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弱値は実在か?

目には見えない、または感じないモノの実在性は、長く物理学者や哲学者によって議論が戦わされてきました。たとえば見えるのはせいぜい光であって、その光を出しているとされる原子自体は見えもしません。そのような原子は本当に実在するのか?という問いや、量子力学に実在はあるのか?という問いなど、そのような多数の問題が物理学にはあります。前世紀には原子論や素粒子論などの還元論的な方法が有効だったため、多くの物理学者は大変素朴な姿勢で実在を信じていた人が多かったのです。

ところが2022年のノーベル物理学賞を与えられたベル不等式の破れの実証や、量子コンピュータなどの基礎である量子情報理論の進展により、今世紀に入って「実在」に対する捉え方の状況は大きく変化してきています。素朴還元論では理解できないホログラフィ原理などの概念が発見されてきたことも、その1つの要因です。

たとえば量子力学も、実在論的理論ではなく、確率や情報に基づいた認識論的理論であることもはっきりとしました。

しかしそのような中で、なんとか「実在」という考え方を保ちたいという人々も居ます。その1つの試みが物理量の弱値(weak value)というものです。通常の理解では、物理量Aの値はエルミート演算子の固有値です。そしてそのAの期待値は、測定の初期状態に対して下記の公式で与えられます。

(1)式:物理量Aの期待値

この拡張として、Aの弱値は2つの状態ベクトルを使って下記のように定義されています。

(2)式:物理量Aの弱値

この弱値は一般に実数の値ではなく、複素数の値をとります。また(2)式右辺の分母に出ている2つの状態ベクトルの内積が零になると、発散する量になっています。ただのこの弱値は膨大な回数の実験を繰り返して統計をとることで、その実部や虚部を実験で測定することが可能です。それが弱測定(weak measurement)です。

通常のAの固有値を測る場合には、たとえばフォンノイマンのポインタ基底測定というものが使えます。その測定では、測定機との相互作用が下記のハミルトニアンで与えられます。

(3)式:フォンノイマンのポインタ基底測定の相互作用

ここでgは実数値をもつ結合定数であり、pは測定機の目盛りの位置に対する運動量演算子です。下記のエルミート演算子Aのスペクトル分解を使うと、この測定の機能が見えやすくなります。

(4)式:Aのスペクトル分解

このAの基底を使って、測定前の系の状態ベクトルを展開します。

(5)式

(4)式と(5)式から、相互作用時間tがgt=1を満たすときに下記の関係が成り立ちます。

(6)式

したがって測定機の針の位置xを測定することで、Aの固有値とその確率分布が計測できます。これがポインタ基底測定です。

Aの弱値を計測する弱測定は、基本的にはこのポインタ基底測定に測定後選択の過程を入れたものです。物理の問題設定として、系の初期状態が未知パラメータθで指定されているとしましょう。その系を、図1のように、説明したポインタ基底測定の装置と相互作用をさせます。この場合の測定装置の初期状態は、デルタ関数のように針の位置に関してシャープな分布にせず、ほぼ全空間に広がるぼやけた分布にします。そして(3)式の結合定数gをものすごく小さな値にとります。これが弱値や弱測定の名前にある「弱い」に当たる特徴です。このようにする理由は、系から取り出される情報を小さくして、測定の反作用を抑えるためです。

図1:弱測定

その弱測定用の相互作用を切った後に、別な測定装置で同じ量子系の異なる物理量Bを理想測定します。そしてBのn番目の固有値が得られるデータだけを残して、他の固有値のデータは廃棄します。これが測定後選択(post-selection)です。そして残ったデータについて弱測定の測定機の針を読み出します。結合定数gが小さいため、その針は大きく揺らいだままですが、繰り返し測定をして統計を溜めることで、Bのn番目の固有状態と初期状態に対して定義された(2)式のAの弱値が計測できます。

こうして得られたAの弱値を、この量子系での実在であるとする主張があるのですが、こう考える気持ちは次のようなものです。まずBの演算子のスペクトル分解を

(7)式

と書けば、その固有ベクトルの完全性関係は

(8)式

で与えられます。この(8)式を用いると、

(9)式

という変形が可能です。この最終の式で、最初の部分はAの弱値に対応し、次の部分が初期状態からBのn番目の固有状態への遷移確率になっています。

(10)式

つまり初期状態に対するAの期待値は、途中でBの測定をして得られる確率に、そのn番目の測定後状態から初期状態へのAの弱値をかけたものの総和でも計算できるのです。もともと結合定数gを極めて小さかったので、量子系に対するAの弱測定の影響を少ないはずです。ですから、最後のBの測定での確率分布は、Aの弱測定をしなかった場合のBの確率分布と大きくはずれないと考えられます。それが(10)式右辺に出てくる確率分布だと解釈をします。Aの期待値はそれにAの弱値をかけて足せば出てくるのですから、弱測定をした時刻にはAは、その弱値の値をとっていると思いたくなるわけです。しかも、ほとんど系を乱さないのが弱測定ですから、「波動関数の収縮」も極めて弱いはずであり、その弱値は測定とは切り離された「実在」として考えられるのではないか?これが弱値の提唱者の主張でした。

では、本当に弱値は実在なのでしょうか?実は、この実在解釈にはいろいろな問題があります。たとえば日常で「実在」と呼びたくなる対象は、ちょっとしたした力を与えても、その状態が大きく変化しません。「月は実在だと感じる」と言う場合でも、月に小さな隕石があたって多少形や軌道が変わっても影響を受けない、つまり摂動に対して安定な性質を感じ取っているからです。ところが、弱値は違います。(2)式の弱値の定義の分母に出てくる2つの状態ベクトルの内積が正であるが、ほぼ零の場合を考えましょう。その絶対値は非常に大きな値を取ります。しかし、すこしだけ2つのベクトルのうちのどちらだけをずらして、その内積をほぼ零であるが負の値にします。すると、(2)式の弱値の符号はいきなり反転するのです。非常に小さな摂動しか与えなくても、弱値はたとえばプラス無限大からマイナス無限大に変化してしまうものなのです。これでは普通の感覚での実在からはほど遠いと言えます。

またそもそも実数ではなく、複素数であることも悩ましい部分です。確率分布を与える射影演算子Pに、Aをとった場合を考えます。その固有値は0か1であり、その期待値はその状態でのある事象の出現確率を与えます。しかしそのPの弱値は複素数になります。すると確率としての解釈が難しくなります。たとえばPの弱値はマイナス無限大からプラス無限大の値をとれたりします。弱値が0や1だったとしても、その0や1には特別な意味はないのです。それがその事象が絶対起きないとか、必ず起きるとかを意味しません。これについては下記の記事も参照してください。

また弱測定は完全に系を乱さない測定でもありません。小さくてもgが有限である限り、情報が系が取り出され、その情報量に応じて系の状態は反作用を測定から受けています。gの零極限では、状態変化がない代わりに、なんの情報も取り出せないのが弱測定です。弱測定は、量子測定理論における普通の一般測定の一種にすぎません。ですから、測定反作用無しで、有意な情報を取り出せるわけがないのです。弱値は、物理量演算子の固有値のように1回の実験試行で値が確定する量ではなく、多数のデータから浮かび上がってくる統計量です。つまり、波動関数や状態ベクトルと同じカテゴリの量にすぎず、1回の試行だけで明確にその値が確定できる真正の実在とは解釈できないのです。

弱値が実在だとする解釈には無理があるのですが、弱測定と弱値自体にはメリットもあります。最後にそれにも触れておきます。図1では、初期状態を未知パラメータθに依存させていました。このθの値が常に小さなときに、測定でそれを推定する場合に、弱測定は力を発揮することもあります。それは現実の実験で使う装置の性能限界に関係があります。小さなθの値をそれほど多くない試行回数では決定できない実験装置だとします。その場合でも、(2)式の弱値の分母が小さくなるように初期状態を決めれば、実験における信号の増幅が実質的に起きるのです。もし測定機の性能が悪く、数回の実験試行で有意な情報を抜き出せないときでも、膨大な試行数を確保できる場合には、この増幅効果で小さなθの値をこの装置で決定することが可能となるのです。ただし、弱測定は、測定後選択で膨大なデータを捨てています。これは無駄が多いことを意味するのですが、この無駄を伴うデータ数を時間をかけて膨大に溜めることにより、通常の使用法では系統誤差のために手の届かない、高い精度のパラメータ推定を、弱測定では達成できるのです。ですから、量子光学のように相対的に安く、そして短時間に膨大なデータをとれる分野では、弱測定の増幅効果のメリットは享受しやすいです。一方で高エネルギー物理学のような、1つ1つのデータを得るのに長い時間とお金がかかる場合には、簡単に弱測定のメリットが発揮されることはありません。


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