💟後醍醐天皇塔尾陵と御名の神風串呂——地文に秘められた皇統の真実
🎀串呂哲学研究ノート 第15号
兵庫県宍粟市山崎町の「御名/ごみょう」から吉野・⛩️塔尾陵へ。 そして紀北町の「三浦」へと伸びる一本の光の道—— その名は、神皇正統家極秘伝「神風串呂」(しんぷうかんろ)。 地名に刻まれた“天皇の御名”の啓示が、後醍醐天皇の皇統の真実を静かに語り始める。

後醍醐天皇塔尾陵と御名の神風串呂——天地開闢の光が刻んだ皇統の真実
太古、天地がまだ名を持たなかった頃—— 皇祖神は、国土を歩みながら大地に“御名”を刻んだ。
その刻印は、のちの世に地名となり、人々が歴史と呼ぶ前に、すでに神々は未来の皇統を描いていた。
兵庫県宍粟市山崎町「御名」。 この一語は、天皇の御名を鑑定するために、 神々が最初に大地へ置いた“起点の光”である。
その光は、吉野・⛩️塔尾陵へ向かい、 さらに紀北町「三浦」へと伸びてゆく。
まるで、国土そのものが一本の神剣となり、 皇統の真実を指し示すかのように。
この光の道こそ、神皇正統家極秘伝「神風串呂」(しんぷうかんろ)。 元伊勢を行脚した皇祖神が構築した「元伊勢クシロ」を淵源とし、地名(地文)に秘められた天地神明の啓示を読み解くための、神代から続く“皇統の言語”である。
御名——⛩️湊川神社——⛩️塔尾陵——三浦
この並びは偶然ではない。 神々が歴史の青写真に従い、未来の皇統を守護するために配置した“符号”である。
本稿では、 後醍醐天皇の御名が「三浦」へと継承される神風串呂を読み解き、皇祖神の息吹が、いまも国土に脈打つ事実を明らかにする。
💞神風串呂とは何か
神皇正統家に伝わる極秘伝——神風串呂(しんぷうかんろ)。 それは、皇祖神が元伊勢を行脚しながら構築した「元伊勢クシロ」を淵源とし、地名(地文)に秘められた天地神明の啓示を読み解く学問体系である。

元伊勢クシロは古来「皇城守護の結界」と伝えられてきた。 しかしその正体こそ、まさに 神風串呂 であった。 地名は偶然ではなく、神々が歴史の青写真に従って配置した“符号”である。
本稿では、 兵庫県宍粟市山崎町「御名」から、吉野・後醍醐天皇塔尾陵、そして紀北町「三浦」へ至る神風串呂 を取り上げる。
この串呂を学ぶことで、 日本が神国である事実、そして皇祖神の息吹を体感することができるだろう。

1、名前を鑑定する地文「御名」(ごみょう)
「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」——天皇の御名と印璽を意味する語である。 串呂哲学では、名前を鑑定する串呂起点の筆頭が「御名」である。
日本国内に「御名」という地名は二つ。 その代表が、兵庫県宍粟市山崎町の「御名」である。
ここを起点として、 後醍醐天皇(諱:尊治)の御名を鑑定する神風串呂が構築される。
後醍醐天皇は、 鎌倉幕府を倒し建武新政を断行した南朝初代天皇。 足利尊氏との戦いに敗れ吉野へ入ったことで、南北朝の内乱が始まった。
今回は、この「御名」から、まことに畏れ多かれども、後醍醐天皇の吉野の⛩️塔尾陵(とおのおりょう)を結んで、後醍醐天皇(尊治)の「お名前」を鑑定する神風串呂をご紹介します。
後醍醐天皇は、「第96代の天皇および南朝初代天皇。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い建武の乱に敗れたため、大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱を開始した。」 (『ウィキペディア(Wikipedia)』後醍醐天皇)
2、宍粟市御名と後醍醐天皇塔尾陵との神風串呂
三浦芳聖師は、次の地文が一直線に串呂すると述べている。
御名(宍粟市) → ⛩️湊川神社(神戸市) → ⛩️後醍醐天皇塔尾陵(吉野町) → 三浦(紀北町)
この並びは、単なる地理的偶然ではない。
後醍醐天皇の御名が「三浦」となったことを示す“皇統の啓示”である。


【地文のみ掲載】
「御名」-「⛩️湊川神社」-「⛩️後醍醐天皇塔尾陵」-「三浦」
【地文の解釈】(地名に地図がリンクしています。)
(1)御名(ごみょう、兵・宍粟市山崎町)
「御名=天皇の名」という地文。
ここは、鑑定対象の“名前”を読み解く起点となる。

現在、存在が判明している「御名」という地名は、兵庫県宍粟市山崎町御名と福井県敦賀市御名の二つです。
このうち、兵庫県宍粟市山崎町の「御名」は、早くから判明していて、この山崎町の「御名」に関連した串呂は、三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』にたくさん出ています。
福井県敦賀市御名は、WEB地図の検索で見つけました。
また、名前を鑑定する地文として「公文名(くもんみょう)」も全国に点在しており、いずれも、神風串呂の体系において重要な役割を担う。
(2)⛩️湊川神社(みなとがわ神社、神戸市中央区多聞通) 祭神は南朝大忠臣・楠木正成公。元別格官幣社。 この神社は、 御名から⛩️塔尾陵へ伸びる串呂の守護神である。地元では「楠公さん」と呼ばれています。
さらに、楠木正成公の血統は婚姻を通じて三浦家に入り、三浦家の遠祖となっている。ゆえに⛩️湊川神社がこの串呂に位置することは、神霊界の深い計画性を示す符号といえる。
【参照】楠木正成公の系譜については下記を参照ください。

三浦義勝五世の嫡孫、楠木正成六世の孫
三浦義勝-義利-宗正-宗明-佐久姫
楠木正成-正行-正光-正親-冬子-三浦佐久姫
(加茂喜三著『富士"隠れ南朝"史』 318頁 富士地方史料調査会)


神戸市中央区多聞通に湊川神社が建立されたのは、延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)、湊川の戦い「摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦」で、正成と正季兄弟らが刺し違えて自害した事跡によります。
『ウィキペディア(Wikipedia)』湊川の戦い
(3)後醍醐天皇塔尾陵(奈良県吉野郡吉野町吉野山 如意輪寺内)
吉野山・塔尾山 椿花院 如意輪寺 裏山にある北面の御陵。南朝政権の象徴であり、後醍醐天皇の御名を読み解くうえで欠かせない地文である。

後醍醐天皇、諱は尊治(たかはる)。 大覚寺統の天皇。第96代の天皇および南朝初代天皇。元弘の乱で鎌倉幕府を倒して建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏との戦い建武の乱に敗れたため、大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の室町幕府が擁立した北朝との間で、南北朝の内乱を開始した。(『ウィキペディア(Wikipedia)』後醍醐天皇)

(4)三浦(みうら、三重県北牟婁郡紀北町)
三浦皇統家を象徴する地文。 三浦芳聖師に関連する重要地点であり、後醍醐天皇の嫡皇孫の御名が「三浦」であることを示す地文(華紋)となる。
この紀北町の「三浦」は、三野瀬の三浦といいますが、三浦皇統家や三浦芳聖師に関連した串呂上の重要地文です。
三野瀬とは、三浦+野村で、野村は芳聖師の妻(野村 鈴)の旧姓です。
この三浦の東方沖合に「鈴島」が存在しており、三浦芳聖師の婚姻の串呂がその中間を貫通しています。

3、この串呂の解釈と哲学的考察
(1)後醍醐天皇の御名は三浦へと継承される。
「御名」→「⛩️湊川神社」→「⛩️塔尾陵」→「三浦」
この串呂が示す意味は明確である。
後醍醐天皇の御名は三浦へと継承される。すなわち後醍醐天皇の嫡皇孫の名は「三浦」である。
⛩️湊川神社はその守護神であり、楠木正成公の血統が三浦家へ入った事実が、この串呂の霊的構造を裏付けている。
さらに、三浦芳聖師の母・元子の墓跡がかつてこの串呂線上に存在したことも、神霊界の深い計画性を感じさせる。
後醍醐天皇の嫡皇孫の御名は三浦であると解釈致します。南朝大忠臣「楠正成公」奉斎の⛩️湊川神社は、この串呂を守護し証明しているお宮です。
🟡お宮とは、串呂の守護者なり
宮=ウ冠+呂・・・天(屋根)が串呂を守護している。ウ冠は串呂を守護する天(神)とか雨を防ぐ屋根を表わす。例、空・宇宙・家・守
(2)後醍醐天皇の嫡皇孫は三浦である
三浦芳聖師が、後醍醐天皇の嫡皇孫であることを昭示している神風串呂です。第百代 大宝天皇が、三浦家に入り婿となって、三浦と名乗ったのでした。
【参照】天皇蒙塵の府・大門と三浦名との神風串呂
「宗心」-「大宝天皇蒙塵の地・牧平大門」-「三浦名」
南朝大忠臣・楠木正成公を祭神とする神戸の⛩️湊川神社は、この串呂の守護神です。祭神の楠木正成公のDNAも、婚姻を通じて三浦家に入っていますので、楠木正成公は三浦家の遠祖のひとりであります。
三浦義勝五世の嫡孫、楠木正成六世の孫・三浦佐久姫(大宝天皇皇后)
三浦義勝-義利-宗正-宗明-佐久姫
楠木正成-正行-正光-正親-冬子-佐久姫
(加茂喜三著『富士〝隠れ南朝〟史』318頁 富士地方史料調査会)
この「御名」-「三浦」の串呂の守護神として三浦家の遠祖である楠木正成公を祭神とする⛩️湊川神社が串呂しているのは、深淵なる神はかりであると思います。
この串呂線上には、「三浦芳聖の母・元子の墓跡」(兵庫県神戸市高坐)が存在すると、三浦芳聖の著書に出ていますが、墓苑再開発のため移転せられ、現在はこの線上には存在しませんので、削除させて頂きました。
(2)歴史を知らずして串呂は読めない
この串呂を理解するには、後醍醐天皇の吉野行幸、楠木正成の湊川の戦いなど、 南北朝史の基礎を押さえる必要がある。
神風串呂は、日本史の大きな流れを踏まえて構築されているため、 歴史の常識を知らずして哲学的考察は不可能である。
【参考】歴史の大きな流れをつかもう!
『ウィキペディア(Wikipedia)』後醍醐天皇
『ウィキペディア(Wikipedia)』楠木正成
『ウィキペディア(Wikipedia)』湊川神社
『ウィキペディア(Wikipedia)』桜井の別れ
『ウィキペディア(Wikipedia)』湊川の戦い
(3)神風串呂は歴史の“原因”である
神風串呂史観では、後醍醐天皇の吉野行幸も、楠木正成の湊川の戦いも、偶然ではない。
串呂を構築するために歴史が展開した。(神風串呂史観)
神々は青写真に従い、要所にふさわしい地名(地文)を配置していった。御名・⛩️湊川神社・⛩️塔尾陵・三浦—— この並びを見るだけでも、神霊界の並々ならぬご努力が垣間見える。
では、 神々は何のために神風串呂を創られたのか。
その一点こそ、串呂哲学の核心である。
(4)神風串呂史観
神風串呂史観からは、後醍醐天皇の吉野への臨幸も、楠木正成の湊川の合戦も、偶然に起きた現象ではなく、神風串呂を構築するための布石であったということになります。
神風串呂を構築するために日本の歴史が展開してきたのです。すなわち神々が書いた青写真に従って、要所要所にふさわしい地文(地名)を設定して行く作業が行われてきたわけです。
神々は一体いかなる目的のために神風串呂をお創りになったのでしょうか!串呂哲学の要諦はこの一点の理解にあると言えます。
🟡読者の皆様に!
【神風串呂】は、皇祖神・天照大御神が日本民族に授けられた、目に見える啓示であり、二千年の時を超えて今、私たちの前に顕れた「神の言葉」です。
このページに辿り着かれた貴方様とのご縁に、心より感謝申し上げます。 本記事は、天照大御神の御神意を体現し、地上に遣わされた神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師が創始された「串呂哲学(神風串呂)」の真髄をお伝えするものです。
『神性敬遠の二千年史-皇祖神からの伝言』が明かすように、我が国が「天皇を日本国および日本国民統合の象徴と仰ぐ王政」を未来に継承したいと願うならば、皇祖神の御神意に添い奉る道を選ばねばなりません。 さもなくば、我々はこのまま異民族の支配に甘んじ、日本民族本来の尊厳と特性を失い続ける危機に直面し続けるでしょう。
神風串呂には、日本民族が進むべき道が明確に示されています。今こそ、真実に目覚め、御神意に立ち返る時です。 この情報を一人でも多くの方に届けるため、どうか拡散のご協力をお願い申し上げます。
なぜ天照大御神は、長きにわたり神風串呂を構築し、神皇正統家を顕彰されるのか? この問いに真摯に向き合い、串呂哲学の核心を学ぶことで、我々が今なすべき第一義が明らかになります。 そこにこそ、日本民族の再生と未来が懸かっているのです。
神風串呂、そしてそこに示された神皇正統家は、日本民族の魂の根幹であり、かけがえのない宝です。 二千年の歳月をかけて神風串呂を築かれた天照大御神の御心と、命を賭してその真理を解き明かされた三浦芳聖師のご労苦が、今こそ日本国と国民の幸せの礎となることを、心より願ってやみません。
🟡祈り
全世界の全人類が みな健康で 元気で明るく豊かで楽しく 心安らかな毎日を過ごし、霊的向上の道を歩み、この世に生まれて来た使命を全うし、大宇宙の進化と発展に寄与させて頂いておりますことに心から感謝いたします。
🟡神風串呂を学びましょう!
出典は三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を始め『串呂哲学第一輯』『神風串呂』『串呂哲学』『串呂哲学と地文学』『神風串呂の解明』等、通算181号(いずれも神風串呂講究所発行、1955年~1971年) を参考にして、研究成果を加味しました。
著 者 鈴木超世志のプロフィール
中学一年 満13才の時、神皇正統嫡皇孫・三浦芳聖師に師事し爾来60年間、
串呂哲学(神風串呂)を研究して来た老学徒。1950年 愛知県生れ。
串呂哲学研究家。串呂哲学研究会代表。神社本庁神主、元高校教諭。
著 書
「神風串呂入門」
「ここまで解った元伊勢伝承」
「開鏡の神風串呂-天の岩戸開きへの道」
「神性敬遠の二千年史-皇祖神からの伝言」
「天照大御神の子育て 御子 三浦芳聖 の教導録 青春編」
など多数
ブログ
串呂哲学研究ノート
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🟡最後までお読みいただき有り難うございます。
串呂哲学研究会 鈴木超世志
ブ ロ グ 串呂哲学研究会
メ - ル(shinpukanro024@yahoo.co.jp)
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