量子力学における「時刻の確率分布」
場の量子論を使った素粒子や原子核の研究では、不安定粒子の寿命も重要なテーマです。その崩壊率から計算される、指数関数的崩壊の時間スケールをファインマンダイアグラムから計算できても、崩壊する時刻そのものの確率分布の求め方を知らない人も多いです。たとえば、中性子は真空中では15分ほどの寿命で崩壊し、陽子と電子と反ニュートリノに分解されます。核力などの強い相互作用を記述する量子色力学(QCD)のハミルトニアンの固有状態としての中性子の状態を初期時刻t=0に用意し、その状態が弱い相互作用によって不安定化して崩壊する場合、その粒子が崩壊する時刻は、量子力学では確率的に揺らぎます。その確率分布は実験でも観測できる量になります。では、その時刻の確率分布はどのように計算すればよいのでしょうか?
まず最初に押さえておきたいことは、最低エネルギーを持つ通常の安定な量子系では、ハミルトニアンと下記の正準交換関係を満たす、「時間演算子」というものが存在しない点です。

粒子の位置演算子は、非相対論的な量子力学には存在して、その固有値が観測される粒子の位置となり、観測される位置の値の確率分布も、その位置演算子の固有ベクトルを使って計算することが可能です。しかし、時間については同様の計算方法は存在しないのです。これは「パウリの定理」として知られています。
もし(1)式を満たす自己共役演算子(物理ではエルミート演算子)としての時間演算子が存在するならば、任意の実数εに対して

というユニタリ演算子が作れるはずです。ところが、これは

という関係を満たしてしまいます。すると、

となる、1つのエネルギー固有ベクトルに対して

が成り立ち、そしてこの両辺の左側から(2)式のユニタリ演算子をかければ、

が得られます。これはつまり、エネルギー固有値がE-εとなる

という固有ベクトルが出てくることを意味します。一方で、熱力学的に安定な量子系ではエネルギー固有値に有限の最低値が存在します。

もしεを十分に大きな正の値にとれば、新しい固有値が元のエネルギー固有値の最低値を下回ることになり、矛盾が出ます。

したがって、最低エネルギー固有値を持つ量子系には、時間演算子は存在できないのです。これがパウリの定理です。時間演算子というものが存在できないため、ヒルベルト空間の任意の状態ベクトルに対して、時刻の確率分布を考えることもできません。
しかし、粒子崩壊を導く状態ベクトルに対しては、その崩壊時刻を物理量として定義することが可能となり、確率分布も計算できます。例として、図1のように、時刻t=0に励起状態にある不安定原子を考えます。

やがて原子はガンマ線を出して崩壊します。

図3では、測定機がそのガンマ線を吸収して音を出します。そして、その音が出た時刻を記録します。

同じ初期状態にある不安定原子を多数用意して、この実験を繰り返せば、崩壊時刻の確率分布p(t)が得られます。そしてこの崩壊は、各原子に関してある時刻に1回だけ起き、また観測時間を無限大にしておけば、必ず原子はどこかの時刻に既に崩壊をしているはずなので、このp(t)は下記の規格化条件を満たします。

では、この確率分布p(t)は、どのように理論から計算をすればよいのでしょうか?

今回はその概略を説明してみたいと思います。なおより詳しい説明は、拙書『量子情報と時空の物理【第2版】』(サイエンス社)の第5章を参考にしてください。

まず時刻t=0に初期状態|ψ>を用意し、その時刻tでの状態をユニタリな時間発展演算子を用いて、

と書きます。そして時刻tにおいて、この量子系が初期状態のままであるか、もう壊れてしまったかの測定を行います。その測定は、下記の射影演算子で記述されます。

結果が「0」の場合は、初期状態が壊れていないことを意味し、「1」の場合は、初期状態ベクトルと直交する状態ベクトルの状態にあることを意味します。この初期状態の生き残り確率(suvival probability)は

で計算されます。同様に、初期状態の崩壊確率(decay probability)は

で与えられます。そして、この2つの合計は常に1です。

この初期の状態ベクトルが、核帯部分空間(core-zone subspace)と呼ばれるヒルベルト空間の部分ベクトル空間に属しているとき、一方向性ダイナミクス(one-way dynamics)が満たされます。詳しくは、教科書第5章を参照してください。この一方向性ダイナミクスとは、生き残り確率が単調減少をする時間発展をすることを言います。

これは同時に、崩壊確率が単調増加していることを意味します。

t=0の初期時刻では、まだ状態は初期状態のままなので、崩壊確率は零のままです。

そして、時間が無限に経過すると、必ずその系は既に崩壊しているという前提から、t=∞では崩壊確率は1になっています。

すると、

という積分が得られるため、時刻の確率分布を

で与えることができます。これは(17)式から非負であり、そして(20)式から(10)式の規格化条件も導かれます。(21)式が時刻の確率分布であるという導出の詳細には、連続的な測定を考える必要がありますが、それは前述の教科書第5章をご覧ください。
重要なことは、量子力学でもちゃんと「崩壊時刻の確率分布」を計算できる点です。研究者の中には、ボーム力学などの非標準的な理論でなければ、時刻や時間の確率分布は計算できないと主張をする人もいますが、それは間違っています。
なお、弱い相互作用による中性子などの崩壊時刻の確率分布の具体計算には、場の量子論の繰り込み操作が必要となります。しかし物性系での不安定状態の崩壊時刻の場合には、繰り込みをする必要も普通はありません。
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