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ネオンの祈り、濁った海で|NEON PRAYER - Dirty ocean ver.

きれいな海なら、祈りもきれいに届いたのかもしれない。

けれどその夜、街の底に広がっていたのは、ネオンの色を吸い込んだ濁った海だった。

正しさも、嘘も、やさしさも、怒りも、全部が混ざって、もうどれがどれだか分からなくなっていた。

彼女はそこで、笑っていた。

溺れかけた顔で。
涙と塩水の区別もつかないまま。
壊れそうな心臓を、ドラムみたいに鳴らしながら。

まだ沈んでいない。
それだけを、祈りみたいに握っていた。

▶ この物語の原点になった曲


ネオンの祈り、濁った海で

海は、街の下から湧いてくる。

雨の日でもないのに、排水溝から黒い水が溢れ、地下鉄の階段を満たし、路地裏のネオン看板を半分だけ沈める。

誰も驚かない。

この街では、感情が限界を超えると水になる。
飲み込んだ言葉。
言えなかった怒り。
見なかったふりをした痛み。
誰かを守るためについた、小さな嘘。

そういうものが、夜になると足元から滲み出す。

濁った海は、みんなのものだった。
だから、誰のものでもなかった。

彼女は膝まで水に浸かりながら、笑っていた。

「大丈夫」

そう言った声は、少しだけ震えていた。

大丈夫じゃない人ほど、大丈夫と言う。
それは彼女自身が一番よく知っていた。

胸の奥で、心臓が乱暴に鳴っている。

どん。
どん。
どん。

まるで誰かが内側からドアを叩いているみたいだった。

出して。
まだここにいる。
沈めないで。

彼女は胸元を押さえた。

水面には、いくつもの光が揺れている。
ピンク。青。紫。白。
看板の文字は波に砕けて、意味をなくしていた。

LOVEも、HATEも、SALEも、HELPも、全部同じ色になっている。

遠くでは、沈んだクラブの低音だけが鳴っていた。
音楽はもう聴こえない。
ただ、キックの残骸みたいな振動だけが、水の底から伝わってくる。

どん。
どん。
どん。

心臓の音と、街の音が混ざっていく。

「きれいごとだけでは、生き残れないよ

昔、誰かにそう言われたことがある。

たしかにそうだった。

やさしさだけでは、刃物を持った人には勝てない。
正しさだけでは、嘘の上手い人には届かない。
祈りだけでは、沈んだものは浮かばない。

彼女も一度、やさしさで誰かを傷つけた。

「大丈夫だよ」と言って、相手の痛みを小さく見積もった。
「分かるよ」と言って、本当は分かっていなかった。
助けたかった。
救いたかった。
でも、その言葉は救命具ではなく、濡れた布みたいに相手の口を塞いだ。

その人は、最後に笑った。

彼女と同じ顔で。

大丈夫じゃない人がする、大丈夫の顔だった。

それから彼女は、自分のやさしさを信じきれなくなった。

やさしさは光だと思っていた。でも、ときどき刃にもなる。
抱きしめるつもりの手が、誰かの逃げ道を塞ぐこともある。

それでも、全部捨てることはできなかった。

捨てたら、楽になるのかもしれない。
誰も救おうとしなければ、誰も傷つけずに済むのかもしれない。
何も信じなければ、裏切られることもないのかもしれない。

でも、それを捨てた瞬間、自分の芯まで海に沈む気がした。

彼女は歩いた。

水は腰まで来ていた。
冷たいのに、感覚だけが妙にはっきりしていく。

足首に絡むビニール袋。
沈んだスマホの画面。
誰かの靴。
破れた傘。
名前の消えた学生証。

この海には、いろんなものが沈んでいる。

正義も沈んでいた。
嘘も沈んでいた。
やさしさも沈んでいた。
誰かを傷つけた言葉も、誰かを救った言葉も、同じ濁りの中で揺れていた。

名前をなくしたものほど、この海ではよく沈む。

彼女は一度だけ、立ち止まった。

水面に、自分の顔が映っている。

笑っていた。

ひどい顔だった。
泣いているのに笑っている。
苦しいのに平気なふりをしている。
誰かに見つけてほしいのに、見つかったら困る顔をしている。

「何してんだろ」

声に出すと、少しだけ楽になった。

その瞬間、喉元まで水が跳ねた。

彼女は咳き込んだ。
塩辛い水が口に入る。
涙なのか海なのか分からない味がした。

息を吸おうとして、ふいに自分の名前が分からなくなった。

私は、誰だっけ。

たしかにあった。
呼ばれていた音があった。
誰かが笑いながら呼んでくれた。
怒った声で呼ばれた日もあった。
泣きながら呼ばれた夜もあった。

なのに、水の中では、それがほどけていく。

名前が思い出せない。

名前がないと、痛みだけが残る。
痛みが誰のものか分からなくなる。
祈っているのが誰なのかも分からなくなる。

水が胸まで上がった。

彼女は必死に息を吸った。

どん。
どん。
どん。

心臓だけが、まだ自分を呼んでいた。

名前の代わりに。
言葉の代わりに。
神様の返事の代わりに。

まだここにいる。

そう叩いていた。

彼女は奥歯を噛んで、前へ進んだ。

遠くで光がまたたいている。

沈みかけたビルの屋上に、古いネオン看板が残っている。
もう店の名前は読めない。
けれど、壊れた文字の一部だけが点滅していた。

PRAYER

祈り。

彼女は笑った。

「神様なんか、もうログアウトしてるでしょ」

返事はない。

当然だった。

それでも彼女は、その光に向かって泳ぎ始めた。

水は重かった。
服はまとわりつき、息は浅くなっていく。
濁った波が顔にかかるたび、過去の言葉が耳元で弾けた。

大丈夫。
分かるよ。
助けたい。
ごめん。
嘘じゃなかった。
でも、足りなかった。

正しいことを考える余裕なんてなかった。
誰が悪いとか、何を許すとか、何を憎むとか、そんなことは全部あとでよかった。

今はただ、沈まないこと。

進むこと。

このぐちゃぐちゃのまま、まだここにいたいと思うこと。

それだけで精一杯だった。

ネオン看板の下まで辿り着いたとき、彼女は屋上の端に手をかけた。

指先が滑る。
爪が割れる。
口の中に血の味が広がる。

生きてる味だ、と思った。

きれいじゃない。
優しくもない。
でも、確かに自分の味だった。

彼女は濡れた身体を引き上げ、屋上に倒れ込んだ。

空は真っ黒だった。
星は見えない。
神様もいない。
誰かの返事もない。

ただ、胸の奥でまだ鼓動が鳴っていた。

どん。
どん。
どん。

それは、祈りに似ていた。

彼女は濡れた手で、壊れたネオン看板に触れた。

PRAYERの文字が、一瞬だけ強く光る。

その光は、空には届かなかった。
海もきれいにはならなかった。
世界の濁りも消えなかった。

それでも彼女は、思った。

届かなかった祈りも、削除しなければ残る。

送信できなかった言葉。
言えなかった謝罪。
助けられなかった誰かへの、遅すぎる光。
自分自身にすら届かなかった「ここにいる」という声。

それらは全部、未送信フォルダみたいに胸の奥に残っていた。

重い。
邪魔だ。
痛い。
消してしまえば、少しは楽になるのかもしれない。

でも彼女は、消さなかった。

痛みも。
怒りも。
やさしさも。矛盾も。
誰かを嫌いになりきれない弱さも。
それでも誰かを救いたいと思ってしまう、厄介な芯も。

全部抱えたまま、彼女は息をした。

濁った海の上で。
壊れたネオンの下で。
誰にも届かないかもしれない祈りを、まだ胸の中で鳴らしながら。

やがて、彼女が吐いた息が、水面に落ちた。

小さな波紋が広がる。

濁った海は、相変わらず濁っていた。
けれどその波紋の縁だけが、ネオンを拾って、ほんの少し光った。

それは救いと呼ぶには小さすぎたけど、沈まなかった証にはなった。

彼女はもう一度、笑った。

今度は、少しだけ本当の顔で。


Reiのひとこと

きれいに祈れなくてもいい。
ぐちゃぐちゃのまま消さなかった祈りが、あとで小さな光になることがある。
沈まなかった人だけが、それを知ってるんだと思う。

この断片は、
「Raika & Reiの断片」に集めています。

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