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『南北朝時代史』第四十三章 後醍醐天皇尊氏と御和睦

田中 義成著『南北朝時代史』

第四十三章 後醍醐天皇尊氏と御和睦

132頁―133頁

叡山の行在にては六月三十日、京都合戦に大敗してより、官軍の士気阻喪し、八月二十五日、大に阿弥陀峯に戦ひ、二十八日更に下って最後の決戦を試みしが、いづれも敗績して復起つ能はざるに至れり、ここに尊氏は機至れりとして、御和睦を勧め奉りしかば、天皇もやむなく御許容ありて、十月十日京都へ御還幸ありき。

ここに一の疑問あり、是時後醍醐天皇は叡山に於て竊に御位を皇太子恒良親王に譲らせられ、義貞に勅して皇太子恒良親王及び尊良親王を守護し奉りて北国に赴かしめられし事、太平記に見ゆ、此事他の記録に所見なく、事実果して如何の疑あり、されど吾人の見る所を以てすれば、これは事実なるべしと考へらる、何となれば、その年十一月十二日、恒良親王の越前敦賀より結城宗廣に賜ひし御書は、全く綸旨の体にて、文に「所有行幸越前国鶴賀津也」といひ、又「天気如此悉之以状」とあり、白川文書 是によりて之を見れば、叡山にて内々御受禅ありしといふは事実なりしならん、蓋し天皇は一時御和睦ありて京都へ還幸せらるるも、将来の成行計り難きにより、内々皇太子に御譲位あらせられしならん、故に皇太子は直ちに綸旨を用いて号令あらせられしなり、斯くして置けば、天皇は御帰洛の後御身は如何になり給ふとも、御安心なりとの叡慮なりしならん。故に神皇正統記に、皇太子の北國御下向を叙して、「行末の事を思召し云々」とあるも、亦この意なるべし、故に天皇還幸後、萬一御凶変ありたらんには、皇太子は直ちに北国に於て朝廷を立てさせられしなるべし、しかるに天皇は御運強く、吉野に逃れさせ給ひしかば、北国の朝廷は立つるに及ばざりしならん。かく考へ来らば、太平記に所謂叡山にて内々御上位の説は、其の実を得たりと推定すべし。

又此説に関連して考ふべきは、得江文書に白鹿二年と署せる文書あ

南北朝時代史1

134頁ー135頁

る事なり、そは中院右中将の下せるものにて、得江九郎に宛てたり、中院右中将は蓋し中院定平か、又は其系統の人にて、中興の初め北陸方面に働ける人なり、而して得江も亦北国の人なれば、此文書は北陸のものと推定すべく、即ち北陸の宮方が白鹿の年号を用ひたるを知るべし、而して竜安寺本太平記巻廿五の奥書に、

京方貞和元年己酉、南方号白鹿元年、同京方貞和二年丙戌、南方移正平

とあり、白鹿二年は貞和二年にして、即ち南朝の正平元年に當るを知るべし、當時吉野の朝廷に興国の年号あるに拘はらず、かく北陸の宮方が白鹿の年号を用ふるは何の故ぞ、思ふに義貞は恒良親王を奉じて北国に赴き、場合によりては此処に朝廷を立て得る事となり居り、親王も仮令仮にもせよ内禅を受けられし事なれば、隠然天子を以て自ら任ぜられし事、白川文書によって推知すべし、されど此時は未だ別に年号を建てられず、やがて延元二年三月越前金崎陥り、恒良親王足利氏の手に執へさせられ給ひし後、宗良親王北国に御下向ありし事、上杉文書・梨花集に見ゆ、白鹿の年号は、或は同親王を擁せるものの建つる所歟、而してかく特に年号を建つるは、蓋し恒良親王以来北陸朝廷といふ考が継続せるにはあらざる歟、是亦かの太平記に記する所の御譲位説を確かむる一資料なるべし。

南北朝時代史2


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