約9割が…|「メロンパン」を語り、「メロン」を語らない|安心できる隠れた評価軸とは?~共有できる体験ほどアクセスが伸びる訳
「メロンの日」の記事
これを書いた後に「メロン」について書いている人がいないかなと、noteや他のSNSを検索してみたのですが、ある事実に気付きました。
メロンについて書いてる人はあまりいないのに、「メロンパン」を含むものは大量に存在しているという事。
どちらも「メロン」という名前を持つのに、この差は何なのか。
結論から言うとこれは、味の問題でも、価格の問題でもありません。
人間の「自己表現欲」と「語りの安全性」の問題なのです。
人は「語っても怒られないもの」を語る
まず大前提として、人は無意識にこう考える。
「これを語って、変な空気にならないか?」
メロンの場合
高級
贈答
食べ比べは難しい
育ち・経済力が透ける
つまり語った瞬間に「評価軸」が発生する。
「このメロン甘かった」
→ どこの?いくら?
→ 舌肥えてる自慢?
→ マウント?
語る側は、これをすべて無意識に警戒してしまう確率が高い。
メロンパンのような経済力や教養が露出しない、好き嫌いが許容される「共有可能性」の高さが、評価リスクを極限まで下げる。
メロンパンの場合
安い
種類が少ないようで実は豊富
思い出と結びつきやすい
好き嫌いが許される
「この店のメロンパンが好き」
→ へぇ〜
→ わかる
→ あそこも美味しいよね
安全に「体験」として語れる。
人は思想より先に、空気の安全確認をする生き物なのかもしれません。
人は「評価される体験」より「共有できる体験」を選ぶ
メロンは
食べる頻度が低い
一人で食べることが少ない
記憶が点で残る
メロンパンは
通学路
コンビニ
放課後
失恋帰り
夜勤明け
日々の出来事の中に絡めやすい。
noteやSNSで人が語りたいのは
「美味しかった」
という感想だけではなく
「自分の人生の一部」
を表現して見せたいという欲求
メロンパンはパンでありながら、特別な時間としてきっかけにしやすいものでもある。
noteやSNSのアルゴリズムは、思想や完成度ではなく、いいねやコメントといった反応を評価する。
共有できる体験は、「わかる」「自分も」という短距離の感情反射を大量に生む。
結果としてアルゴリズムは「深いが孤立した体験」より、浅くても多数が参加できる体験をトップページやおすすめに押し上げる。
これは価値判断ではなく純粋に構造の問題なのでしょう。
メロンは完成品、メロンパンは未完成
心理学的にこの2つには食品としててみた場合に重要な違いがあります。
メロン:
最初から完成している
→ 語る余地が少ないメロンパン:
店によって
・外カリ中フワ
・しっとり
・中にクリーム
・メロン味なし
違いを語れる余白がある。
人は「完成されたもの」より「語りながら意味づけできるもの」を好む生き物だから。
人は完成された物語を読むより、自分が入り込める余白のある物語に関与したがる。
アクセスが伸びるとは、内容が消費されたのではなく解釈の場が開かれたということに近い。
人は「自分の立場が露出しない話題」を愛する
メロンを語るとどうしてもこう相手に思われてしまう。
経済力
家庭環境
年齢
産地に対する思い入れ
が透ける。
メロンパンは誰が語っても立場が露出しない。
これはSNS時代において、最強の条件となるのでしょう。
最後に
メロンパンが語られ、メロンが語られない理由は、思いの外単純なのかもしれません。
それは好き嫌いの差ではない。人間が対象と結ぶ「距離」の違い。
人は、近いものについては語り、遠いものについては沈黙する。
メロンパンは、生活の内部にあり、愛着を込めた言葉によって消費される存在。
メロンは、生活の外縁に置かれ、言葉より先に尊敬を含む儀礼が要請される存在。
尊敬とは、対象との距離を保とうとする態度であり、沈黙はその距離を壊さないための選択である。
一方、愛着とは、距離を縮め、触れ、語り、意味を上書きしていく行為。
noteやSNSは、距離を縮める装置である以上、愛着の言語しか増殖しない。
だからメロンが語られないのは、価値を失ったのではない。
ただ、言葉の届かない距離に置かれているだけだ。
そして人は本能的に知っている。
すべてを言葉にしてしまった瞬間、ある種の価値は壊れてしまうということを。
メロンが静かに切り分けられるのは、その沈黙こそが最後に残された敬意だからかもしれませんね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回は「年収1000万でも不幸な理由」について少し書いていますので、お時間あれば読んでみてください。
色々な実例や無意識に行ている人の行動など、少しまとめて記事を書いています。
前回の記事も良かったら見てみてください。
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