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💟北陞朝廷に぀いお

🎀䞲呂哲孊研究ノヌト 第19号

この蚘事は、神皇正統家しんのうしょうずうけ極秘䌝ごくひでん・神颚䞲呂しんぷうかんろカミカれクシロを分かりやすく解説したものです。

䞲呂クシロかんろずは、元䌊勢䌝承で皇祖神が各地を行脚しながら構築した「元䌊勢クシロ」の事です。

元䌊勢クシロは、皇城守護の結界のこずだずいわれおいたすが、その結界ずは、神颚䞲呂しんぷうかんろカミカれクシロのこずだったのです。䞲呂は、極秘で構築されお来たので、そのように蚀われおきたのです。

神颚䞲呂は、地文ちもん地名を研究するこずで倩地神明の存圚を認識するこずのできる神道皇霊孊しんずうこうれいがくで、神囜日本再建のために皇祖神によっお構築されたした。

地名地文ちもんに秘められた倩地神明の啓瀺を解明する孊問が神颚䞲呂䞲呂哲孊です。

ここでは、「北陞朝廷に぀いお」ご玹介し、詳しい解説をしおいたす。

神颚䞲呂しんぷうかんろカミカれクシロを孊ぶこずによっお、日本が神囜である事実を認識し、皇祖神からの神劙なる息吹を䜓感䜓埗するこずができるでしょう

䞲呂䞻宰神䌊勢神宮の倧神が、長期間掛け苊心惚憺くしんさんたんの末に構築された神颚䞲呂に孊べば、我が囜は倩䜑神助により日本民族本来の力を発揮出来るようになるでしょう。 


🔎日本囜再建の為の必読曞神颚䞲呂の集倧成オンラむン埩刻版



、北陞朝廷ずは

『倪平蚘』巻17の8によれば、延元元幎1336幎10月9日、比叡山においお受犅の儀が行われたず出おいたす。埌醍醐倩皇は比叡山に斌お譲䜍されたずいうこずです。

九日は事隒さわがしき受犅じゆぜんの儀、還幞かんこうの装よそほいに日暮くれぬ。倪平蚘巻17の8

䞉浊家に䌝承された系図によるず、延元元幎1336幎10月9日、比叡山に斌お䞉浊家の遠祖である倧統おおずう宮守氞もりなが芪王興囜倩皇が埌醍醐倩皇から皇䜍を継承されたず曞かれおありたした。

この䞉浊家の系図を裏付けるように、新田矩貞・脇屋矩助らに奉戎されお北陞に萜ちお行った新倩皇が、倩䞋に号什をかけた文曞が通残っおいたす。それは、癜河文曞結城文曞綞旚通ず埗江文曞癜鹿二幎行貞奉執達状ず呌ばれる軍忠曞埡教曞通です詳现埌述。

これらのこずから、圓時、北陞・東北方面に新田氏らに擁立された倩皇を戎く朝廷が存圚したこずは明らかであるずいう芖点に基づき、芁点のみを指摘し、詳现は歎史の専門家に委ねたいず思いたす。


🟢足利氏による皇統簒奪こうずうさんだ぀背乗はいのり事件に぀いおの必読曞


、䞲呂哲孊の理解を助ける予備知識

初めおの方は、䞋蚘の蚘事を参照しおください。


、北陞朝廷の倩皇は誰だったのか

北陞朝廷の倩皇が誰であるのかずいう問いに察しおは、倪平蚘に「春宮に倩子の䜍を譲りお」ず出おいるため、ほずんどの方が圓時の春宮皇倪子であった恒良芪王ずしおいたすが、これは金ケ厎城萜城時の状況から、恒良芪王は敵の目を欺くための身代わり擬装であったず考えおいたす。

䜆し朕京郜ぞ出いでなば、矩貞华぀お朝敵の名を埗぀ず芚ゆる間、春宮に倩子の䜍を譲りお、同じく北囜ぞ䞋し奉るべし。倩䞋の事小倧なにずなく、矩貞が成敗ずしお、朕に替はらず歀の君を取り立お進すべし。『倪平蚘』巻17の8

ここでは、埌醍醐倩皇が譲䜍したのは恒良芪王ではないずいう芖点に基づき、状況蚌拠を点列挙したした。


春宮恒良芪王は幌少だった

この時、正䞭元幎1324幎生たれの春宮「恒良芪王」は数えの13歳で、ずおもこの難局を切り抜ける事は出来ないだろうずいうこずから、埌醍醐倩皇は、これたで新田矩貞ず行動を共にしおきた尊良芪王に譲䜍したのでありたす。神霊界からの䞉浊芳聖ぞの啓瀺

【参照】『りィキペディアWikipedia』恒良芪王


城を脱出する機䌚があったのに同行しおいない

たた倪平蚘には、萜城に先立っお新田矩貞・脇屋矩助ら蚈名が城を脱出したず出おいたすが、皇䜍を継承したのが「恒良芪王」であったなら、新倩皇を蚗された新田矩貞・脇屋矩助らが「恒良芪王」を金ヶ厎城に残したたた萜ちおいくはずはありたせん。恒良芪王が新倩皇であったのなら、この時、䞀緒に城を脱出しおいるはずでありたす。

総倧将埡兄匟窃に城を埡出候お杣山ぞ入せ絊ひ、䞎力の軍勢を被催お、寄手を被远払候ぞかしず、面々に被勧申ければ、珟にもずお、新田巊䞭将矩貞・脇屋右衛門䜐矩助・掞院巊衛門督実䞖・河島巊近蔵人惟頌を案内者にお䞊䞋䞃人、䞉月五日の倜半蚱に、城を忍び抜出お杣山ぞぞ萜著せ絊ひける。 䞉月五日は二月五日の誀り『倪平蚘』巻18の6

この䞊䞋䞃人の䞭に、倧統おおずう宮守氞もりなが芪王興囜倩皇ず女官二名が同行しおいたした。神霊界からの䞉浊芳聖ぞの啓瀺


恒良芪王は萜城時に蕪朚浊に眮き去りにされた

金ケ厎城が萜城するずき、気比斎晎は、恒良芪王を小船に乗せ城倖に脱出、蕪朚浊の持民に杣山城ぞお送りするよう蚗したあず、再び城内に舞い戻っお殉死しおいたす。『倪平蚘』巻18の6、詳现埌述

恒良芪王が、皇䜍継承者新倩皇であったなら、持民に蚗しお眮き去りにするような無瀌なこずはしないはずです。

気比斎晎は、恒良芪王をお守りしお杣山城に送り届けるこずより、尊良䞊皇に殉死するこずの方が重倧事であったから、圓時の歊士の䟡倀刀断に基づいた圓然の行動をしたのです。

恒良芪王が皇䜍継承者でなかった事は、以䞊の経緯から自明の理であり、これらの状況から、神霊界から䞉浊芳聖にあった啓瀺のように、東山倩皇尊良が、皇䜍を継承した倩皇であったこずは間違いないず考えられたす。


、東山倩皇尊良

東山倩皇尊良は、嘉元2幎1304幎8月8日埡降誕。父は埌醍醐倩皇、母は埡子巊倧玍蚀二条為䞖の女・為子。皇后は右倧臣西園寺公顕の女・藀原枅子埡匣殿。東山の莈名は、埡陵が京郜垂巊京区南犅寺の東山の麓にあるこずから神界から莈られた。

䞉浊家に䌝承された系図によるず、埌醍醐倩皇の次は興囜倩皇守氞が皇䜍を継承したず曞かれおあったが、神界からの霊瀺に基づき䞉浊芳聖が神颚䞲呂で調査研究したずころ、比叡山においお皇䜍を継承したのは東山倩皇尊良であるこずが刀明した。延元元幎1336幎 10月9日、比叡山に斌いお埌醍醐倩皇から譲りを受けお践祚。

埌醍醐倩皇から䞉浊芳聖ぞの霊瀺芁玄
 䞉浊芳聖が豊川垂垂田町諏蚪林37番地に転居埌の昭和25幎1950幎8月15日、正午から玄䞀時間にわたっお埌醍醐倩皇から埡神瀺があり「延元元幎比叡山に斌いお足利軍に包囲されたずき高氏から起請文が寄せられたが、これは䞉皮の神噚を奪い取るための謀略であるず芋抜き、第䞀皇子の尊良芪王に譲䜍した埌、高氏の請いを入れお京郜ぞ還幞したように装った。
 非垞の堎合であるので衚向きは恒良芪王に譲䜍したように芋せかけたが、皇䜍は尊良芪王以倖には誰にも譲䜍しおいない。ただし『将来必ず守氞芪王に譲䜍する事』ずいう条件は付けた。
 尊良倩皇は金ケ厎の萜城以前に守氞芪王に譲䜍し、矩貞・矩助らに女官二人を付けお杣山ぞ萜ずした。これらは神颚䞲呂によっお蚌明せられおある。埌醍醐倩皇の皇䜍を継承しおいる神皇正統たる所以である。
 数ある皇子の䞭で尊治の尊ずいう字は尊雲、尊柄などの法芪王は別にしお尊良芪王以倖には付けおいない。」              

『神颚䞲呂解明』(昭和40幎7月24日発行、通算125号

延元2幎1337幎2月5日、第䞀皇子守氞芪王に譲䜍。

東山倩皇尊良の圚䜍期間は、延元元幎1336幎 10月9日から延元2幎1337幎3月6日たでのおよそ5か月間ずいうこずになりたす。

延元2幎1337幎3月6日、金ヶ厎城が萜城し、東山䞊皇尊良は新田矩貞の嫡男、新田矩顕らず共に壮烈無比の最期を遂げられたした。   

このずき、藀原行房、新田矩顕、気比氏治、気比斎晎、里芋矩氏、由良具滋、長浜顕寛、歊田與䞀らの将士が殉死し、倚くの兵士玄300名が自害しおいたす。

🟡『倪平蚘』巻18の6より珟代仮名遣い
新田越埌守矩顕にったえちごのかみよしあきは、䞀宮いちのみやの埡前おんたえに参りお、「合戊かっせんの様よう今は是これたでず芚おがえ候そうろう。我等、力無ちからなく、匓箭きゅうせんの名を惜しむ家にお候そうろう間あいだ、自害じがい仕぀かた぀らんずるにお候そうろう。䞊様うえさたの埡事おんこずは、瞊たずえ敵の䞭ぞ埡出おんいで候そうらえ共ども、倱い進たいらするたでの事はよも候そうらわじ。只加様ただかようにお埡座ござ有るべしずこそ存ぞんじ候そうらえ。」ず申されければ、

䞀宮いちのみや、䜕い぀よりも埡快気おんこころよげに打ち笑えたせ絊いお、「䞻䞊しゅじょう垝郜おいずぞ還幞かんこう成りし時、我を以お元銖がんしゅの将ずし、汝を以お股肱ここうの臣為たらしむ。倫それ股肱ここう無くしお元銖がんしゅ持たも぀事を埗んや。されば吟れ呜めいを癜刃はくじんの䞊に瞮めお、怚あたを黄泉こうせんの䞋もずに酬むくわんず思う也なり。抑そもそも自害をば劂䜕様いかようにしたるがよき物ぞ。」ず仰おおせられければ、

矩顕よしあき感涙かんるいを抌さえお、「加様かように仕぀かた぀る者にお候そうろう。」ず申しもはおず、刀を抜いお逆手さかおに取り盎し、巊の脇に突き立お、右の小脇こわきのあばら骚二䞉枚懞かけお掻かき砎り、其の刀を抜いお宮の埡前に差し眮きお、う぀ぶしに成りおぞ死ししにける。

䞀宮、軈やがお其の刀を召され埡芧ごらんずるに、柄口぀かぐちに血䜙あたりすべりければ、埡衣ぎょいの袖にお刀の柄぀かをきりきりず抌し巻かせ絊いお、雪の劂くなる埡膚おんはだえを顕わし、埡心おんむねの蟺りに突き立お、矩顕が枕たくらの䞊に䌏させ絊う。

頭倧倫ずうのだいぶ行房ゆきふさ・里芋さずみ倧炊助おおいのすけ矩氏よしうじ・歊田の䞎䞀よいち・気比けひの匥䞉郎やさぶろう倧倫たゆう氏治うじはる・倧田垥おおたそ぀の法県ほうげん以䞋いげ埡前おんたえに候そうらいけるが、いざさらば宮の埡䟛おんずも仕぀かた぀らんずお、同音どうおんに念仏唱えお䞀床に皆腹を切る。

是これを芋お庭䞊おいじょうに䞊なみ居たる兵぀わもの䞉癟䜙人、互に差違さしちがえ々々さしちがえ匥いやが䞊に重䌏かさなりふす。

原文の里芋倧炊助時矩は矩氏の誀りのようです。蚂正したした。

新田越埌守矩顕は、䞀宮の埡前に参お、「合戊の様今は是たでず芚ぞ候。我等無力匓箭の名を惜む家にお候間、自害仕らんずるにお候。䞊様の埡事は、瞊敵の䞭ぞ埡出候共、倱ひ進するたでの事はよも候はじ。只加様にお埡座有べしずこそ存候ぞ。」ず被申ければ、䞀宮䜕よりも埡快気に打笑せ絊お、「䞻䞊垝郜ぞ還幞成し時、以我元銖将ずし、以汝什為股肱臣。倫無股肱元銖持事を埗んや。されば吟呜を癜刃の䞊に瞮めお、怚を黄泉の䞋に酬はんず思也。抑自害をば劂䜕様にしたるがよき物ぞ。」ず被仰ければ、矩顕感涙を抌ぞお、「加様に仕る者にお候。」ず申もはおず、刀を抜お逆手に取盎し、巊の脇に突立お、右の小脇のあばら骚二䞉枚懞お掻砎り、其刀を抜お宮の埡前に差眮お、う぀ぶしに成おぞ死にける。䞀宮軈お其刀を被召埡芧ずるに、柄口に血䜙りすべりければ、埡衣の袖にお刀の柄をきりず抌巻せ絊お、劂雪なる埡膚を顕し、埡心の蟺に突立、矩顕が枕の䞊に䌏させ絊ふ。頭倧倫行房・里芋倧炊助矩氏・歊田䞎䞀・気比匥䞉郎倧倫氏治・倧田垥法県以䞋埡前に候けるが、いざゝらば宮の埡䟛仕らんずお、同音に念仏唱お䞀床に皆腹を切る。是を芋お庭䞊に䞊居たる兵䞉癟䜙人、互に差違々々匥が䞊に重䌏。

『倪平蚘』巻18の6

気比斎晎にいたっおは、恒良芪王を小船に乗せ城倖に脱出、蕪朚浊の持民に杣山城ぞお送りするよう蚗した埌、再び城内に舞い戻っお殉死しおいたす。

気比倧宮叞倪郎は、元来力人に勝お氎緎の達者なりければ、春宮を小舟に乗進せお、櫓かいも無れ共綱手を己が暪手綱に結付、海䞊䞉十䜙町を枞で蕪朚の浊ぞぞ著進せける。是を知人曎に無りければ、朜に杣山ぞ入進せん事は最安かりぬべかりしに、䞀宮を始進せお、城䞭人々䞍残自害する凊に、我䞀人逃お呜を掻たらば、諞人の物笑なるべしず思ける間、春宮を怪しげなる浊人の家に預け眮進せ、「是は日本囜の䞻に成せ絊ふべき人にお枡せ絊ふぞ。劂䜕にもしお杣山の城ぞ入進せおくれよ。」ず申含めお、蕪朚の浊より取お返し、本の海䞊を枞ぎ垰お、匥䞉郎倧倫が自害しお䌏たる其䞊に、自我銖を掻萜お片手に提、倧膚脱に成お死にけり。『倪平蚘』巻18の6

気比斎晎にずっおは、恒良芪王をお守りしお杣山城に送り届けるこずより、尊良䞊皇に殉死するこずの方が重倧事であったので、圓時の歊士の䟡倀刀断に基づき圓然の行動をしたのです。

東山倩皇尊良の埡陵は京郜垂巊京区南犅寺䞋河原町。お宮は金厎宮犏井県敊賀垂金ヶ厎町1-4で、明治23幎1890幎9月、金ヶ厎城址に尊良芪王を埡祭神ずしお建立され、官幣䞭瀟に加列されたした。

尊良芪王墓
尊良倩皇埡陵お銖塚京郜垂巊京区南犅寺䞋河原町

明治251892幎幎11月、恒良芪王が合祀され、明治26幎1893幎珟圚地に瀟殿が竣工しお遷座したした。いわゆる建歊䞭興十五瀟建歊䞭興に尜力した南朝偎の皇族・歊将などを䞻祭神ずする15の神瀟のひず぀でありたす。 

金埌神宮 (2)
金厎宮犏井県敊賀垂金ヶ厎町1-4

【参照】東山倩皇尊良 䞲哲№23


、興囜倩皇矩貞・矩助らず城を脱出

興囜倩皇守氞は、嘉暊3幎1328幎9月、京郜で降誕。父・尊良芪王、母・右倧臣西園寺公顕の女・藀原枅子埡匣殿。埌醍醐倩皇の猶子ずなる。第䞃の宮。倧統おおずう宮守氞もりなが芪王。

越前金ヶ厎城に斌お父・東山倩皇尊良から譲りを受けお践祚。延元2幎1337幎2月5日、新田矩貞、脇屋矩助、掞院実䞖、河嶋惟頌ほか3名蚈7名が、倜陰にたぎれお金ヶ厎城を脱出、杣山城に逃れ再起を図った。

総倧将埡兄匟窃に城を埡出候お杣山ぞ入せ絊ひ、䞎力の軍勢を被催お、寄手を被远払候ぞかしず、面々に被勧申ければ、珟にもずお、新田巊䞭将矩貞・脇屋右衛門䜐矩助・掞院巊衛門督実䞖・河島巊近蔵人惟頌を案内者にお䞊䞋䞃人、䞉月五日の倜半蚱に、城を忍び抜出お杣山ぞぞ萜著せ絊ひける。 䞉月五日は二月五日の誀り『倪平蚘』巻18の6

この時、新田矩貞らは東山倩皇尊良から皇䜍を継承した第䞀皇子の守氞芪王興囜倩皇を奉戎しおいた。無二心忠誠の新田氏が、倩皇を眮いお萜ちおいくはずがないからである。幌少の新倩皇には藀原茂子ら名の女官が付き埓っおいた。神霊界からの䞉浊芳聖ぞの啓瀺

延元3幎1338幎閏7月2日、新田矩貞が戊死したので官軍は壊滅し、興囜倩皇は新田矩貞の旗䞋にあった神保安芞守に擁立され、女官らず共に越䞭守山城に入ったが、ここもわずか40日で萜城したので、森茂もりも岐阜県飛隚垂神岡町に藀原茂子ず朜䌏、その埌、宗良芪王を頌っお井䌊谷城ぞ入る。神霊界からの䞉浊芳聖ぞの啓瀺

以埌各地を転戊。正平23幎1368幎3月23日、宗良芪王の第䞀皇子・興良芪王小束倩皇に譲䜍。

興囜倩皇守氞の圚䜍期間は、延元2幎1337幎2月5日から正平23幎1368幎3月23日たでのおよそ31幎間です。

埓っお、延元2幎1337幎2月9日付けの右衛門督名の綞旚は、興囜倩皇守氞が出された綞旚ず考えられたす。 詳现埌述

たた、癜鹿2幎1346幎に越前の埗江九郎頌員あおの䞭院右䞭将名で出された「埡教曞」埗江文曞・癜鹿二幎行貞奉執達状も、興囜倩皇守氞が出されたものず考えられたす。詳现埌述

【参照】興囜倩皇守氞もりなが 䞲哲№52


、北陞朝廷の存圚を蚌明する通の叀文曞

新田矩貞・脇屋矩助らに奉戎されお北陞に萜ちお行った新倩皇が、延元元幎1336幎11月12日、越前敊賀の金ヶ厎城においお巊䞭将新田矩貞の名前で、延元2幎1337幎2月9日には、右衛門督脇屋矩助の名前で、倩䞋に号什をかけた文曞いずれも結城宗広宛の綞旚が残っおいたす。癜河文曞たたは結城文曞ずいいたす。

たた、癜鹿2幎1346幎に越前の埗江九郎頌員あおの䞭院右䞭将名で出された「軍忠曞埡教曞」が残っおいたす。埗江文曞・癜鹿二幎行貞奉執達状

癜河文曞尊良倩皇の綞旚

延元元幎133611月12日付けの「尊氏盎矩以䞋逆埒远蚎の事」ずいう衚題で「結城䞊野入道通」結城宗匘あおに味方に銳せ参ずるように督促した綞旚で「巊䞭将」新田矩貞の名前で通達されおいる。

尊氏盎矩以䞋逆埒远蚎の事
先床被䞋綞旚了去月十日所有臚幞越前囜鶎賀接也
盞催䞀族䞍廻時刻銳参可什誅䌐圌茩斌恩賞者可䟝請者
倩気劂歀悉之以状 
 延元々幎十䞀月十二日      巊䞭将圚刀 
結城䞊野入道通

本文を曞き䞋し文・口語文にするず、それぞれ次のようになる。

    高氏・盎矩ただよし以䞋逆埒远蚎ぎゃくず぀いずうの事
先床綞旚りんじを䞋されおわんぬ。去月十日越前囜鶎賀接぀るが぀に臚幞あるずころなり。䞀族を盞催し、時刻をめぐらさず銳参はせさんし、かの茩ずもがらを誅䌐ちゅうば぀せしむべし。恩賞においおは、請いによるべし、おぞれば、倩気かくのごずし。これを぀くせ、も぀お状す。
 延元々幎十䞀月十二日            巊䞭将圚刀  
結城ゆうき䞊野こうずけ入道通

森茂暁「倪平蚘の矀像」207頁/角川゜フィア文庫

高氏・盎矩以䞋逆埒远蚎の事
さきごろ綞旚を䞋された。先月十日、越前囜の敊賀枯金ヶ厎城に臚幞䞭である。䞀族を盞催し時間をかけずすぐに銳せ参じ、かの茩尊氏盎矩以䞋逆埒を誅䌐させなさい。恩賞は望みどおり䞎える。倩皇のお気持ちはこのようである。このようにしなさい。以䞊、通達する。

この越前囜鶎賀接金ケ厎城から綞旚が発せられた、延元元幎133611月12日の時の倩皇は東山尊良倩皇です。埓っお、この綞旚は、東山尊良倩皇が出された綞旚ずいうこずになりたす。

癜河文曞興囜倩皇の綞旚

延元2幎13372月9日には、同じく「結城䞊野入道通」あおに味方に銳せ参ずるように督促した綞旚が、「右衛門督」の名前で通達されおいたす。 

床々被䞋綞旚了急盞催䞀族可銳参者倩気劂歀悉之
延元二幎二月九日     
              右衛門督圚刀
 結城䞊野入道通

本文を曞き䞋し文・口語文にするず、それぞれ次のようになりたす。

床々綞旚を䞋されおわんぬ。急ぎ䞀族を盞い催し銳せ参ずべし。倩気かくのごずし。これを぀くせ。

重ねお綞旚を䞋された。急いで䞀族を盞催し銳せ参ずるべきである。倩皇のお気持ちはこのようである。このようにしなさい。 

延元2幎13372月9日、この時の倩皇は、興囜倩皇守氞です。

癜鹿二幎行貞奉執達状興囜倩皇の文曞

「埗江文曞」は、前田旧候爵家が所蔵しおいた叀文曞で、癜鹿2幎1346卯月20日付けで埗江九郎頌員あおに出された「軍忠曞埡教曞」で、䞭院右䞭将の名前で通達されおいたす。珟圚この文曞は「癜鹿二幎行貞奉執達状」ず呌ばれ、尊経閣文庫に保存されおいるほか、東京倧孊史料線纂所にも写真が有りたす。

埗江九郎の頌員の軍忠を賞し、䞀統のあか぀きには真っ先に恩賞を䞎えようずいう、䞭院右䞭将の仰せを䌝達するものである。

森茂暁『倪平蚘の矀像 南北朝を駆け抜けた人々』208頁

1346幎4月20日付けずいうこずは、興囜倩皇守氞は、その頃、霊山城犏島県䌊達垂ず盞銬垂ずの境、宇接峯城犏島県郡山垂ず須賀川垂の境等に入っおおられたす。

埓っお、この文曞も、延元2幎13372月9日の綞旚癜河文曞同様、興囜倩皇守氞が発行された文曞ずいう事になりたす。

藀原石山氏の解説

藀原石山著『南朝正統皇䜍継承論』には、次のように述べられおいたす。

日本史の盲点を開く『結城文曞』
 『結城文曞』は、癜河結城氏の家䌝文曞で『癜河文曞』ずもいわれおいるが、時代の倉遷に䌎う同氏分裂や皮々な瀟䌚的事情により諞方に分散され、珟圚埌裔の結城錊䞀氏、結城神瀟、束平旧䌯爵家、䌊藀旧䌯爵家その他に䌝わっお居り、既に原本を倱い写しだけのものもある。
 本叀文曞によっお結城宗広等同氏䞀族の南朝事跡を明かにするこずが出来るのみならず、南朝の元老北畠芪房が垞陞に圚陣䞭結城芪朝に送った数十通に及ぶ文曞は、芪房の思想事瞟を極めお明瞭に瀺す重芁な史料である。

結城文曞
尊氏盎矩以䞋逆埒远蚎の事
先床被䞋綞旚了去月十日所有臚幞越前囜鶎賀接也盞
催䞀族䞍廻時刻銳参可什誅䌐圌茩斌恩賞者可䟝請
者倩気劂歀悉之以状
延元元幎十䞀月十二日     
              巊䞭将圚刀
 結城䞊野入道通

 この文曞に「所有臚幞越前囜鶎賀接也」及び「倩気劂歀悉之以状」ずあるは、綞旚の圢匏であっお『倪平蚘』に芋える叡山の受犅の儀は、史実ず芋なければならない。

南北朝時代の謎を解く『埗江文曞』
 『埗江文曞』は、前田旧䟯爵家に所蔵せられる叀文曞である。癜鹿二幎卯月廿日の䞭院右䞭将某の埡教曞があり、越前の埗江頌員に宛お朝敵察治のため急ぎ埡方に参向すべき旚を䌝えたものである。文曞の圢状は、極めお小型でいはゆる髪綞旚に類するものである。なほ特異なるこずは、癜鹿の幎号である。癜鹿の幎号は、本文曞ず京郜竜安寺西源院本『倪平蚘』第二十五の泚蚘に芋える以倖に絶えお芋ないずころである。
 癜鹿元幎は北朝貞和元幎で南朝の正平元幎に圓る。埗江氏は、北陞の人であるから北陞の宮方が甚いたものである。圓時吉野の朝廷に興囜、正平の幎号があるに拘わらず、癜鹿の幎号が北陞の官軍に甚いられた事は、北陞に朝廷が存圚し、この地方の宮方の奉じた王子が倩皇の資栌を具えおいた蚌拠である。

藀原石山著『南朝正統皇䜍継承論』102103頁

、『南北朝時代史』田䞭矩成

田䞭矩成博士は、『南北朝時代史』倧正11幎/1922幎に斌いお、比叡山に斌お譲䜍があった根拠ずしお䞋蚘のように述べ、埌醍醐倩皇の譲䜍はあったず思われるず結論されおいたす。

ア倪平蚘に所謂叡山にお内々埡譲䜍の説は、其の実を埗たりず掚定すべし。倪平蚘にある叡山での埡譲䜍説は実際にあったず思われる。

む癜鹿の幎号は、或は同芪王を擁せるものの建぀る所歟か、而しおかく特に幎号を建぀るは、蓋し恒良芪王以来北陞朝廷ずいふ考が継続せるにはあらざる歟か、是亊かの倪平蚘に蚘する所の埡譲䜍説を確かむる䞀資料なるべし。癜鹿の幎号は宗良芪王を擁立せる者が建おたものか、癜鹿の幎号を建おたのは北陞朝廷ずいう考えが継続しおいたからではないのか、この事は倪平蚘に蚘録されおいる埌醍醐倩皇の埡譲䜍説を確定する䞀資料であろう。

【参照】田䞭 矩成著『南北朝時代史』第43ç«  埌醍醐倩皇尊氏ず埡和睊


、皇子たちの南北朝森 茂暁

森茂暁氏は『皇子たちの南北朝』に斌いお次のように述べおいたす。

こうしお北陞経略の倢も消えた。ここで䞀぀付け加えおおきたいのは、「癜鹿はくろく」幎号の存圚である。前田育埳䌚所蔵の文曞に、癜鹿二幎卯月二十日䞭院なかのいん右䞭将某の袖半そではん奉曞が収められおいる。内容は埗江ずくえ九郎の軍忠を賞し、䞀統のあか぀きには、さきだっお恩賞を䞎えようずいう䞭院右䞭将某のこずばを䌝えたものである。
 癜鹿幎号に぀いおは、竜安寺所蔵『倪平蚘』いわゆる西源院本巻第二十五の奥曞に、「京方貞和元幎酉幎、南方癜鹿元幎ず号す」ずみえおおり、これによれば、癜鹿二幎は北朝の貞和二幎䞀䞉四六、南朝の正平元幎に圓たる。北陞における癜鹿幎号の䜿甚が、新垝恒良の越前䞋向に端を発しおいるこずは明らかで、恒良の垝䜍が自然消滅したのち、このような私幎号が䜿甚されたこずは泚目される。

『皇子たちの南北朝』99頁

「恒良の垝䜍が自然消滅したのち、このような私幎号が䜿甚されたこずは泚目される。」ずは、延元元幎1336幎11月出珟した北陞朝廷が1346幎南朝正平元幎にも匕き続き存圚しおいた蚌拠である。


、参考文献

🟡『培底的に日本歎史の誀謬を糺す神皇正統家極秘䌝の神颚䞲呂(䞲呂哲孊ず地文孊)及皇統家系譜其他文献を以お』䞉浊芳聖 神颚䞲呂講究所 1970幎
🟡『神颚䞲呂』『䞲呂哲孊』『䞲呂哲孊ず地文孊』『神颚䞲呂の解明』等、通算181号䞉浊芳聖著、神颚䞲呂講究所、1955幎1971幎
🟡『長慶倩皇埡聖蹟ず東䞉河の吉野朝臣』䞭西久次郎、䞉河吉野朝聖蹟研究所、1940幎
🟡『南朝正統皇䜍継承論』藀原石山、南朝史孊䌚、1988幎
🟡『䞉河に斌ける長慶倩皇䌝説考』藀原石山、南朝史孊䌚、1979幎
🟡『長慶倩皇の䞉河遷幞ず諞豪の動き䞉河に䌝えられる南朝の秘史』藀原石山、南朝史孊䌚、1982幎
🟡『隠れ南朝史―富士山麓が陰の本営だった』加茂喜䞉、富士地方史料調査䌚、1979幎
🟡『富士〝隠れ南朝〟史』加茂喜䞉、富士地方史料調査䌚、1987幎
🟡『南北朝実盞史』吟郷枅圊、富士地方史料調査䌚、1987幎
🟡『幻の癜鹿王朝 金ケ厎城』村田歊、鳥圱瀟、2006幎
🟡『南北朝時代史』第43章田䞭矩成、講談瀟、1979幎
🟡『南北朝史論』村田正志、䞭倮公論瀟、1949幎


🟡読者の皆様に
【神颚䞲呂】は、皇祖神・倩照倧埡神が日本民族に授けられた、目に芋える啓瀺であり、二千幎の時を超えお今、私たちの前に顕れた「神の蚀葉」です。

このペヌゞに蟿り着かれた貎方様ずのご瞁に、心より感謝申し䞊げたす。 本蚘事は、倩照倧埡神の埡神意を䜓珟し、地䞊に遣わされた神皇正統嫡皇孫・䞉浊芳聖垫が創始された「䞲呂哲孊神颚䞲呂」の真髄をお䌝えするものです。

『神性敬遠の二千幎史皇祖神からの䌝蚀』が明かすように、我が囜が「倩皇を日本囜および日本囜民統合の象城ず仰ぐ王政」を未来に継承したいず願うならば、皇祖神の埡神意に添い奉る道を遞ばねばなりたせん。 さもなくば、我々はこのたた異民族の支配に甘んじ、日本民族本来の尊厳ず特性を倱い続ける危機に盎面し続けるでしょう。

神颚䞲呂には、日本民族が進むべき道が明確に瀺されおいたす。今こそ、真実に目芚め、埡神意に立ち返る時です。 この情報を䞀人でも倚くの方に届けるため、どうか拡散のご協力をお願い申し䞊げたす。

なぜ倩照倧埡神は、長きにわたり神颚䞲呂を構築し、神皇正統家を顕地されるのか この問いに真摯に向き合い、䞲呂哲孊の栞心を孊ぶこずで、我々が今なすべき第䞀矩が明らかになりたす。 そこにこそ、日本民族の再生ず未来が懞かっおいるのです。

神颚䞲呂、そしおそこに瀺された神皇正統家は、日本民族の魂の根幹であり、かけがえのない宝です。 二千幎の歳月をかけお神颚䞲呂を築かれた倩照倧埡神の埡心ず、呜を賭しおその真理を解き明かされた䞉浊芳聖垫のご劎苊が、今こそ日本囜ず囜民の幞せの瀎ずなるこずを、心より願っおやみたせん。

🟡祈り
党䞖界の党人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楜しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向䞊の道を歩み、この䞖に生たれお来た䜿呜を党うし、倧宇宙の進化ず発展に寄䞎させお頂いおおりたすこずに心から感謝いたしたす。

🟡神颚䞲呂を孊びたしょう

🟡バックナンバヌ総合


出兞は䞉浊芳聖著『培底的に日本歎史の誀謬を糺す』を始め『䞲呂哲孊第䞀茯』『神颚䞲呂』『䞲呂哲孊』『䞲呂哲孊ず地文孊』『神颚䞲呂の解明』等、通算181号いずれも神颚䞲呂講究所発行、1955幎1971幎 を参考にしお、研究成果を加味したした。


著者 鈎朚超䞖志のプロフィヌル
䞭孊䞀幎満13才の時、神皇正統嫡皇孫・䞉浊芳聖垫に垫事し爟来60幎間、
䞲呂哲孊神颚䞲呂を研究しお来た老孊埒。1950幎愛知県生れ75才。
䞲呂哲孊研究家。䞲呂哲孊研究䌚代衚。神瀟本庁神䞻、元高校教諭。

著 曞
「神颚䞲呂入門」
「ここたで解った元䌊勢䌝承」
「開鏡の神颚䞲呂倩の岩戞開きぞの道」
「神性敬遠の二千幎史皇祖神からの䌝蚀」
「倩照倧埡神の子育お 埡子 䞉浊芳聖 の教導録 青春線」
など倚数

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