた。
「カイさん!」
アリアの声が近づく。衣擦れの音。駆け寄る足音。
「来るな」
カイは、片手を上げた。
声は低く、掠れていた。
喉の奥に、鉄の味が広がる。
こめかみの血管が脈打ち、胃の底が冷えた。
脳内へ流れ込むデータは、もはや情報ではなく、濁った水の塊に近かった。
これは空気振動ではない。
鼓膜を経由する音ではなく、情報の構造そのものへ干渉している。
意味を持つ前の信号を捻じ曲げ、認識の骨組みに爪を立てる。
ウンディーネの輪郭データが波打ち、細かいノイズに削られていく。
『……警告。構成維持、困難。外部干渉。自己境界が――』
通信は、途中で裂けた。
カイは奥歯を噛み、リンクを切断した。
切断というより、焼き切れかけた線を、自分の手で引き千切る感覚だった。
鼻から、温かいものが垂れる。
カイは手袋の甲で拭おうとして、革についた土と油を見た。
一拍遅れて手袋を外し、素手で血を拭った。
赤が、掌に広がる。
アリアが息を呑んだ。
「カイさん、血が……」
「問題ない」
「問題なくありません」
彼女の声は震えていた。ミミを抱く腕にも力が入っている。
ミミは何も言わず、アリアの服をつかんでいた。
ドレイクは鉱山の入口を睨んでいた。片手が戦槌の柄に伸びている。
だが、抜かない。抜いても届かない相手だと、分かっている顔だった。
エラーラは、水晶板を握りしめたまま立ち尽くしていた。
いつもなら次の仮説が口を突いて出るはずだった。
だが、その唇は開いたまま、言葉にならない空気だけを吐いた。
カイは呼吸を整えた。
未知の干渉波。
精神系、あるいは情報系。
ウンディーネの防壁を数秒で浸食。
銀等級パーティーの未帰還要因として、十分。
現装備では対処不能。
答えは、出ていた。
出ていたからこそ、重かった。
カイは立ち上がった。膝についた土が落ちる。
掌の血は、まだ乾いていない。
「撤退する」
アリアの顔が、はっきり歪んだ。
「だけど、ウンディーネちゃんは……!」
カイは、一度だけ鉱山の暗穴を見た。
「リンクは切れた。だが、消滅したとは限らない。あいつは危険になれば、形を捨てて水に戻れる」
アリアの指が、ミミの肩を握ったまま動かない。
「あの奥に、まだ残っている可能性はある」
「だったら、助けに――」
「今は無理だ」
アリアの言葉が、そこで止まった。
カイの声は荒くなかった。
それが、かえって逃げ道を塞いでいた。
「俺たちには、あの歌を遮る手段がない。突入すれば、全員が同じ干渉を受ける。俺たちが全滅すれば、ウンディーネを回収する者はいなくなる」
アリアは唇を噛んだ。
何か言おうとして、言えなかった。
ドレイクが、短く息を吐いた。
「……村に戻るぞ」
その一言は、カイの判断を支えるためではなく、自分の手で撤退を認めるための音に聞こえた。
エラーラが、ようやく水晶板を下ろした。
「……記録する。今は、それしかできない」
その声は、いつもの速さを失っていた。
彼女自身も分かっていた。今、それは答えではない。
次に戻るための、細い糸にすぎない。
カイは、ねじ曲がったレールへ視線を落とした。
「一度、村に戻る。状況を再整理し、あの歌の性質を仮定する。対抗策を構築してから再侵入する。それ以外の解はない」
合理的だった。
そして、敗北だった。
誰も反論しなかった。反論できない判断ほど、重いものはなかった。
一行は、鉱山に背を向けた。
最初にドレイクが歩き出し、その後ろにアリアが続いた。
ミミはアリアの腕の中で、鉱山の方を見ていた。
エラーラは何度か振り返りそうになり、そのたびに自分の鞄の紐を握った。
カイは最後尾に立ち、暗穴をもう一度だけ見た。
ウンディーネの気配は、なかった。
ただ、生温かい風だけが、奥から吹いている。
カイは踵を返した。
土を踏む音が、鉱山から遠ざかっていく。
誰も急がなかった。急げなかった。
背を向けたものの重さが、荷袋よりも深く肩に沈んでいた。
後に残されたのは、静寂だった。
ぽっかりと開いた暗穴。
赤錆に塗れた、ねじ曲がったレール。
土に半ば埋もれた支柱。
乾いた岩肌。
穴の奥から、また風が吹いた。
それは歌ではなかった。
だが、歌になる前の息のように、入口の闇をゆっくり揺らした。
山影が伸びていく。
赤褐色の土が、少しずつ黒く染まる。
小さくなっていく一行の背中は、やがて岩陰に隠れた。
鉱山だけが残り、歪んだレールだけが、暗穴へ向かって曲がったまま残った。
さらに遠く、ストーンヒルの村が灰色の屋根を寄せ合っている。
その上から、山々の影が落ちてきた。
影は村の道を塞ぎ、畑を呑み、最後に鉱山の入口をひとつの黒い穴に戻した。
ロスト・アンヴィルは、何も返さなかった。
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