ベートーヴェン 交響曲第4番の幸福な美しさ
音楽史上、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンという作曲家ほど、闘争や苦悩といった重々しい言葉で語られがちな人はいないでしょう。彼の前に聳え立つ交響曲第 3 番「英雄」、そして後ろに控える第 5 番「運命」。そのあまりにも巨大なドラマの狭間で、まるで奇跡のように清らかな光を放っているのが、この交響曲第 4 番変ロ長調作品 60 です。
今回は、この作品が持つ比類なき明るさと威厳、そして私たちが思わず惹き込まれてしまうあの特別な第 2 楽章の魅力について、紐解いていきます。
この音楽エッセイには、明るさと威厳の幸福な同居を、ベートーヴェンが当時聴いていたであろう生々しい音で再現してくれた古楽界の巨匠ジョルディ・サバール指揮、ル・コンセール・デ・ナシオンによる演奏音源へのリンクを貼っています。 彼らがオリジナル楽器で奏でる、快速で瑞々しい第 4 番をぜひ体験してみてください。
ただ明るいだけではない、ベートーヴェンならではの風格
本作を耳にしてまず心を満たすのは、何よりもその圧倒的な明るさです。しかし、それは決して軽薄な浮かれた明るさではありません。随所にベートーヴェンらしい、堂々とした構築美と揺るぎない風格が一本の太い芯のように通っています。
第 1 楽章の幕開けは、変ロ短調の神秘的で引きづるような重い和音から始まる、どこか神秘的で暗い霧の中を彷徨うような Adagio の序奏から始まります。主音の変ロ音をあえて曖昧にし、調性的な浮遊感を漂わせる手法は、のちの第 9 交響曲の冒頭にも通じる革新的なものです。
しかし、次の瞬間、霧を文字通り一撃で吹き飛ばすかのように、鮮烈な変ロ長調の和音が$${\textbf{\textit{ff}}}$$で炸裂するのです。ここから Allegro vivace の第 1 主題が始まり、一気に溢れ出す躍動感と、オーケストラが一体となって前進していく力強さは、まさに私たちが愛してやまない堂々たるベートーヴェンそのものです。ファゴット、オーボエ、フルートへと 1 小節ずつ受け継がれる第 2 主題も、緻密なアンサンブルの妙が光ります。古典的な均整を保ちながらも、内に秘めたエネルギーが最高の形で爆発する快感が、この楽章には満ちています。
▶️ 第 1 楽章を聴く [YouTube]⸺ジョルディ・サバール(指揮)、ル・コンセール・デ・ナシオン
ベートーヴェンが楽譜に残した本来のテンポ指示(メトロノーム記号)は、現代の感覚からすると驚くほど速いものです。サバールはこれに真っ向から挑んでいます。第 1 楽章主部や第 4 楽章は、光の粒が弾け飛ぶようなスピード感で駆け抜けていき、作品が持つ本来の若々しいエネルギーと晴れやかさが 120% 引き出されています。
眠るのがもったいない、奇跡の緩徐楽章
クラシックの交響曲を聴いているとき、ゆったりとした第 2 楽章(緩徐楽章)に入ると、心地よさのあまりついウトウトと眠くなってしまうというのは、実は誰もが経験する贅沢な悩みです。しかし、この第 4 番の第 2 楽章 (Adagio) は、「寝てしまうのがもったいない」と、心の底から思わされてしまいます。それほどまでに、ここには息を吞むような美しさが宿っています。
変ホ長調の天国的な美しさを持つメロディが流れる背景では、執拗に「タッ・タタッ・タ⋯⋯」という付点のリズムが刻まれ続けます。まるで静かに脈打つ心臓の鼓動、あるいは愛しい人の足音のようにも聴こえるこのパルスが、楽章全体に不思議な推進力を与えています。
この美しさに心を奪われていると、いつの間にか微睡みの境界線に立たされている自分に気づくでしょう。けれど、その先にある美のきらめきを一瞬たりとも聞き逃したくないという愛おしさが、私たちをこの音楽に繋ぎ止めます。終盤、ティンパニがソロでこの鼓動のリズムを$${\textbf{\textit{pp}}}$$で静かに叩き出す瞬間の独創性は、まさに圧巻の一言です。ロマン派の作曲家ベルリオーズが「天使の吐息のようであり、人間が書いたものとは思えない」と絶賛したこの空間は、私たちに極上の幸福な時間を差し出してくれます。
▶️ 第 2 楽章を聴く [YouTube]⸺ジョルディ・サバール(指揮)、ル・コンセール・デ・ナシオン
ピリオド楽器(作曲された当時の仕様で製作された楽器)ならではの、ヴィブラートを抑えた弦楽器の純度の高い響きは、どこか遠い時代を追想するような深い精神性を湛えています。 その中で刻まれる「タッ・タタッ・タ」という鼓動のリズムが、木製管楽器の素朴で温かい音色と溶け合う様は、まさに息を呑む美しさです。
音楽がもたらす最高の喜び
後半の楽章に足を踏み入れれば、音楽はさらにその愉悦の度合いを増していきます。
第 3 楽章 (Allegro molto e vivace) の、拍子を裏切るようなユーモアあふれるアクセントの遊び。Menuetto と表記されている楽譜もありますが、実質的には完全に推進力のあるスケルツォです。ヘミオラ(3 拍子の楽曲の中に 2 拍子のアクセントを混ぜる手法)や、意表を突く強弱の交代が多用され、聴き手を心地よく翻弄します。通常の A-B-A という 3 部形式ではなく、中間部のトリオ (Un poco meno allegro) が 2 回現れる変則的な A-B-A-B-A という形式が採用されているのも特徴です。
▶️ 第 3 楽章を聴く [YouTube]⸺ジョルディ・サバール(指揮)、ル・コンセール・デ・ナシオン
そして、第 4 楽章 (Allegro ma non troppo) の、16 分音符がまるで光の粒のように全編を駆け巡る無窮動のフィナーレ。オーケストラの弦セクションにとっては高速で演奏する難所が続くため、技術的な試金石となる楽章です。曲の最後には、ファゴットがその高速パッセージをソロで再現するユーモラスな見せ場(難所)が用意されており、ベートーヴェンの遊び心が覗きます。音楽を奏でること、そしてそれを聴くことの純粋な喜びがここには溢れています。
▶️ 第 4 楽章を聴く [YouTube]⸺ジョルディ・サバール(指揮)、ル・コンセール・デ・ナシオン
おわりに
重厚なドラマを乗り越えた先にある勝利ではなく、今ここにある生への感謝と幸福感が、終始一貫して響き渡る交響曲第 4 番。これほどまでに晴れやかで、同時に威厳を失わない名作は他にありません。シューマンは本作を「2 人の北欧の巨人(第 3 番と第 5 番)の間に挟まれたギリシャの乙女」と評しました。
もし、日々の生活の中で、ふと心が曇る瞬間があったなら、ぜひこの「ギリシャの乙女」の手をとってみてください。そこには、私たちをいつでも温かく照らしてくれる、最高の輝きが待っています。
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