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あの夜をこえていく。 | 【短編小説】

結局、一睡もできなかった。

気合で準備をして、家を出てきたはいいけれど、職場の最寄り駅につく頃には、頭もお腹も痛くなってきて、体が必死に抵抗しているようだった。


始業時間まで、あと10分。
今ここから一歩踏み出さないと、さすがに間に合わない。

鞄の中からスマホを取り出して、電話をかけた。
淡白な言葉のやりとりだけをして、切られた電話を持っているのも虚しくなるから、鞄にしまった。

この流れは、すっかり手慣れてしまった。
そんな自分を見るのも、うんざりした。



肩を落としながら、歩いていく。

この隠しきれない悲しみの表情と、不甲斐なさと、もどかしさ。

社会人としての営みができていない以上、家に帰るしかないけれど、今の状況を夫になんと説明しようか。

数年前の状態に戻ってしまったことを、さすがに隠し通すことはできない。
出勤するために家を出て、職場に行けなかった…この状態が、実は3日間も続いていることを、一番話さなくてはならない人に話せていない心苦しさもある。



たった1日だけなら、たまたま体調が悪かったのだと言い訳できた。
でも、3日目ともなると、さすがにもう自分を誤魔化し続けることもできない。


頭を巡らせているうちに、気付けば、公園にたどり着いていた。
空いていたベンチに腰を掛けた。

自分の気持ちとは裏腹に、太陽は元気に活動していて、わたしの不甲斐なさに追い打ちをかけてくる。



先延ばししたところで、誰も得をしないのに。

わかっていても、行動に移せないわたしは、やっぱりダメなやつなのかもしれない。


今の気持ちが、全身から溢れ出てしまっている。
はたから見たら、二度見されるか、そこにないものとして扱われるかもしれないが、まわりの目を気にしている余裕はまるでなかった。


朝起きてから、コップ1杯の水しか飲んでいなかった。
何も飲めないし、食べられないとばかり思っていたけれど、身体は明らかに何かを欲していた。


こんな時にも、「砂漠にいたら、こんな感じなのかな…」と、思ってしまうわたしの思考は、ちょっとどうかしているのかもしれない。


深い溜め息と共に、目を閉じたまま下を向く。

なんとなく違和感を察して目を開けると、わたしの足元に、黒猫が佇んでいた。

黒猫と目が合った。 
まるで、わたしに見つかるのを待っていたかのように、黒猫から目を離すことはなかった。


わたしの足元にいたら、あなたも、変な子だと思われちゃうよ。


みゃあ。 


黒猫を撫でてみる。
ふわふわと毛並みが整えられている。きっとしっかりとしたご主人様がいらっしゃるのだろう。

ひんやりとしていた手の先が、みるみる温かくなり、血色が良くなった。


何も持ってないしなあ。
わたしが、わたしに、あげるものもないくらいだから…


みゃみゃ。


この黒猫は、不思議と、わたしの言葉が伝わっているかのように、反応してくる。


みゃあ?

可愛く首を傾げたかと思えば、立ち上がり、公園の出口に向かって歩いていった。

黒猫は、数歩ずつ立ち止まり、こちらに振り返って、わたしを見つめてくる。


もしかして、ついて来いと言ってるのかな??



黒猫の後を追っていくなんて、そんな話は、絵本の世界でしか見たことがない。

夫に連絡を入れる勇気も、今すぐ家に帰る覚悟も、まだ持てなかった。理由なんて何ひとつないのに、黒猫の後ろ姿から目を離せない。


黒猫は、細い路地を歩いていく。
車通りもなく、人も歩いていない。
この先に何があるのか不安になってきたけれど、黒猫は迷うことなくスタスタと歩いていく。


パン屋さんの前を通り過ぎ、酒屋さんの前を通り過ぎ、しばらく歩いていくと、小さな建物の前で、黒猫は歩みを止めた。

扉には、nanohanacafeと書かれた看板が立てかけられていた。


黒猫は、こちらを振り返り、再びみゃあ と、可愛く鳴いた。
…ここ、と言わんばかりだ。

心臓の鼓動が少しだけ早くなる。
こんな時に、喫茶店に入ってもいいのだろうか。

今日何もしていない、このわたしが。


深い呼吸を一度して、ドアを開けた。



ドア鈴がカランと鳴る。
店内には、お客さんが一人いる程度。
とても静かで、店内の照明もとても落ち着いている。

カウンターに、テーブル席。
窓際には、一輪挿しの花が飾ってあった。
壁にかけられている絵画は、小学生の頃、夏休みの日に見た夕暮れを思い起こさせた。
初めて来たはずなのに、どこか懐かしくて、ホッとするような空気が流れていた。


カウンターの奥で、マスターらしき男性がこちらに目を向け、柔らかく微笑んだ。

「いらっしゃいませ」
その声を聞いただけで、少し肩の力が抜けた。

「おや。はじめまして、…ですかね。」


「あ…はい。初めてでも構いませんか。」


「まったく問題ありません。もしよろしければ、こちらへどうぞ。」


黒猫は、まるでこの店の常連かのように、スタスタと店内に入っていき、カウンターの椅子に飛び乗った。

そして、こちらをゆっくりと見て、みゃあと一回鳴いた。

わたしから黒猫の視線は外れた。


…わたしが悩まないように、導いてくれたのかな。


空いているカウンターの席に、腰を下ろした。

思えば、長く歩いてきたような気もする。
緊張も、ネガティブなことをぐるぐると考えてしまうわたしのクセも、今の場所では、席を外してほしいと思った。


マスターが、静かにメニューを差し出してくれる。

ちょっとだけ疲れているのか、文字が上手く入ってこない。


マスターは、お水とおしぼりを差し出してくれた。

「ご注文は、いかがなさいますか」

「あっ…。え〜っと…何かあたたかいものをいただけますか。」

「かしこまりました。なんだかお身体が冷えているようですね。うちのみーちゃんが、無理をさせすぎてしまいましたか。あ、みーちゃんというのは、あなたの隣に座っている黒猫のことでして…」


後ろのテーブル席に座っていた男性が、一度、コホンと咳払いをした。

マスターは、ハッとした様子を見せて、話を続ける。

「温かいものがお好みでしたら、スープパスタはいかがですか?実は、この秋に向けて、メニューの試作を続けていたところで、ようやく満足いくところまでできたのです。これも御縁かもしれないので、あなたに、ぜひお試しいただきたいなと。ボンゴレ風のスープにショートパスタを合わせています。もしよければ、特製のフォカッチャもおつけします。お酒は飲まれますか?」


「あっ…えーっと。わたし今日お酒を飲んでいいような身分ではなくって。」


「大丈夫ですよ。無理に勧めません。ノンアルのサングリアでもどうでしょう?フルーツからもらえる元気もありますよ。」

マスターはそう言って、やさしく頷いた。
この空間に、胸の奥がほんの少しだけ揺れた。


「(なんの話かな…??)じゃあ、はい。お願いします。」

「少々、お待ちになっていてくださいね。」


マスターが厨房へ入ると、店内には、男性客が本をめくる音だけが響いてきた。



店の奥の方で、包丁がまな板に触れる音がする。

鍋の中で、スープがことことと煮込まれていく音が、軽やかに聞こえてきた。

どれも、自宅でだって聞くことのある音なのに、今日は、ひとつひとつの音が、やけに耳に響く。





「ここは、不思議なお店でしょう。」

不意に、後ろから声がした。

振り返ると、テーブル席にいた男性が、コーヒーカップを片手にこちらを見ている。

「あっ……はい。」

「僕も、この店との最初の出会いは、前を歩く黒猫について来たところからだったんですよ。」

思わず、隣に座る黒猫を見る。

黒猫は、みゃあとだけ鳴いて、知らん顔で毛づくろいを始めていた。

「その子はね、人を連れてくるのが上手なんですよ。」

「……そうなんですね。」


「でも。」

男性は、少し笑って続けた。

「連れて来られる人には、一つだけ共通点があるそうです。」

「共通点……?」

「自分で、自分をどこかに置いてきちゃった人。」

胸が、小さく音を立てた気がした。



そのとき、マスターが湯気がふんわりと立つ器を運んできた。

「お待たせしました。」

白い器から立ちのぼる湯気が、ふわりと頬に触れる。

魚介と、オリーブオイルの香りだ。


お腹の底から、「食べたい」と思った。
こんな気持ちは、数日ぶりだ。


「……いただきます。」

恐る恐るスプーンでスープをすくう。

湯気を見ただけでもわかる、熱々なスープ。

その熱さが喉を通っていくたびに、身体の中に止まっていた何かが、少しずつ溶けていくようだった。

気づけば、二口、三口と運んでいた。


男性が、静かに微笑んで「よかった。食べられましたね。」とつぶやきながら、自分の席に戻っていった。

その一言に、不思議と責められている感じはしなかった。


もしよければお食事といっしょに…と言いながら、マスターが、フルーツがたっぷりと入ったサングリア風のドリンクと、フォカッチャを運んできてくれた。

「実は、このフォカッチャ。あちらの男性が手作りしているのですよ」と、男性の方へ目配せしながらマスターが小声で教えてくれた。




黒猫が、そんなご縁も連れてくるなんて、にわかに信じられないけれど。

どうやら、この店では、驚くようなことではないのかもしれない。



マスターに教えてもらったとおりに、フォカッチャを何もつけず食べてみる。
シンプルながらに、オリーブの香りが豊かで、モチモチな食感だ。


深い溜め息が出た。
鼻を抜ける香りは、経験したことのないくらいだった。

一口分の大きさにちぎって口に入れたフォカッチャを咀嚼しながら、気づけば、最近のわたしを思い返していた。


久しく食欲がなく、出張の多い仕事をしている夫の帰りが遅い日は、ひとりで質素な食事を摂ることが多かった。
豆腐に、週末に炊き溜めして冷凍しておいたご飯だけなんて日も、ざらだ。

あの日々の中で、わたしは、何らかの味を感じていたのだろうか…。


小さく首を横に振った。


なんとなく、何かをお腹に入れておかないとダメかな。なんて、正当な理由を並べながら、まるで意志のない流れ作業のように、ただ闇雲に自分へ何かを流し込んでいたような気もする。


その何かは、わたしのためにあったものではなかった。

元気が出ないのも、気力がわかなかったのも、何事もうまくいかなかったのも、当然のことなのかもしれない。


色とりどりの果物が沈んでいるグラスを静かに手に取る。


作り手が見えるというだけで、こんなに味が濃くなるものだろうか。


その瞬間。
ほろっとこぼれてきた涙を拭き、もう一度スープを口に運んだ。


そのスープは、ただの食事ではないということはわかっていた。


誰かのために作られたものは、受け取られてはじめて、ようやく光を灯す。




スープパスタのおかげでしっとりと温まった口の中に、果汁感あふれるサングリア風のドリンクを流し込む。
ノンアルコールと聞いていたが、食感も風味もどこか大人で、満足度が高かった。

果肉が、キラキラと輝いて見えた。



わたしは、これを欲していたんだ。


今、この味をちゃんと味わうこと。



静かに、時間が過ぎていく。

すっかり日が暮れて、真っ暗になっているのにも気づかず、ただただ余韻に浸っていた。


マスターが、空になったグラスに、お冷を静かに注ぎ足しながら、声をかけてきた。

「もし一瞬でも美味しいと感じられたなら、今日はそれだけで十分ですよ。」

「それだけ……ですか。」

「ええ。」


この数時間のことを思い返す。
自分の口から、次々にとりとめのない言葉があふれてきた。

「頑張らなきゃいけないこと、やらなきゃいけないことは、たくさんあるんです。わたしは、いつも逃げてばっかりで。なんか、そんなわたしに、何も与えられる資格はないんじゃないかって。」

「ご飯を食べる権利も、寝る権利も、今のわたしにはもったいないなんて思って…」

それまで静かに耳を傾けていたマスターが、口を開いた。

「そうですね。でも、お腹が空いている人に、走って帰って、それをやりなさいとは言えません。」


マスターは、少し間を置いて、こう付け加えた。

「温かいものを食べて、少し眠ってから考えても、遅くはありませんよ。」


「そう…ですか。」


「ええ。これは、初めて会う一店員の私だから思うのではなくて、あなたの大切な人も、あなたに対してそう思っているはずですよ。」



息をのみ込み、マスターを見る。


「私も、あちらの男性も、あなたからの話を聞いた上で、あなたに話しかけたのではありません。ちょっと想像力を働かせただけです。まあ、あちらの男性は、みーちゃんが連れてきたというだけで、ある種のフィルターをかけて見ていたかもしれませんけどねぇ。」


マスターの視線に気づいた男性は、首を傾げて、不思議そうにこちらを見ていた。

マスターは、ニッコリと微笑み、話を続ける。

「あなたが抱え込んでしまうほど、世界は冷たくなかったりしますよ。」


「そんなもんですかね。」


「はい。今日は、意図せずこのお店に来てもらったと思いますが、人生は、そればかりではありません。あなたの思う通りに、運んでくれるはずです。」



お会計を済ませて出ようとすると、男性から声をかけられた。

「パンも、人も、急に膨らもうとすると、失敗するんですよ。」


声のする方へ視線を向けると、男性は、穏やかでにこやかに立っている。

「今日、たとえどんな時間を過ごしたとしても、人生の中のどこかでは、それぞれにきっと意味がありますね。またどこかで。」

マスター、男性、黒猫を順に見て、手を振って、お店を後にした。



空を見上げてみると、いっそう輝くひとつの星が目に入ってきた。

輝いているものを見ても、イヤな気持ちはしない。今はむしろ、自分の背中を押してくれるような前向きさを届けてくれているような気さえしてくる。


スマホを開くと、数回着信が入っていた。
あまりに電話に応じないためか、ひとことメッセージが入っていた。


「出張の予定が変わって、一日早く帰れることになった。明日の朝には帰る。せっかくだし、どこかお出かけしよう。おやすみ。」


夫らしい不器用さと、夫なりに真剣に考えたであろう配慮。満たされた中で受け取るメッセージは、そこから放たれるエネルギーも違うのかもしれない。


「電話、出られなくてごめん。 それじゃあ、おいしいご飯でも食べに行かない?一緒に行きたいお店があるの。気をつけて帰ってきてね!おやすみなさい。」


遠くで、みゃあ。という声が聞こえたような気がした。振り返ってみても、黒猫の姿は見当たらない。

わたしは、前を向き直して歩き始めた。

足元を吹き抜ける風は、来たときよりも少しだけやわらかかった。


世界は変わらずに回っている。

それでも、今日は、あの夜をこえていける気がした。


あの夜をこえていく。
《了》


たまに開店する🍀nanohanacafe🍀。
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ねこのてさん
突然の無断コラボ、失礼します。
食材を、お借りしました。
いつもステキな作品をありがとうございます。

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