ヴィブラートという「ソース」を一度止めてみる
もし料理人が、全ての皿に同じソースをかけ続けたら、その素材の味は、どこまで残るでしょうか。
現代のクラシック音楽において、ヴァイオリンの左手が震えることなく出す音や、歌手がまっすぐに声を伸ばしている歌に出会うことは稀になりました。私たちはいつの間にか、ヴィブラートをかけ続けるコンティニュアス・ヴィブラート (continuous vibrato) を、演奏の前提条件、いわば標準装備として受け入れています。
しかし、音楽の歴史を振り返ると、この常識は 20 世紀初頭に成立した、比較的新しい習慣に過ぎません。

1. ヴィブラートの歴史的変遷
かつて、ヴィブラートは常に添えられるものではなく、要所要所にだけ施される装飾でした。
バロック〜古典派(17〜18世紀)
当時の美学の基盤にあったのは、澄んだ、直線的な響きです。ヴィブラートは装飾音(オルナメント)の一種として扱われ、長く保たれる音や、感情の焦点となる箇所に、いわばスパイスのように用いられました。
18 世紀、レオポルト・モーツァルトは『バイオリン奏法 (Versuch einer gründlichen Violinschule)』の中で、すべての音にヴィブラートをかけることを「好ましくない習慣」と明確に退けています。
声楽においても、この時代のベルカントの源流の歌唱法では、まっすぐで澄んだ音色が理想とされていました。ヴィブラートはトレモロやトリッロと呼ばれ、特定の感情を強調する際や、長い音の終わりに付け加える装飾技法の一つでした。当時の教則本にも、歌い手は不必要な震えを避けるべきだと説かれており、現代のような絶え間ない揺れは、技術的な未熟さや病的なものと見なされることもありました。
ロマン派(19世紀)
19世紀に入ると、音楽はより豊かな感情表現を求めるようになりますが、それでもヴィブラートは依然として、ここぞという場面での手段でした。ヨーゼフ・ヨアヒムのような名手もノン・ヴィブラートの響きを土台としていました。
▼ ヨーゼフ・ヨアヒム (Joseph Joachim; 1831–1907)
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第 3 番 ホ長調 BWV 1006 よりガヴォット
この時代は、オーケストラの編成が巨大化し劇場も大型化していく中で、声楽にはより強い浸透力と音量が求められるようになりました。ヴェルディやワーグナーなどの劇的な表現に対応するため、発声法は、喉をより開放し息の圧力を高めるものへと進化しました。この過程で、自然に生じる豊かなヴィブラートが、声を遠くまで飛ばすための有効な手段として認識され始めました。また、ロマン派の情熱的な旋律を歌い上げる際、音に絶え間ない揺らぎを与えることで、心理的な葛藤や昂ぶりを表現する手法が定着していきました。
近代(20世紀)
現在の絶え間ないヴィブラートを決定づけた存在として、しばしば挙げられるのがフリッツ・クライスラーです。彼は速いパッセージや経過句に至るまで、常にヴィブラートを伴う演奏様式を確立しました。
▼ フリッツ・クライスラー (Fritz Kreisler; 1875–1962)
ベートーヴェン:ヴァイオリンソナタ第 5 番 ヘ長調 作品 24『春』第 1 楽章 Allegro
その温かく甘美な音色は聴衆を魅了し、1920〜30 年代には多くのヴァイオリニストがこれに追随します。こうして、私たちが今日「クラシックの音」として認識している音響像が形作られました。
さらに、蓄音機の普及や録音技術の発展も、この流れを後押しします。ヴィブラートは音を豊かに響かせるだけでなく、ピッチの微細な揺らぎを覆い隠す効果も持つため、SP レコードの時代においては特に有利に働いたのではないかと考えられます。
声楽においても、20 世紀初頭の偉大なテノール歌手エンリコ・カルーソーなどの登場と、前述の蓄音機の普及が決定打となり、ヴィブラートを伴う歌声が標準的なスタイルになりました。カルーソーのような豊かで常に振動を伴う歌声が理想的なクラシックの発声として世界中に配信され、その声楽スタイルが標準的なものとして固定化されたのです。
2. ノン・ヴィブラートの再発見
常に揺れる音は、確かに豊かで甘美です。しかし、ヴィブラート演奏が当たり前になったことで、ヴィブラートを掛けない音は、貧相で素人っぽいと捉えられるようになりました。
ヴィブラートが全ての音に及んでしまったことにより、私たちは音そのものの表情、素材の味を聞き逃してはいないでしょうか。20 世紀後半以降、古楽演奏(ピリオド奏法)の広がりとともに、この問が浮上してきました。
ピリオド奏法の実践
当時の資料や奏法書を精査しながら演奏する奏者たちは、ヴィブラートを厳密に管理された装飾として扱います。現代の古楽アンサンブルや合唱では、ヴィブラートを極力抑えたストレート・トーンが標準的な響きとなりました。
モダン楽器への影響
こうした知見は、モダン楽器の演奏にも還流しています。バロック作品に限らず、ブラームスやマーラーといったロマン派の音楽においても、あえてヴィブラートを抑える部分を設けることで、音楽の構造や精神性を際立たせる試みが一般化しつつあります。
作曲家による音色指定
近現代の作曲家によって、楽譜に senza vibrato(ヴィブラートなし)や poco vibrato(控えめに)といった指示を書き込み、音色そのものを精密に設計することも行われるようになりました。ヴィブラートは、もはや無意識の習慣ではなく明確に選択されるパラメータになっています。
3. 聴き比べ
お馴染みのヴィヴァルディの「四季」より「春」の第 1 楽章の、コンティニュアス・ヴィブラートの演奏例(①)と、ピリオド奏法のノン・ヴィブラートを基本とした演奏例(②)を貼っておきますので、聴き比べてみてください。
① ジャン=フランソワ・パイヤール(指揮)、ジェラール・ジャリ (vn)、パイヤール室内管弦楽団
② クリストファー・ホグウッド(指揮)、クリストファー・ヒロンズ (vn)、エンシェント室内管弦楽団
おわりに
ヴィブラートを「常時オン」の状態から、「必要なときにかける」ものへと引き戻してみると、音楽の味わいは驚くほど変わります。
例えば、音の立ち上がりをノン・ヴィブラートで保ち、響きが広がるにつれて徐々に揺れを加えていくと、音が生き物のように変化していく有機的な流れが現れます。
また、アンサンブル全体でヴィブラートを止めると、倍音は精密に重なり、結晶のような透明度を持つ和声が響きます。これは、常に揺れ続ける音では到達しえない領域です。
コンティニュアス・ヴィブラートという前提を一度外し、「かけない」という選択肢を手にすることは、単なる古楽への回帰ではなく、音色のパレットを拡張するための極めて現代的な試みでもあります。濃厚な響きと、澄み切った響きを自在に行き来できるとき、音楽はより多彩な表情を持ち始めます。
ヴィブラートという「ソース」をあえてかけない一皿には、これまで気付かなかった音の輪郭と、裸のままの音色が持つ深い息遣いが潜んでいるはずです。


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