第44話 「陸奥独旅」
宴も闌。話題は演歌に於ける色恋談義となる中、杉良太郎「めぐり逢いふたたび」の一節にある「お前を殺してしまいたい」について議論は白熱する。
「どういう事だ。末期癌の激痛に苦しむ愛妻を見兼ねての事なのか。それとも借金取りに追われて一家心中でもしようというのか」
と、嘯く私に、友人の芹沢が燦然と輝くワイングラスを傾けながら呆れた様に言う。
「そんなマイナーな歌を出されても解らん。オペラにしなさい。オペラに」
「だは。な〜にがオペラじゃ。空のグラス持って何気取っとるんですか。呑みが足らんようじゃのお」
やれやれ、またこ奴か。ドリンカー K ことコバ。酒癖の悪い後輩で、酔っぱらうとマントを羽織りたがる性癖があるのでこの渾名がついた。先程から、研究室の窓に垂れ下がる暗幕をマント代わりにクルンクルンしているのである。そこに我等の議論を何処で察知したのか、強面だが腰が低くて演歌に詳しい大山親分が、ギターを抱えて「みちのくひとり旅」の導入部を唱い乍ら乱入して来る。
「ここで一緒に死ねたらい〜いぃと すがる涙のいじらしさぁ〜」
うむうむ。私と同い年だけあって中中よろしい選曲である。だが聊か異和感を覚えるのは気の所為であろうか。耳を凝らしてもう一度聴いてみる。
「ここで一所に絞めたらイ〜いぃと 津軽阿弥陀の肘出したぁ〜」
「その晩仕置きのはるさめ煎って 一億独り谷ぃ〜」
だあー。なんだそれは。替え歌ではないか。而も両足を開閉したり、がちょーんポーズの振り付きである。ちょっと登場のタイミングが良過ぎるので詰問すると、部屋の外からチャンスを窺っていたらしい。これで心おきなく酒が呑めると安堵する親分。だが、時既に遅し。親分の登場は既に出来上がっちゃっている私とコバの琴線に触れてしまった。我等は水を得た魚の如く歌い始める。余談であるが世間ではこういう状態を「火に油を注ぐ」と言うが、我等の間では「コバの口に酒を注ぐ」というのが正しい。
「後髪ひく悲しい声を、チャララ、チャララララ せなでたちきるみちしるべー」
大山親分、透かさずギターをかき鳴らし乍ら続く。
「牛の神弾く姦しい声を 箆で断ち切るピッチ調べ」
こんな有様ではのんびりと呑んでいる暇などない訳で、親分は皆に煽られる儘に酒を呷る。斯くして「みちのくひとり旅酔狂団」が結成され、夫々の「みちのくひとり旅」を世に問わんと、酒瓶とギターを抱えて旅に出ちゃったりする始末なのである。と言っても室外へ出るだけなのであるが。
先ずは階段を上って数学科。深夜なので誰もいない。よって騒ぎ放題の無法地帯であるから何を叫んでも大丈夫。だが、皆は闇の向こうに潜む不気味な人影に怖じけづいたのか、口だけは威勢良く「みっちのくぅひっとりぃたあびい」などと言っているものの、確り足が止まっている。影が動くと同時に紛れもなく聞こえる微かな騒めき音が神妙な臨場感を醸し出す。「ぬうう。これが世に云う恐怖の階段であるか。誰だ、出てこい」と叫ぶと、素面の女性が怪訝な顔で我等の眼前を通り過ぎ、廊下の灯を燈して去って行く。そして視界に見えたものはなんと吃驚する事に、帚とバケツと隙間風に揺れる貼り紙ではないか。人影の正体はこれら物体の織り成す三位一体の幻想であったか。劇的だが余りに馬鹿々々しい現実を前にして、呆然と立ち尽くす我らであった。
気を取り直してお次の階は化学科である。数学科で予行演習した所為か、警戒も解けて大声で唄う私に続き、軽快に「じゃんじゃか、じゃんじゃか」弾き鳴らす親分。そして最後にコバが哭ぶ。
「生きていたならいつかは会える〜 夢でもーあえるーだろおー」
「起きていたなら何時かは萎える〜 夢でーもだえるだろー」
「ハゲでいたなら何時かは生える〜 夢でもー生えるだろおー」
傑作である。実験室から漏れ出づる笑い声を背に受け、我等は更に上へと向う。「夢でも〜禿るぅだろおー」
今度は生物学科である。調子に乗った我等三人のテンションは益々上る。「夢でも〜禿るぅだろおー。チャラララッチャラ」
「たとえどんなに冷たく別れても〜 お前が俺には最後のおーんな〜」
「たとえどんな煮詰めたカレーでも オーマイガ俺には最高のナンだぁー」「夢でも〜禿るぅだろおー」
先刻からコバは、こればかりを繰り返している。この節が甚く気に入った御様子である。こうなるともう、てんでバラバラでいけない。統制も連携プレーもなく、各自が支離滅裂に歌い始める。
と、其の時である。突如親分のギターが止まり、部屋から独りの男が現れて何やら叫び乍らこちらを目掛けて一目散にやって来るではないか。ん、コラコラ、お前達。後退りするでない。先刻までの威勢はどうしたのだ。ここで逡巡しては「みちのくひとり旅酔狂団長」としての信頼を失うので、ちょっと理不尽ではあるが、我等の非を棚に上げて闘うしかあるまい。全く困った奴等だ。って、おい。
「騒々しいぞ。ここを一体何処だと思っているんだ」
「学内に決まっておる。歌を歌って何が悪いのであるか。煙草なんかよりも余程健康的である。(だあー、背後で煙草を吸うなっ)それに化学科では絶大なる賛辞を受けておったのだ。だから笑え」
「ふざけるな」
「貴殿こそふざけるでない。見知らぬ者に対する言葉遣いがなっておらぬ御様子じゃ。学究活動は昼間にするのが世界の常識であるぞ。(通訳:そっちこそ何ふざけとるんじゃあ。広島弁で喋ってみい。こら。仕事は昼間にするもんじゃ。あほ)」
親分達は「あ〜あ。そこまで言うか」という風な顔をして、先刻よりも確実に三歩は後退している。して、男は偉そうに訊く。
「名前は」
「何故貴殿に名乗らねばならぬのじゃ。貴殿こそ何者じゃ。怪しい奴め。出あえ出あえ」
「な、何を馬鹿な。何処の学科の者だ」
「物理道場みちのくひとり旅門下の者じゃ。御不満なら、何時でも相手になって進ぜよう。うわっはっは。うぐぇっ」
と、威勢良く放言したところで男はあっさりと消えて行った。酔っぱらい相手では埒が明かないのを心得ているらしい。そして私も奈落の底へと落ちていくのであった。
翌日、学部長→学科長→指導教官の経路で厳重注意のお達しを受けた訳だが、暴力事件ではないし歌を歌っていただけだし、事情聴取もなかったので他愛の無いことと判断されたのであろう。
不斗、回廊の窓から下界に目を遣ると、何者かの手によって地べたに形成された一人前のお好み焼が身に沁みるのであった。
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