【短編集‐花の冠】第七話『風の名』
風の名
旅をしているあいだ、
俺たちは名前を呼び合うことがなかった。
俺は、血の匂いがしみ込んだ名を捨てていた。
少年には、初めから名前などなかった。
互いにそれで十分だった。
ただ、隣を歩いていただけだ。
けれど、ある村で出会った老婆が、
その沈黙に風を吹き込んだ。
老婆は俺の故郷の言葉で話した。
誰にも通じないはずの、忘れ去られた音。
「この子に、名を与えなさい」
そう言って、老婆は少年の手に一輪の花を乗せた。
風のように軽く、光をまとったように白い花。
「この花の名は“サリム”。風の先という意味じゃ」
「サリム……風の先」
少年はつぶやき、それから花を持ち上げ、
太陽に透かすように眺めた。
しばらくして、少年が俺に向かって聞いた。
「じゃあ、大男って、そっちの国の言葉でなんていうの?」
俺は少し考え、そして答えた。
「“グラージュ”。いくつかの意味はあるが、”大男”という意味に一番近い」
「グラージュ……ぴったりの名前だね」
そう言って少年は楽しそうに笑った。
名を持たぬ旅は、自由だった。
名を持つ旅は、もう自分だけの旅じゃなくなる。
その夜、俺たちは小さな焚き火を囲み、
初めて互いの名前を呼び合った。
「サリム。お前はどこに行きたい?」
「グラージュと一緒ならどこでもいいよ」
俺たちの旅の先。
それはどこになるのか。
”グラージュ”
サリムには言わなかったが、
その言葉には、”苦悩を背負う者”、という意味もあった。
その名は俺にぴったりだった。
翌日、俺たちが旅立つときに、老婆は言った。
「グラージュ。お前は何を背負う気だい?」
「それは多分、苦悩だろう」
「ああ、しかし”グラージュ”にはもう一つの意味もある」
「……たしか、未来を背負う」
「苦悩と未来。それは同じものなのかい?
どちらでもお前が選んでいいんだ。
お前はその背に、何を背負っていくんだい?」
「……わからん。
……いや、両方だな」
「グラージュ、風が呼んでるよー!」
サリムは太陽を背に、風の中を歩いていた。
「……風の先、か」
俺たちは風の先に向かっていた。
俺が背負う荷は、どこに運ばれるのだろうか?
風の先がどこへ向かうのか、
今はまだ、あいつの背中だけが、答えだった。

《終》
