見出し画像

量子もつれからの時空創発:笠-高柳公式の衝撃

量子重力理論の研究の中で、いくつかの特筆すべき成果が知られています。その1つが、2006年当時に同じカリフォルニア大学(サンタバーバラ校)カブリ理論研究所でポスドクをしていた、物性理論研究者の笠真正と超弦理論研究者の高柳匡という、二人の日本人による発見です。今では「笠=高柳公式」と呼ばれているこの成果は、その後世界中の多くの研究者に関心を持たれて、大きな分野を生み出しました。それは、量子もつれが時空や物質を生み出す「It From Qbit」、「万物は量子情報」という思想に基づいた研究潮流です。

笠と高柳の仕事は、AdS/CFT対応という超弦理論の双対性を基本としています。これはジュアン・マルダセナという人が1997年に発表した理論です。ここでAdSとは反ドジッター(anti-de Sitter)時空のことであり、その量子重力理論を指します。またCFTとは1つ空間次元が小さな平坦時空での共形場理論(conformal field theory)を指します。図1のように、曲がった時空である反ドジッター時空の量子重力が、その無限遠方の空間境界に存在している平坦な物質場の理論と等価であるという主張がAdS/CFT対応です。

図1:2+1次元の反ドジッター(AdS)時空 (credit: Polytope24)

この図1では、空間が2次元の円内部で、その境界は端の1次元円周になっています。時空次元が異なるふたつの理論が実は等価であるというのです。時空としては2次元のフィルムとしての境界面から、内部の中の3次元的な時空が生み出されていると見れば、これは量子光学のホログラムのような対応であることが分かります。これはゲラルド・トフーフトとレオナルド・サスキンドがAdS/CFT対応以前に提案していた「ホログラフィ原理」の具体的な実現になっています。ブラックホールのエントロピーは体積に比例せず、事象の地平面の面積を重力定数Gの4倍で割ったもので書かれます。ホログラフィ原理では、ブラックホール内部の自由度が地平面表面の自由度に置き換わっているという解釈で、面積に比例するこのエントロピーを捉えます。

笠と高柳は、更にこの議論を深化させました。無限遠方の境界に住んでいる物質場の共形場理論において、図2の左のように隣接した2つの領域を考えて、その間の量子もつれエントロピー(entanglement entropy)を考察しました。その結果、図2の右にように、その境界をもつ反ドジッター空間における最小曲面の面積でその量子もつれエントロピーが書けるという提案を行ったのです。

図2:共形場理論の量子もつれとAdS時空の最小曲面の面積を結び付けた笠=高柳公式

以下では

$$
c=\hbar=k_B=1
$$

という自然単位系を採用します。このとき、笠=高柳公式は

$$
S=\frac{A}{4G}
$$

となります。ここで左辺は共形場理論の量子もつれエントロピーであり、右辺は最小曲面の面積Aを4Gで割ったものなっています。量子もつれが時空内の面積というもので記述されることが分かったのです。つまり「量子もつれ→時空の幾何学としての面積」ということが示されました。特に公式の右辺の形自体が、係数まで含めてブラックホールエントロピーの形と一致していることは、多くの物理学者を驚かせました。

ところで、笠=高柳公式の発見以前の1995年に、テッド・ヤコブソンという研究者によって、ブラックホールエントロピーの形からアインシュタイン方程式が導けるという主張が既に為されていました。任意の曲がった時空の各点には局所慣性座標系が存在します。これは各点近傍にほぼ平坦な座標系がとれることを意味します。その点の周りでは、等価原理によって重力は消滅しています。この意味で、この座標系では局所的に真空と考えてみようと、ヤコブソンは言います。そしてその座標系内で、一様加速度運動をする観測者を考えると、場の零点振動が、加速度κに比例した、下記の温度Tの熱浴に化けます。

$$
T=\frac{\kappa}{2\pi}.
$$

これはウンルー効果と呼ばれています。

平坦時空で加速する観測者にとっての地平面は「リンドラー地平面」と呼ばれ、これは質量無限大でのブラックホール地平面に対応します。このような状況で、非常に薄い濃度のエネルギー流を伴った物質のエネルギー運動量テンソルを摂動的に扱ってみます。そしてこのエネルギー流がリンドラー地平面に吸収される設定をとります。このとき対応する熱力学の第1法則から、物質の熱エネルギー変化δQは、ウンルー熱浴の温度Tにエントロピー変化δSをかけたもので与えられます。

$$
\delta Q= T \delta S.
$$

そして物質のエネルギー運動量テンソルTとリンドラー地平面に接するベクトルkを使って、このδQを書くことができます。

$$
\delta Q \rightarrow T_{\mu\nu} k^\mu k^\nu.
$$

ここでヤコブソンはこのSをブラックホールのエントロピーと同様に、リンドラー地平面の面積を4Gで割ったものに同定して、時空曲率のリッチテンソルで

$$
\delta S=\frac{1}{4G}\delta A \rightarrow R_{\mu\nu} k^\mu k^\nu
$$

という対応を置きました。局所慣性系におけるリンドラー地平面とのその接ベクトルは様々にとれるので、その自由度があってもこの対応が成り立つためにはスカラー量Fを用いて

$$
R_{\mu\nu} -g_{\mu\nu} F=8\pi G T_{\mu\nu}
$$

という関係が成り立つとヤコブソンは主張したのです。そして共変的な物質のエネルギー運動量テンソルの保存則を課すことで、アインシュタイン方程式が得られます。

$$
R_{\mu\nu} -\frac{1}{2}g_{\mu\nu}R +\Lambda g_{\mu\nu} =8\pi G T_{\mu\nu}.
$$

これは面積から曲がった時空の体積部分の物理法則が出てきたことを意味します。つまりヤコブソンは「時空の幾何学としての面積→曲がった時空の体積」という関係を示したのでした。これと笠=高柳公式の「量子もつれ→時空の幾何学としての面積」を組み合すと、「量子もつれ→曲がった時空の体積」となり、量子もつれから時空の創発が導かれることになります。これを「量子もつれからの時空の創発」と呼びます。つまり、笠=高柳公式は、時空を量子情報として捉える道を開いたのです。そして現在も活発に議論をされている「万物は量子情報」という、世界的な一大研究潮流を生み出したのでした。笠と高柳は、この成果で国際的な賞を多数受賞しています。


いいなと思ったら応援しよう!

Masahiro Hotta サポートありがとうございます。