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若き黒田官兵衛と加古川評定(豊臣兄弟! 第21回 風雲!竹田城 歴史解説)

NHKの大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第21回「風雲!たけし城」
……じゃなくて「風雲!竹田城」の、簡潔な歴史解説です。
今回は1577年11月、松永久秀が爆発したすぐ翌月の、秀吉の播磨・但馬進攻を背景としています。

秀吉と言えば次々と手柄を立て続けた出世頭として知られていますが、この播磨・但馬進攻はあまり上手く行っておらず、虐殺の伝承もあって、これまでとは雰囲気が異なる時期です。

一方、小一郎はついに城持ちとなり、名実ともに秀吉の副将として活躍するようになります。


小寺官兵衛尉孝高って黒田官兵衛? どうして小寺なの?

ついに登場した秀吉の二人の軍師「両兵衛」の一方、黒田官兵衛。
NHKの2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では主役を務めていました。
今回のドラマでは小寺官兵衛尉孝高を名乗っています。 当時は31才ほど。

黒田官兵衛は黒田家の跡継ぎで、黒田家は小寺家の家臣。
小寺家は赤松家の家臣。
よって赤松家から見れば家臣の家臣(陪臣)となります。

当時、特に活躍した配下には自分と同じ苗字を与えることがあって、主君と同じ姓を名乗ることは配下にとって名誉なことでした。
信長はそういうことはしなかったのですが、秀吉は羽柴や豊臣の姓を家臣に与えることがあり、家康も重要な家臣には元の苗字である松平の姓を与えています。

官兵衛の父である黒田満隆は小寺家の家臣となって、そのライバルを討ち取る手柄を立てたため、主君の小寺政職に気に入られて「小寺」の姓と「職」の字を与えられ、小寺職隆になりました。
もはや「隆」しか残ってない。

そして官兵衛はその子供なので、当時は小寺を名乗っていたわけです。
黒田に戻ったのは今回のドラマの2年後、1579年で、信長の命令であったようです。

官兵衛が説き伏せた(騙した)赤松と別所とは? 播磨に真の国主はいないとか言ってたけど?

ドラマでは黒田官兵衛が流した噂でお互いに警戒し、結果的に織田家に泣きつくことになったと語られた別所家と赤松家。
この話はドラマのフィクションと思われますが、黒田官兵衛の説得で赤松家や小寺家などが織田側に付き、別所家は前から織田家と同盟していたので、戦うことなく秀吉ご一行が姫路城に入れたのは事実です。

なお、小寺家の拠点は御着城という城で、姫路城のすぐ近くにあり、当時の姫路城は今のような規模の城ではありませんでした。
世界遺産になっている今の姫路城は関ヶ原の戦いのあと、池田恒興の子である池田輝政という人が改築したものです。

ドラマの官兵衛は「播磨に真の国主と言えるものはいません」と言っていましたが、当時の播磨がどういう状態だったのかと言うと……

まず、名目上は播磨の国主は赤松家です。
ここは室町幕府の要職である「四職」に含まれる名家。
京極家、山名家、一色家なども四職で、今川家や土岐家よりも家格は上位と言えます。

ただ、室町時代に将軍を暗殺して尼子家におしおきされ、播磨から追い出されたりしていて、領地であった美作(岡山北部)は尼子家に取られ、備前(岡山東部)も家臣だった浦上家が支配、播磨東部でも家臣だった別所家が独立し、もはや播磨西部しか残っていませんでした。

加えて1560年代、織田家が斎藤家と戦っていた頃、赤松家の息子が父を追放するクーデターを起こし、東部にある置塩城の赤松家と、西部にあった龍野城の赤松家の二派に分裂、抗争に発展してしまいます。

若い頃の黒田官兵衛が活躍したのはこの戦いで、300程度の少数の兵で3000という龍野赤松の軍勢を相手に、軍才を発揮して連勝、置塩赤松と小寺家の絶体絶命の危機を救いました。

画像は「信長の野望・新生」より。クリックで拡大して下さい
一色家は丹羽長秀や細川藤孝、波多野家と赤井家は明智光秀が攻略中

龍野赤松は足利義昭を通じて信長に救援を要請したため、置塩赤松は荒木村重が仕えていた摂津の池田家や、東播磨の別所家からも攻め込まれます。
しかし官兵衛は小寺軍を指揮して防戦、四面楚歌の状況ながらなんとか守り切り、結果、三好家が近畿や播磨に進出する気配を見せたため、別所家や池田家は撤退。
孤立した龍野赤松は備前の浦上家に滅ぼされることになります。
(そして浦上家も宇喜多直家の反逆により追放されることになります)

その後、織田家が浅井朝倉武田などを倒して包囲網を打開すると、信長の才覚をいち早く評価していた官兵衛は、置塩赤松家と小寺家を織田家に付くよう説得。
荒木村重を通して織田信長に連絡を取り、1575年に謁見、味方になることを伝えます。
このとき、信長から「へし切長谷部」という有名な刀を貰っています。

これにより、織田家に臣従していた別所家との対立も解消されました。
しかしこの動きを受け、毛利家の小早川隆景が水軍を派遣、姫路城の近くに強襲上陸します。
ですがここでも500の黒田官兵衛の軍勢が、毛利の猛将として知られる乃美宗勝が率いる5000の軍勢を奇襲し、鮮やかに勝利。

こんな感じで、赤松家は同族争いの末、地方の土豪くらいの小勢力になってしまい、その家臣の小寺家が最大勢力と言えましたが、それでも別所や浦上(宇喜多)と比べると小規模。
龍野赤松の残党や、その配下の勢力も残っていて小勢力が乱立し、西播磨には国主はいない状況と言えました。
そして黒田官兵衛はすでに、実績十分のスーパー指揮官でした。

別所さんが不穏な空気だったけど、なんで?(加古川評定)

ドラマでは東播磨の別所家が秀吉の元に挨拶に来ていましたが、当主ではなく代理だったうえに、なにやら不服そうな感じでした。
これは史実の「加古川評定」をドラマでアレンジしたものと言えます。

別所家は1570年に織田家と同盟しており、若き当主である別所長治も何度か信長に挨拶に行っています。
ただ、1577年に織田家と毛利家の関係が悪化すると、別所家は毛利家からの調略を受けたようで、これには信長に追放され、毛利領の鞆に在住していた将軍 足利義昭の影響もあったと見られています。

また、そもそも別所家は赤松家の一族(庶流)であり、将軍家や、将軍をも動かした細川家にも仕えていた名族と言える家柄
そこに農民出身の秀吉がやってきて、しかも上司になったことは、別所一族が反発した理由とも言われています。

加えて、ドラマでも描かれていたように、秀吉は東播磨の多くの城の破却を命じます。
これは播磨の国衆や別所家には承諾できなかったようで、これが別所が反発した一番の理由とも言われます。

秀吉は播磨の国衆の反発を抑えるため、彼らを集めて姫路に近い加古川で、会議を開催します。
これが加古川評定ですが、別所家は当主の別所長治ではなく、叔父の別所吉親(ドラマでは賀相)と、家老の三宅治忠を派遣。
そして別所吉親(賀相)は毛利派で、秀吉の提案に反対でした。
加えて三宅治忠が別所家の正当性を長々と話し始め、秀吉が引き、ついには「いいから言うことを聞け!」と怒ってしまいます。

結果、会議は決裂
別所吉親と三宅治忠は別所長治に「対毛利の先兵にされた挙げ句、その後は我らも滅ぼされ、播磨は秀吉に取られるでしょう。それに乗ってはいけません」と進言します。

人たらし、調略の名手として知られる秀吉には珍しい交渉大失敗で、一般には最初から別所側は離反を決めていたというのが定説です。
これが10月の話で、秀吉が姫路城に入って行動を開始したのは11月。
秀吉軍はすでに危うい状況にあったと言えます。

竹田城を渇水させた小一郎の戦いぶりは史実なの?

今では「天空の城」「日本のマチュピチュ」と呼ばれ、雲海に浮かぶ幻想的な姿が評判になっている竹田城。

ドラマではこの城の水の手(給水源)を断って、喉の渇きによって降参させていました。
しかし実際は、竹田城が渇水によって降参したという記録は見られません。
あれだけ標高が高い城だと、井戸の確保、水の補給は確かに懸念だったとは思いますが。

秀吉は信長から「播磨と攻めろ」と言われたのですが、竹田城はその北部、但馬にありました。
ここに進出するのは予定にはなかったことで、さらに秀吉軍は播磨の西の最前線である上月城も攻めますが、これも予定にない進攻です。

ドラマでは竹中半兵衛の進言によって進攻を決めた秀吉ですが、実際には手取川で失態していた秀吉が功を焦っていたと言われることが多いです。

竹田城を秀吉軍が攻めたのは2度目で、1度目は1569年、金ヶ崎の戦いや姉川の戦いが起こる前年。
まだ毛利家と織田家が同盟を結んでいた頃です。
但馬の山名家が山中幸盛(鹿介)と共に毛利家と敵対したため、これを牽制してくれと毛利家が織田家に依頼。
秀吉は2万の軍勢を従えて但馬に進攻し、この時に竹田城も落としていたのですが、城は山名家に返還されていました。

今回の1577年の進攻は、小一郎にとって初の大将としての進軍となります。
その戦いぶりは記録によって異なり、一次史料とされる「信長公記」には「敵はすぐ退散した」とシンプルに書かれているのみ。

一方、前野長康の家に伝わる「武功夜話」には「城兵は岩を落とすなどして抵抗したが、怯むことなく攻め続け、鉄砲300挺を撃ちかけることで城兵は降参した」と書かれています。
これを反映してか、ドラマの小一郎の軍勢には前野長康が加わっています。
ただ、武功夜話は信憑性は低いとされています。

どちらを信じるかは研究者によって異なり、いわゆる一次史料原理主義の方だと信長公記しか相手にしません。
そうでない人だと武功夜話も含め、複合的に判断しますが、いずれにせよ、そう長い戦いにはならなかったようです。

ここを攻めた理由はドラマでも言っていたように、近くに生野銀山があったからのようです。
この銀山のピーク時の産出量は有名な石見銀山に劣らなかったようで、本格的な運営が始まって以降、秀吉の進軍を経済面で支えることになります。
特に貿易において、銀貨は当時の世界通貨であったため重要視されました。

石見銀山の銀は世界史におけるオランダの隆盛、スペインの衰退に影響したと言われていますが、それには生野銀山の銀も多分に含まれていたと思われます。

竹田城を守っていた太田垣輝延は山名家の家臣で、山名四天王の一人。
生野銀山の開発も行っていたようですが、秀吉に攻められても小一郎に攻められてもあっさり降参していて、あまり強い武将のイメージはありません。

しかし、ドラマの水を独り占めする様子は、やり過ぎなような……
私は敵役だからといって、ドラマで悪逆非道に描くのは嫌いなんですよね。
ここまでの豊臣兄弟の敵役は、敵ながら相応に魅力的に描かれていたことが多かったので、今回のいかにも小物感が漂う表現は好きではないです。

余談ですが、最近の信長の野望は武将がみんなかっこ良く描かれています。
これは「すべての戦国武将にご子孫や親族の方々がいるから、失礼なことはできない」という考えがあるからのようです。

福原城を攻めた竹中半兵衛と黒田官兵衛の仲が悪かったけど、そうなの?

上月城のすぐ近くにあった福原城(佐用城)。
宇喜多家が支配する備前との国境にあり、まさに最前線でした。
しかも当時の上月城は赤松家の親族が守っており、兵も多く容易に落ちないと思われたため、秀吉はまず竹中半兵衛、黒田官兵衛、蜂須賀正勝を派遣し福原城から落とすことを命じます。
史実では、秀吉は福原城攻めには行っていないようです。

この戦いでは蜂須賀正勝が大活躍したようで、地元の記録(播州佐用軍記)には、蜂須賀隊が裏から大量の鉄砲射撃で城兵を分断、官兵衛が敵を誘い出し、その隙に半兵衛が城を制圧したと記されています。
ドラマでもこの三人が軍議に参加していました。

ドラマではその軍議で、竹中半兵衛の作戦を見た黒田官兵衛が「取り囲むよりわざと隙を作り、待ち伏せて撃つなり捕らえるなりすれば、味方を無駄死にさせずに済みまする」と言って、半兵衛が変顔するシーンがありました。
これは半兵衛のリアクションはともかく、官兵衛が実行したのは史実のようです。

黒田家の記録(黒田家譜)に書かれており、囲師必闕(囲師必けつ)とも呼ばれる、孫子の兵法にもある有名な軍略です。
敵を完全包囲する時はワザと一か所だけ逃げ道を開けておけ、というもの。

二人の関係がどうだったのかまでは、ちょっと不明……
黒田官兵衛の戦歴や名声はすでに十分だったのですが、このあとの荒木村重の一件でやらかすので、調子に乗ってた、みたいに言われることは確かにあります。
それを竹中半兵衛がどう思っていたのか……
まあ、知らぬ顔の半兵衛なんでしょうけど。

こうして福原城を落とした秀吉軍は、秀吉到着後、いよいよ上月城を攻めるのですが……
そこで最後のショッキングなシーンが展開されることとなります。

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今回登場した武将や家族の(史実の)動向

・羽柴小一郎長秀
本ドラマの主人公。のちの豊臣秀長。
秀吉軍の部隊の一部を率いて但馬地方へ進軍、総大将、及び別動隊の大将を務めることとなり、竹田城を制圧してからはその城主となります。
ただの秀吉の弟ではなく、明確に武将と言える存在になりました。

・羽柴筑前守秀吉
本ドラマのもう一人の主人公。のちの豊臣秀吉。
黒田官兵衛のおかげで姫路まで何もすることなく進出。
しかし加古川評定で別所の反感を買い、手取川の責任を挽回したい焦りもあったのか、竹田城と上月城に独断で進出します。

・慶
主人公の小一郎と結婚したヒロイン。ドラマでの読みは「ちか」。
ほぼドラマオリジナルの設定です。 デレました。

・寧々
秀吉の奥さん。ドラマでは髪が長くなりました。
石田三成、加藤清正、福島正則などの羽柴家を支える次世代の若者を養育中です。
最近はこっちがデレてません。

・長尾弥兵衛、副田甚兵衛
弥兵衛は秀吉の姉「とも」の夫で弥助から改名。武蔵守を称しています。
甚兵衛は秀吉の妹「あさひ」の夫で甚助から改名。
甚兵衛は小一郎の配下の一人として但馬攻めに従軍、山名家の若桜鬼ヶ城などの攻略で活躍し、但馬北部の最前線の城の守りを任されています。

・宮部継潤
元比叡山の僧侶で、元浅井家の家臣。 武闘派の僧兵です。
秀吉の姉の子である万丸(よろずまる、豊臣秀次)を養子にしています。
彼はこのまま中国地方の山陰方面を担当するため、ここが主戦場です。
小一郎の配下として活躍、小一郎の不在時は代わりに総指揮を採りました。

・蜂須賀正勝
秀吉の片腕である「蜂須賀小六」。
美濃の木曽川流域の土豪である川並衆の頭領の一人でした。
播磨の福原城の戦いで鉄砲隊を率いて活躍、秀吉軍の主力です。

・前野長康
蜂須賀小六の弟分である川並衆の頭領の一人。
前野家の記録である「武功夜話」に小一郎の但馬での戦いの記録があるため、ドラマのように小一郎の部隊に従軍していた可能性はあります。
もう少し後で小一郎の直属の配下となります。

・藤堂高虎
元浅井家の家臣の大男。 勤め先でケンカしてクビになりまくり、主君を変えまくっていましたが、小一郎の配下になってようやく安定します。
ドラマでは早くも築城名人になっています。

・石田三成
のちの豊臣家五奉行の筆頭にして「関ヶ原の戦い」における西軍総大将。
幼名&通称は佐吉。
まだ寧々に養育されている頃で、なぜかモテモテ。

・加藤清正
片鎌槍がトレードマークの秀吉子飼いの名将。 幼名&通称は虎之助。
まだ寧々の元に居候中の若者。

・福島正則
水牛の兜がトレードマークの秀吉子飼いの猛将。 幼名&通称は市松。
こちらも寧々の元に居候中。あまりモテない?

・竹中半兵衛
秀吉の配下であり、軍師的なポジション。
黒田官兵衛(小寺孝高)が登場して、ちょっと焼きもち?
今回からヘン顔キャラになりました。

・小寺官兵衛尉孝高(NEW!)
のちの黒田官兵衛、及び黒田如水。 秀吉の軍師「両兵衛」の一人。
衰退中しかも分裂中の赤松家の家臣の家臣と言う厳しい立場でありながら、若くして軍才を発揮して主君・小寺家の窮地を何度も救っている奇才。
ドラマでは調子に乗ってるベンチャー企業の若者って感じですが、その才能と実績は、それを裏付けるのに十分。
信長の才覚に早くから注目し、直々に名刀へし切長谷部を貰いました。
秀吉の才能も高く評価していたと思われます。

・荒木村重 / だし
主家であった池田家を乗っ取り、信長に反逆するものの出戻りして、摂津の守りを任された信長お気に入りの武将。 と、その奥さん。
池田家は播磨の近くを領地としていたため、小寺家とはある時は敵、ある時は味方になっており、黒田官兵衛とは旧知の関係です。
黒田官兵衛が信長に面会する際には取次ぎを頼みました。

ドラマでは「もうゆっくりしたいんだよ」といった猛将らしからぬセリフを言っていましたが、実際、この人は色々ありましたからね……

・中川清秀(NEW!)
荒木村重の配下というか同僚。 村重と同じく元は池田家の家臣。
池田家が内紛を起こしたときは荒木村重と乗っ取りを実行、その後は村重と共に織田を裏切って三好に付いたり、また戻ったり、行動を共にします。
武勇に優れ、鬼瀬兵衛と呼ばれました。 のちに秀吉と義兄弟となります。
ということは、豊臣義兄弟?

・高山右近(NEW!)
荒木村重の配下というより同僚。元は和田惟政の配下。
荒木村重が三好家と組んで和田惟政を攻めたあと、和田家の跡継ぎの息子と斬り合いとなり、結果的に荒木村重の配下となります。
熱烈なキリシタンで、日々神の教えを実践。 領民がみんなキリスト教徒になって地元の寺院が信者不足で潰れるほどの信仰ぶりを見せます。

・別所長治(NEW!)
東播磨の戦国大名。ドラマの時点ではまだ19才(もしくは22才)。
彼が当主になった年に別所家は織田家と同盟、事実上の従属をしているため、織田家とは友好的で、信長にも何度も挨拶していたのですが……
ドラマではすっごい爽やかな若者。

・別所重棟(NEW!)
別所家の家老で別所長治の叔父。一般的には「別所重宗」。
兄である別所賀相とは仲が良くなかった模様。
織田派の別所家臣ですが、家臣と言うより別所家の別派閥と言え、信長の要請を受けて独自に三好家や雑賀衆と戦っていたこともあります。

・別所賀相(NEW!)
別所家の家老で別所長治の叔父。一般的には「別所吉親」。
毛利派の別所家臣で、加古川評定での秀吉との交渉決裂のあと、別所長治に織田家に反逆して毛利に付くよう進言しました。
ドラマでは秀吉から難題を押し付けられて苦悩している様子。

・太田垣輝延(NEW!)
竹田城の守将で、山名家の家臣。 山名四天王の一人。
1569年の秀吉の進攻で降参、その後に毛利家の吉川元春の説得で毛利側になりますが、今回の小一郎の進攻でまた降参。
つまり豊臣兄弟の双方に負けた男。
ドラマではすっごく器の小さいダメ上司に描かれていました。
個人的に風林火山の小笠原さんとタメが張れる。

・上垣清重(NEW!)
詳細不明ですが、ドラマでは竹田城の太田垣輝延の家臣。
地元ローカルな資料には名前があるのでしょうか……?

・織田信長
今回は回想シーンのみでの登場。
秀吉に播磨攻めの総大将を命じます。
前回からほとんど時間が経っていないので、戦況に変化はありません。
明智光秀が丹波、柴田勝家は北陸、佐久間信盛は本願寺城を包囲中。

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次回、第22回の記事は こちら
前回、第20回の記事は こちら です。

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