【短編集‐花の冠】第十話『夜の橋・グラージュ』
夜の橋・グラージュ
サリムが、隣に座っていた。
焚き火を挟んで、村人たちの声もあった。
火の匂い。人のぬくもり。
夜の静けさに包まれながら、確かにそこに“生”があった。
風が一筋吹き、灰が舞う。
目をこすり、もう一度まぶたを開けたとき、
そこには、誰もいなかった。
戦場の香り。
死の匂いだ。
音が消えていた。火の爆ぜる音も、風にそよぐ枝の音も。
焚き火は、音もなく静かに燃えていた。
炎の向こうの、夜の橋。
橋の終わりに、一人の背中があった。
重たい鎧。
返り血に染まる外套。
風に揺れる、癖のある長い赤髪。
俺が叫んだ名前は音にならなかった。
振り向くことのないその背中を、俺はよく知っていた。
何千人もの兵士の中で、ただ一人、俺を「友」と呼んだ男、フェイル。
その名は、この国では「風を運ぶ者」という意味だ。
フェイルは誰よりも強く、そして誰よりも優しかった。
「俺たちが国を守る。そこに生まれも人種も関係ない」
フェイルは俺を、人殺しの道具でも、奴隷でもない、
ただの人間として受け入れてくれた。
そして、俺を「友」と呼んだ。
何度目の戦だったか覚えていない。
激しい雨の降る戦場で、唯一の「友」は俺の代わりに死んだ。
俺の背に迫る刃を、その身で受け、首から体中の血を流し、
汚い水たまりの中で冷たくなっていった。
切られた喉から空気が漏れ、最後の言葉は声にならなかった。
「あなたが、私たちのフェイルを殺したのよ……」
彼の死を伝えたとき、フェイルの妻が幼子を抱いたまま、
泣きながら俺に言った。
そう、その通りだ。
俺の慢心がフェイルを殺した。
友は最後に何を言いたかったのだろうか?
国に妻と子を残していた男が死に、
誰も待つ者のない、俺が生き残った。
守るものはなかった。
生きる意味はわからなかった。
そこに正義はなく、それでも俺は剣を振り続けた。
国は俺にもっと剣を振れと言った。
命令が俺の免罪符だった。
「友」を奪った戦場を、血で染めるためだけに、
俺は剣を振り続けた。
フェイルは俺に命をくれた。
その命で俺は、無数の人生を奪った。
風が、もう一度吹いた。
フェイルの外套が、夜の中で静かに揺れた。
「……フェイル」
フェイルが振り向いた。
あの頃と同じ、あたたかな笑みを浮かべて……
「……重いんだ、何もかもが。
なぜ、俺を死なせなかった?
なぜ、この苦しみの中に、俺を生かした?」
フェイルは何も言わず、腕を伸ばした。
フェイルの指の先に座る、サリム。
サリムは炎に照らされながら、
誰もいないはずの、橋の終わりのその先を見つめていた。
炎が強く揺れた。
その風と共に、フェイルは消えていった。
残されたのは、火の温もりと、サリムの震える肩。
俺はサリム背に、できるだけ優しく手を置いた。
冷えた体に俺の熱が溶けていく。
幾千もの命を奪ったこの手から、サリムに温もりが流れて行く。
焚き火が、静かにはぜる。
風が、また吹いた。
サリムの髪を風が揺らした。
フェイルの最後の言葉。
それが聞けたら、何かが違っていたのだろうか?
名を捨てて軽くなった俺が、再び背負うものが何なのか。
風の先にその答えがあるような気がした。

《終》
