【短編集‐花の冠】第九話『夜の橋‐サリム‐』
夜の橋‐サリム‐
この村には、「死者を迎える橋」がある。
年に一度、夜に焚き火を焚き、
橋のたもとで静かに待つ。
名は呼ばない。ただ、待つだけ。
炎と風に乗って、
遠くへ行った者たちが、姿を見せるかもしれない――と。
僕は、グラージュとその火のそばに座っていた。
誰かを待っていたわけじゃない。
けれど、グラージュが隣にいて、
村の人たちがそうしていたから、
僕も、ただそこにいた。
焚き火の匂いが、遠い夜を呼び起こす。
まだ言葉も知らぬ、幼い頃の記憶。
断片のような映像と音。
村が野盗に襲われた夜――
空は赤く、風は焼けつくように熱かった。
悲鳴が煙にまぎれて、聞こえなくなっていった。
あとから来た国軍が村を守ったけれど、
家は燃え、畑は踏みにじられ、
多くの大人たちが、もう戻らなかった。
言葉を覚えたころ、誰かが僕に言った。
「お前の両親は、逃げたんだ。
火の中、お前を置いて、自分たちだけで」
本当かどうかは、わからなかった。
でもそれ以外、僕の父と母のことを知ることはできなかった。
風がふっと、焚き火の煙を揺らした。
そのとき、どこからか匂いが流れてきた。
焦げた木と、土の匂い。
それに混じって、ほのかに花のような、甘い香りがした。
――知っている。
胸の奥が、そう感じた。
それはずっと昔、誰かに抱かれていたときの匂いだった。
顔も声も思い出せないけれど、
その匂いだけは、今でも残っていた。
橋の向こう。
霧の中に、人影が二つ。
背を向けた人の影。
風に布が揺れ、その輪郭はぼんやりとしていた。
息が詰まった。
わからなかったけど、わかった。
――父と母だ。
火が静かにはぜた。
その音に重なるように、
ひとつの記憶が、心の底で小さく灯った。
炎の中、誰かが僕を突き飛ばした。
熱風に巻かれながら、誰かが僕の背中を強く押していた。
「逃げなさい」とは聞こえなかった。
でも、あの匂いがしていた。
――僕だけが生き延びていた。
視界が涙で滲む中、
影は風とともに、静かに遠ざかっていった。
僕一人だけが取り残された。
その時、背中にそっと触れるものがあった。
大きくて暖かいグラージュの手だ。
言葉はなかった。
でも、それで十分だった。
僕は立ち上がり、橋を見つめた。
そこには火の匂いの隙間に、
懐かしく甘い匂いが、まだ残っていた。

《終》
