【掌編小説】お礼 - フォカッチャ

ここは「パンと喫茶 ねこのて」。
下町の少し込み入った場所にある、昭和時代の純喫茶のようなたたずまいのちっぽけな店。なんでもないコーヒーと、店主の私が気まぐれで焼いているパンをお出ししている。
一見さんはなかなか入りずらいようだが、私のパンを気に入ってくれた奇特な人が常連になって顔を出してくれるおかげで、なんとか商売を続けられている。
2年ほど前、ある雨の日にころがりこんできた”あずき”が店を手伝うようになったのをさかいに、不思議なことにお客さんが増えはじめてきた。私としては、日がな一日好きなパンを焼いてのんびり過ごしたいところだが…
「ん?どうした?何か悩み事でもあるのか?」
珍しく、あずきが押し黙っている。窓の外をぼんやりながめながら。
「ううん、あたしが初めてこのお店に来たのも、今日みたいな雨の日だったなって…」
そうだった。2年ほど前、不思議な黒猫に連れられてあずきがこの店にやってきた日も、夕方から雲行きが怪しくなって、しとしとと、降るでもない雨が降っていた。
「あの時店長にもらったあんぱん、ほんとにおいしかったなあ…」
「おいおい、やっぱり熱でもあるんじゃないか?」
物憂げにしている姿を見かけることはあるにはあったが、いつもならあっという間に普段の明るいあずきに戻っていたのに、今日はどうも様子が違う。
カウンターにほおづえをついたまま、あずきが言った。
「ねえ、店長。人間って本当にいろんな人がいるんですね。」
「まあな、うちのお客にはちょっと個性的なのが多すぎるかもしれないけど、人間、誰一人として同じ人はいないもんだよ。」
うん、とうなずくあずき。まさか、学校に通ったことがない、なんてことはないと思うが、あまり多くの人と接したことのない人生を歩んできたような、そんな印象を受ける時がたまにある。
「でも、みんないい人。人間だからってみんなが悪いわけじゃない。それが分かっただけでも、このお店に来てよかったな。」
いったいあずきは何を言っているんだろう。何かいやなことでもあったのか、と聞こうとする私の言葉をさえぎるように、あずきがこう言った。
「ね、店長!いつかフォカッチャ作ってくださいよ!」
「フォカッチャ?」
「そう!パン生地の上にいろんな具を乗せて、いろんなフォカッチャを作るの!」
バターではなくオリーブオイルを練り込むことによる個性的な風味と、たくさんのくぼみが特徴のフォカッチャはイタリアのパン。小麦粉以外には水、オリーブオイル、塩、イーストのみというシンプルな配合で、比較的水分量が多くクラム(内相)がモチモチしている。
パン生地の上にオリーブオイルを塗ってローズマリーを散らして焼くのが定番だが、作る人によっては、オリーブやミニトマトの輪切りを置いて焼いたり、なかにはフルーツやチョコレートを置いて焼く、甘いフォカッチャを作る人もいる。要は、同じパン生地でも作る人それぞれの好みに応じてアレンジのできるパン、と言うことだ。
「乗せる具によって焼き加減も違ってくるんだから、あまりたくさんの種類を作るのは大変だぞ。」
「じゃあ、甘い系はあたしが担当します!パン生地の二次発酵までやってくれれば、具を乗せるところから焼き上げまではまかせてください!」
まるで漫画の一コマのように、自分の胸をドンと叩く。
やれやれ、言い出したら聞かないあずきのことだから、ここは言い分を聞いておいてあげたほうがいいだろう。
そうこうしているうちに、あずきはノートを取り出して何かを書き付け始めた。
「えーと、なきじんさんはお酒飲みだから、アンチョビとかいいかもね。きっとワインに合うと思う。ゆりさんはバリキャリで甘いもの大好きだから、大人の雰囲気でシナモンシュガーとか。アキラさんは穏健派だから、定番のローズマリーかな。矢田さんもお酒飲みだけど…すぐ酔っ払うからなんでもいいか。」
「おいおい、まさか常連さん一人ひとりに違うフォカッチャを作るつもりか??」
「ダメ?」
このまま行くと、とてつもない種類のフォカッチャを作ることになりそうだなと頭を抱えていたら、いつの間にか窓から明るい光が差し込みはじめていた。どうやら雨が上がったようだ。
「あっ!晴れてきた!」
窓に駆け寄るあずき。美しいオレンジに染まった夕焼けの空をしばし眺めていたかと思うと、おもむろにこちらを振り返った。はにかんだような、かすかな笑みを浮かべている。
「人間を信じてもいいんだ、って思わせてくれたみんなに、お礼がしたいの。」
私に比べてはるかに短い人生の中で、いったいどんな辛いことがあったのか。胸の奥底に言いようのないしびれが走る。
「1日では難しそうだから、何日かに分けてもよければフォカッチャ焼いてあげるよ。」
「やったーっ!!店長ありがとう!!」
カウンターに戻ったあずきが、再びノートに向かってフォカッチャの続きを書き始めた。
今日はもうお客も来ないだろう。早めに店じまいだな。
自分には濃いめのブラック、あずきには薄めのカフェオレを淹れて、カウンターにことりと置いた。
