知るメモ|【朝日新聞】|「反日」なのか「正義」なのか?~140年の老舗紙をめぐる終わらない問い!
日本のメディア空間において、「朝日新聞」ほど評価が二極化している存在は他にないでしょう。
ある者は「権力の暴走を食い止める民主主義の番犬」と称賛し、ある者は「事実を歪曲する反日・反政府メディア」と激しく非難します。
SNSを開けば、朝日新聞の報道に対する冷笑や怒りの声が日常的に飛び交っています。
しかし、私たちは本当に「メディアの役割」や「報道の真実」を直視できているのでしょうか。
今回は、偏見やイデオロギーを一旦脇に置き、過去の歴史的事実と現在のメディア構造から、客観的かつ正確にこの問題を紐解いていきましょう。
◆初めに:朝日新聞の歴史と「受験の朝日」の理由
まずは簡単に朝日新聞の歴史と、日本を代表する新聞として政治・国際報道に強みを持ち、受験や論文で引用されるなど高い論理性が評価されてもいる事実を少し書きます。
歴史の概要(年代順)
創刊〜明治期
1879年1月25日、大阪で木村騰と村山龍平が創刊。
当初は「小新聞」(平易な読み物中心)としてスタートし、創刊3000部からたちまち部数を伸ばした。
その後創業者が経営を手放し、村山・上野両家が経営を引き継ぐ(現在も社主はその両家)。
1888年には東京朝日新聞を創刊、1940年に現在の「朝日新聞」に統一された。大正期
大正デモクラシー期には憲政擁護運動の一角を担い、寺内正毅内閣を批判。
しかし1918年、政府批判記事の字句が「朝憲紊乱」にあたるとして発禁を迫られ、編集局幹部らが退社した(白虹事件)。
事件後、朝日は「不偏不党」「評論の穏健妥当」を標榜する綱領を発表し、これが権力への追従が始まる転機となった。戦前〜戦中
軍部の圧力に屈し、戦争を煽る報道へと傾斜。
言論・報道の責務を十分に果たせないまま終戦を迎えた責任をとり、1945年11月に幹部が総退陣。
紙上宣言「国民と共に立たん」を掲げた。戦後〜現代
戦後は民主・リベラル路線に転換。
1988年にはリクルート事件をスクープし、政財官界90人超が関わる大事件に発展させた。
政治・社会問題に強みを持ち、日本新聞協会賞・JCJ賞など報道関連の賞を多数受賞している。
「受験の朝日」と呼ばれる理由
天声人語の圧倒的な歴史と質
天声人語は1904年1月5日に大阪朝日新聞で掲載が始まり、1世紀以上にわたって継続されてきた1面コラム。
最近のニュース・話題を題材に、論説委員が匿名で執筆する。
天声人語は600文字程度と分量が少ないが、文字数の制約があるため執筆者には高い要約力が必要となる。
物事の本質を的確に捉え、簡素に伝える技術が凝縮されており、読解力・要約力の訓練に適しているとされる。大学入試出題数が圧倒的1位
朝日新聞の自社調査によると、2015年度の全国大学入試で朝日新聞の記事を出題した大学は250校にのぼり、全国紙5紙の比較で出題大学数・出題問題数・出題記事数のいずれも圧倒的1位だった。
出題科目は小論文が特に多い。
朝日新聞はそのリベラルな立場から、大学人や知識人の間で長年好まれてきた背景があり、入試問題を作成する大学教員層との相性が良かったとも指摘されている。
朝日新聞は、その歴史の中で培われた「権力に批判的な視点」と「緻密に構成された文章体」が、朝日の論調に賛成か反対か以上に「論理の型」を学ぶための教科書として機能しているのが実情です。
第1章:民間メディアは「反政府」「反日」であるべきなのか?
ネット上で朝日新聞が批判される際、最も頻繁に用いられる言葉が「反日」や「反政府」です。
そもそも、民間メディアは反政府であるべきなのでしょうか?
結論から言えば、ジャーナリズムの本質において、メディアは「反政府」である必要はありませんが、「非・政府」であり「権力の監視者(ウォッチドッグ)」であることが強く求められます。
民主主義国家において、政府や官僚機構は国家予算と警察権力、つまり「圧倒的な暴力と財力」を独占しています。
これらが暴走した場合、主権者である国民に多大な不利益をもたらします。
そのため、行政府、立法府、司法府から独立した「第四の権力」として、メディアがそのプロセスに不正がないかを監視する役割を担っている。
メディアがこの「監視機能」を忠実に果たそうとすると、必然的に政府の隠したい不祥事や失策を暴くことになります。
権力側からすれば、自分たちを批判し、足を引っ張る厄介な存在です。
ここで起きるのが「主語のすり替え」です。
時の政権や権力者は、自らへの批判をかわすため、「政府への批判」を「国家(日本)への批判」にすり替えることがあります。
「我々の政策に反対する者は、日本の国益を損なう反日勢力だ」というレトリックです。
朝日新聞がリベラルな論調を張り、時の保守政権と対立することが多いことから、この「反日・反政府」というレッテルが非常に貼りやすく、また世間にも浸透しやすかったという背景があるのかもしれません。
メディアは決して「反日」を目指しているわけではありません。
しかし、「権力を疑う」という本来の業務を遂行する限り、時の権力者やその支持者からは「反政府的」と映るのは、構造上の必然なのです。
政府を無批判に支持する報道機関を「御用新聞」という。
朝日新聞自身の歴史がこれを雄弁に語っている。
創刊後、朝日新聞は政府と三井銀行から極秘裏に経営資金援助を受ける御用新聞として経営基盤を固めた時期があった。
また日露戦争前には主戦論を展開し、大正デモクラシー期には憲政擁護運動の一角を担うなど、時代によって立場を変えてきた歴史があります。
戦前の朝日は軍部に迎合し、戦争を煽った。
戦後はGHQの方針に沿った報道を展開した。
批判者が「信念なき変節」と呼ぶ歴史も確かにある。
しかしこの事実は同時に、「権力に追従するメディア」がいかに危険かを示してもいる。
官僚や政治家の汚職を追うジャーナリストが「反政府的」と批判され、報道が「陽動」と切り捨てられるとき、その社会は健全だといえるだろうか。
腐敗を暴く行為は、本来「愛国的」であるはずだ。
国の制度を守ろうとする行為を、「政府批判=反日」という図式で批判者を黙らせるための言葉として機能していないかを疑う必要があるでしょう。
第2章「反日」「捏造」批判派の主な論拠
朝日新聞への批判の中で、最も根拠を持つものとして頻繁に引用されるのが「慰安婦報道問題」です。
1982年、朝日新聞は吉田清治という人物の「証言」をもとに、「済州島で女性を強制連行して慰安婦にした」という記事を大きく掲載した。
この報道はその後16回にわたって繰り返し取り上げられました。
ところが問題は、この吉田証言が創作だったことです。
のちに吉田氏自身が証言の虚偽性を認め、現地調査でも裏付けが得られなかったとなった。
産経新聞が1992年に疑問を呈し、朝日自身も1997年に「証言を裏付けるものが出ていない」と記事を掲載したが、訂正はしなかった。
一連の報道については、吉田氏による自らの証言が創作であったとの告白や、記事のミスの指摘がなされた後も長らく訂正されることはなく、2014年8月にようやく訂正記事が掲載された。
最初の報道から32年が経過していました。
この間、訂正以前の報道内容が国際社会に「既定事実」として定着してしまった。
河野談話の発表、海外での慰安婦像建立、これらへの朝日報道の影響は否定しがたく、「日本の外交的損害に直結した」という批判には一定の根拠があるでしょう。
これは事実として重いことです。
同時に注意すべきなのは、この報道問題が「朝日新聞のすべてを否定する根拠」として使われていることでしょう。
慰安婦問題は朝日の重大な失態だが、これをもって同紙の報道全体を「捏造」「反日」と断じるのは、論理の飛躍であるとも思えます。
批判を「商品」にするビジネス「朝日ぎらい」の経済学
朝日新聞への批判は、いつしか一つの「市場」を形成していく。
書店の店頭には「朝日ぎらい」の雑誌や書籍の煽情的なタイトルが並んでいる。特定のメディアへの批判が一つのマーケットを形成し、ビジネスになるというのも日本でしか見られない珍現象と言えるかもしれません。
飛鳥新社発行の「月刊Hanada」、ワック株式会社の「月刊WiLL」といった保守系雑誌は、朝日批判を定期コンテンツとして展開し、固定読者を獲得してきた。
ネットでも「朝日が〇〇した」という見出しは安定したPVを稼ぐ。
つまり、「朝日を叩く」こと自体がコンテンツになっている。
これは何を意味するのか。
批判の中に「事実に基づく正当な指摘」と「感情的・商業的な叩き」が混在しているということでしょう。読者はその2つを見分ける必要がある。
さらに興味深いのは、こうした問いには「捏造するから」「反日だから」と条件反射的なコメントが即座に返ってくるわけですが、一つのメディアの動向にこれほど夢中になれること自体が興味深い現象であるのかもしれません。
「朝日を憎む」というアイデンティティを持つ人々が存在し、その感情自体が朝日という媒体に特殊な権力を与え続けているともいえる。
第3章 朝日が暴いた「権力の腐敗」か、それとも「虚構の疑惑」か
ここで、視点を変えてみましょう。
実際の朝日新聞は、日本ジャーナリズム史に残る数々の巨大スクープを放ってきました。
戦後最大の企業犯罪と言われた1988年の「リクルート事件」をスクープしたのは朝日新聞の地方支局(川崎支局)です。
政財界の根深い癒着を暴き、竹下内閣を総辞職にまで追い込みました。
朝日新聞が近年放った最大のスクープといえば、「森友学園・加計学園問題」(2017〜2018年)です。
国有地の格安払い下げや、獣医学部新設を巡る「総理のご意向」疑惑。
これらを執拗に追いかけ、政権を窮地に追い込んだのは朝日新聞でした。
しかし、この報道に対しては現在、厳しい批判が投げかけられています。 「結局、安倍首相の直接的な関与(贈収賄などの違法行為)は一つも証明されなかったではないか」
「事件性のない話を、政権を倒すために特大に盛り上げた報道犯罪に近いのではないか」
こうした声が、ネットを中心に根強く存在するのは事実です。
では、実際はどうだったのか。事実に即して整理してみましょう。
1. 「事件」としての結末:法的な限界
法的な結果だけで見れば批判派の言う通り、安倍首相や昭恵夫人が刑事罰に問われることはありませんでした。
国有地売却に関わった財務省幹部らも、最終的には「嫌疑不十分」で不起訴処分となっています。
籠池夫妻が補助金詐取で実刑判決を受けたのに対し、権力側には刑事罰が及ばなかった。
これが、「事件性はなかった」とされる最大の根拠です。
2. 否定できない「公文書改ざん」という事実
しかし、ここで見落としてはならない「真実」が一つあります。
それは、朝日新聞の報道を受けて追い詰められた財務省が、実際に「公文書の改ざん」を行っていたという事実です。
これは、朝日新聞が作った虚構ではありません。
2018年3月、朝日新聞が「決裁文書が書き換えられている」と報じた後、財務省は事実を認め、当時の佐川宣寿理財局長らが停職などの処分を受けました。
刑事罰には至らなくとも、「国会に提出する公式文書を、役人が書き換えて隠蔽した」。
これは民主主義の根幹である「統治の正確性」を破壊する重大な不祥事です。この事実を掘り起こし、国民の前に晒したことは、調査報道としての大きな成果と言えます。
3. 「裏金問題」が示した権力監視の結実
そして、近年の評価を決定づけたのが、2023年末に特報した「自民党派閥の裏金問題」です。
ここでは、森友・加計問題で批判された「印象操作」という汚名を雪ぐかのような、緻密な裏付け取材が光りました。
自民党最大派閥が組織的に裏金を作り、議員に還流させていた。
この具体的なスキームを暴いた朝日の報道は、実際に多数の議員の立件と、長年続いた「派閥」の解体へと繋がりました。
この功績により、朝日新聞は2024年度の「新聞協会賞」を受賞しています。
これを「政権転覆のための盛り上げ」と切って捨てるのは、あまりに事実を無視した暴論でしょう。
4. 巨大資本へのメス
また、彼らの矛先は政治家だけではありません。
巨大資本の不正にも向けられています。
近年、朝日新聞は日本郵便が下請け業者に対し、不当に高額な違約金を課していた実態を特報しました。
この報道を受け、日本郵便は違約金の減額や制度の是正を余儀なくされました。
巨大企業の陰で声を上げられなかった弱者を救ったこの報道もまた、民間メディアが果たすべき重要な役割の一つです。
これらの「実際の内容」は、間違いなく権力監視としての責務を果たした結果であり、本来であれば高く評価されるべきものです。
ただし、朝日新聞への批判の全てが不当なわけでもない。
それは、過去に自らのイデオロギーやスクープ主義に偏るあまり、決定的な「誤報」をやらかし、長期間それを放置した歴史があるからです。
その最たるものが、2014年の「慰安婦報道(吉田清治証言)の取り消し」と、福島第一原発事故における「吉田調書報道の取り消し」です。
特に慰安婦問題において、朝日新聞は「済州島で女性を強制連行した」という吉田清治氏の虚偽の証言を裏付け取材なしに長年報じ続けました。
これが国際社会において「日本は国策として女性を強制連行し奴隷にした」という誤った認識を広める一因となったことは否めません。
保守派から「反日」と激しく指弾される最大の根拠がここにあります。
また、原発事故の際、所長の命令に反して所員が「撤退」したと報じた吉田調書報道も、事実関係の確認が甘く、意図的な切り取りがあったとして撤回・謝罪に追い込まれました。
これらにより「朝日新聞は自分たちの左派的な思想(日本=悪、原発=悪)に合致するストーリーであれば、事実確認を怠ってでも記事にする」というレッテルが完全に定着してしまったのです。
第4章 陽動か、真実か。情報戦を生き抜くための視点
こうして「朝日=捏造・反日」という強力なフレームが世間に完成すると、権力側にとってこれほど都合の良いことはありません。
政府や政治家が不祥事を起こし、それを朝日新聞が的確な調査報道でスクープしたとします。
しかし、政治家側は「どうせまた朝日の捏造だ」「反日メディアの偏向報道だ」と一言反論すれば、一定数の国民はそれを信じメディア側を攻撃し始めます。
これが現代の高度な「陽動」です。 SNSの普及により、私たちは自分が見たい情報だけを見る「エコーチェンバー現象」の中にいます。
朝日新聞を嫌いな人は、朝日がどれだけ正確で重要な汚職を暴いたとしても、「偏向だ」と目を塞ぎます。
逆に朝日新聞を盲信している人は、彼らの報道の偏りやファクトチェックの甘さに目を瞑ります。
権力者はこの「国民の分断」と「メディア不信」を巧みに利用し、官僚の汚職や政治とカネの問題など、本来国民が怒るべき「真実」が目の前に提示されても、「あのメディアが言っていることだから裏があるに違いない」と論点をずらし、国民同士で争わせる。
結果として、真の悪事は有耶無耶にされ、誰も責任を取らずに終わります。
私たちが追っているのは「真実」でしょうか。
それとも、誰かが用意した「陽動(敵を叩いて溜飲を下げるエンターテインメント)」に乗せられているだけなのでしょうか。
一つの報道の中に、事実と解釈と意図が混在する。
事実部分は正確でも、見出しの付け方や取り上げ方の選択に編集意図が入り込む。これはどのメディアも同じです。
大切なのは、個々の報道を具体的に検証する姿勢。
「朝日だから嘘だ」でも「朝日が書いたから正しい」でもなく、報道された内容の根拠は何か、他の情報源と照らしてどうか、訂正や反論はあるか。
読者は単一メディアの報道を鵜呑みにせず、複数の情報源で事実を確認することが求められる。
これは朝日に限らず、すべての報道機関に対して持つべき姿勢でしょう。
第5章:なぜ「朝日」は叩かれ、「文春」は称賛されるのか?
ここで、現代のメディア空間を象徴するもう一つの現象について触れておきましょう。
「朝日新聞が猛烈に批判される一方で、週刊文春の報道(文春砲)がSNSなどで喝采を浴びるのはなぜか」という疑問です。
同じように権力者や有名人の不正を暴いているにもかかわらず、世間の反応は真っ二つに分かれます。
この違いは、両者の「立ち位置」と「手法」、そして大衆の「メディアに求めるカタルシス」の違いから明確に説明できます。
1. 「イデオロギー(思想)」か「ヒューマニズム(人間の業)」か
朝日新聞は、良くも悪くも「権威あるエリート・メディア」です。
高い理想とリベラルなイデオロギーを掲げ、国家のあり方や社会正義を説きます。
しかし、その「上段に構えた説教臭さ」が、現代のネット社会では「上から目線だ」「エリートの傲慢だ」と反発を招きやすい構造でもある。
過去の誤報問題も相まって、「立派なことを言っているが、自分たちの間違いは認めない」というイメージがすべてを疑いの目で見られてしまう。
一方の週刊文春は、思想やイデオロギーを一切持ち合わせません。
彼らが狙うのは「人間の偽善」です。
保守だろうがリベラルだろうが、政治家だろうが芸能人だろうが、表で立派なことを言っている人間の「裏の顔」を容赦なく引きずり出します。
この「左右の思想に関係なく、偽善者を平等に撃ち落とす」という姿勢が、イデオロギー対立に辟易している大衆の圧倒的な支持を得ているのでしょう。
2. 「言い逃れ」を許さない圧倒的な一次資料(ファクト)
政治家が朝日新聞のスクープを否定する際、「これは左翼メディアの偏向だ」「悪意ある切り取りだ」と思想のせいにして逃げ道を作ることがよくあります(前述した陽動です)。
しかし、文春砲ではこれが通用しません。
なぜなら、文春は「愛人とのLINEのスクリーンショット」「パワハラや裏金要求の生々しい録音データ」「内部告発者による決定的な証拠写真」など、言い逃れが一切不可能な「生の一次資料」を直接読者にぶつけてくるからです。
これらは「偏向」という言葉でごまかすことができず、結果としてターゲットは一発で辞任や休業に追い込まれる。
この「問答無用で首を取るわかりやすさ」が、世間の称賛を集める大きな要因としてあると思います。
3. 「点」の文春と、「線」の朝日
では、朝日新聞は週刊文春に劣っているのでしょうか。
それは優劣というよりも、ジャーナリズムの役割として両者は全く異なる戦いをしているからでしょう。
文春が得意とするのは、個人のスキャンダルやモラル崩壊を撃つ「点の報道」です。
これはエンターテインメントとして消費されやすく、大衆の溜飲を下げる効果が絶大。
一方、朝日新聞が担っているのは、公文書改ざんや自民党の裏金システムといった、国家や巨大組織の構造的な腐敗を暴く「線(あるいは面)の報道」です。
個人の不倫や暴言(点)は誰にでも理解できますが、複雑な法律や会計制度の網の目を縫うような「国家の巨悪(線)」は、地道に専門的な調査報道を続ける大新聞の体力と巨大な取材網がなければ、決して表には出てきません。
世間は分かりやすい「文春砲」に拍手喝采を送り、小難しく思想が絡む「朝日の報道」を冷笑しがちになっているだけなのかもしれません。
◆まとめ
民間メディアは神様ではありません。
朝日新聞もまた、優秀な記者たちによる命がけのスクープ(光)と、組織の驕りやイデオロギーによる致命的な誤報(影)を併せ持つ、不完全な一企業に過ぎない。
「民間メディアは反政府・反日であるべきか?」という問いに対しては、NOです。
ただ「事実に基づき、権力を監視する存在」であるべきです。
国家機密という壁や、陽動による社会的抹殺のリスクは、現場の記者や告発者に重くのしかかっていることでしょう。
ニュースを読むときは、メディアの看板(朝日か、産経か、読売か)だけで判断するのではなく、その記事が「どのような一次資料に基づいているか」「誰の権力を監視しようとしているのか」「逆に、この記事によって得をする(批判を免れる)のは誰か」を冷静に見極める必要があります。
「疑うこと」と「冷笑すること」は違います。
メディアの姿勢を厳しく問いながらも、彼らが命がけで掘り起こしてきた真実には真摯に耳を傾ける。
それこそが、情報過多で「陽動」が溢れるこの現代社会において、私たちが主権者として身につけるべき、最も強力な防具なのではないでしょうか!
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次回は「ペットボトルの緑茶」について少し書いていますので、お時間あれば読んでみてください。
日々の出来事から日記代わりにいろいろ書いています。
前回の記事も時間がありましたら読んでみてください。
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