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上月城と山中鹿之介(豊臣兄弟! 第22回 播磨大誤算 歴史解説)

NHKの大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第22回「播磨大誤算」の、簡潔な歴史解説です。
今回は1577年末から1578年、当初はうまく行っていた秀吉軍の播磨・但馬進攻が、相次ぐ寝返りによって暗転していった頃が背景となっています。

個人的には、ナレ死で終わると思っていた尼子勝久&山中鹿之介が出たのが意外でした。
なお、先に言っておきますが、記憶喪失の辺りは全部フィクションです。

秀吉が行った「上月城の虐殺」 本当はどうなの?

秀吉が人々を虐殺して磔にし、街道沿いに並べたという上月城の虐殺。
ドラマでは上月城にいた人々はすでに死んでいたことになっていました。
実際はどうだったのかと言うと……

上月城を攻めていた秀吉は、「首を差し出す代わりに城内の者の命を助けて欲しい」という敵将の申し出を承諾。
しかし城に入ると一転、城兵に加えて城に逃げ込んでいた女子供200人あまりを備前との国境に連行、子供は串刺し、女性は磔にして処刑し、晒したと言われています。
秀吉の黒歴史のひとつです。

これは一次史料の「信長公記」にも書かれていて、秀吉自身も配下への手紙にこの事を書いているため、事実であったと見られています。
しかし理由は書かれておらず、どうしてこうなったかの経緯は不明です……

一般には「織田に逆らうとこうなる」という見せしめとして行った、それで播磨の国衆の裏切りを防ごうとしたと言われていますが、「それしか思い当たる理由がない」というのが実際のところでしょう。
信長に何か言われていたとか、一向宗門徒が多かったからとか、色々と説はありますが、裏付ける記録はありません。

今回のドラマでは死体を磔にして街道に並べたのは竹中半兵衛の献策ということになっていましたが、黒田(小寺)官兵衛が言っていたように、実際にはこの件で播磨の国衆の多くが秀吉に反感を持ったようです。
2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」では信長に命じられたことになっていました。

尼子勝久と山中幸盛が尼子を再興するとか言ってたけど、尼子ってだれ?

尼子家は中国地方の山陰方面(日本海側)、鳥取県や島根県の辺りを支配していた戦国大名です。
戦国時代の初期に当主を務めていた「十一州の太守」とも呼ばれる尼子経久の時代に隆盛し、跡を継いだ尼子晴久も毛利元就のライバルとして、中国地方の覇権を争っていました。

しかし尼子晴久が力を持ち過ぎていた尼子の武闘派集団「新宮党」を粛清したことで弱体化、晴久の子の尼子義久も当主としてパッとせず、毛利元就に押され始め、1566年に滅亡してしまいます。
これは織田信長が斎藤家を打倒する前年のことです。

ですが尼子家の家臣である山中幸盛、通称「山中鹿介(しかのすけ)」は、尼子家をあきらめてはいませんでした。
三日月に尼子再興を誓って「我に七難八苦を与えたまえ」と祈り、流浪の末に新宮党の末裔である尼子勝久を主君として、但馬の山名家の支援を得て毛利家に進攻。
九州の大友家や、毛利家に領土を奪われた大内家の跡継ぎとも連携し、再興あと一歩まで迫ります。
しかし、毛利軍の小早川隆景&吉川元春との決戦に敗れます。

ちなみにこの再興戦の頃、秀吉と小一郎が一度目の但馬進攻を行っていて、地味に山中幸盛を邪魔していました。

それでもあきらめない山中幸盛は、毛利家に奪われていた山名家の鳥取城を奪還、それを後ろ盾に浦上や大友とも連携して毛利家を攻撃、二度目の再興戦に挑みます。
しかし山名が土壇場で裏切り、浦上家も宇喜多に下剋上され、再び失敗。

しかしそれでもあきらめない山中幸盛は、今度は織田信長に接近。
信長に認められた山中幸盛は明智光秀の客将となり、丹波進攻や松永久秀討伐戦で活躍。
ついに上月城を与えられることになります。
これが今回のドラマで描かれていた一件です。

ドラマでは流浪の末にボロボロになっていた尼子&鹿介に秀吉がお粥を与えていましたが、実際には光秀の下で活躍していた後なので、そんなにボロボロだったことはないはず。
しかし、上月城に赴任する際には秀吉にも挨拶していたはずで、秀吉がすぐ救援に向かったことを考えても、印象は悪くなかったはずです。

信長の野望・新生の山中鹿之介。山中幸盛の通称。
書状に「鹿介」と書かれていたため近年は「鹿介」表記が多いですが、
それでは誤読しやすいため「鹿之介」の表記もよく使われます。
江戸時代には鹿之助と書かれていたことが多かったようです。

荒木村重が刀の先に刺した饅頭食べてたけど、ホント?

信長が刀の先端に刺した饅頭を荒木村重の眼前に出し、それを村重が臆することなく食べて信長に気に入られたという有名なエピソード「刀饅頭」。
これは江戸時代に有名になり、浮世絵などにも描かれている話なのですが、当時の史料には出てこないため創作とも言われています。

軍記物語(小説)である「絵本太閤記」で広まった話ですが、原典は「備前老人物語」という、備前の老人の言い伝えをまとめたという書物の模様。

ただ、備前老人物語は成立が江戸時代のかなり早い時期か戦国末期のようなので、同時代に近い記録であり、何かの元ネタはあった可能性もあります。
また、荒木村重はのちに備前を支配していた毛利領に流れて行ったので、何かの逸話が伝わっていたかもしれません。

ドラマではその際に信長が、荒木村重の家臣が毛利に内応していたと問い詰めていましたが、これは「陰徳太平記」という軍記物語に書かれている話で、荒木村重の配下である中川清秀の部下が本願寺の窮状を見かねて兵糧を送っていたというもの。
ただ、ドラマでは本願寺が完全スルーされているため、「毛利に内応」という形にアレンジされています。

陰徳太平記も軍記物語ですが、こちらも様々な記録や伝聞を元に書かれており、摂津の状況や荒木領に一向宗門徒が多かったことを考えても、説得力のある話と言えます。

なお、ドラマの村重はうまく刀の先の饅頭だけ食べていましたが、もっとバイオレンスな刀饅頭が見たいなら北野武監督の映画「首」をご覧ください。
手加減を知らない北野監督のザクザクぐちょぐちょウギャー!な刀饅頭が見られます……

荒木村重の浮世絵は刀饅頭ばかり。饅頭ではなく餅という説もあります
まあ、餅は怖いよね。信玄も死んだし

別所の皆さんはどうして寝返ったの?

織田家と同盟しており、事実上の従属状態にあった東播磨の別所家は1578年2月、毛利家の調略によって織田家に反旗を翻しました。
直接の要因は秀吉との会談である加古川評定の決裂と、秀吉が東播磨の城の破却を命じたことと言われています。

加古川評定については前回の記事でも取り上げましたが、当主の別所長治の代わりに別所賀相(吉親)と家臣の三宅治忠が出席し、彼らはすでに毛利派であったため秀吉の提案を拒否、しかも自分たちの正当性を長々と主張して秀吉を怒らせたため、交渉は決裂しました。
東播磨にあった多くの城の破却も、別所家や播磨の国衆には承諾できないものでした。
ドラマではその辺が評定(会議)ではなく、秀吉と別所賀相の面会にアレンジされていました。

ただ大きな要因は、別所家の名門意識にもあったと見られています。
別所家は「四職」という高家であった赤松家の親類で、名族と言えました。
彼らにとっては農民上がりの秀吉が大きな顔をするのは反発があったと思われ、しかも毛利家にご厄介になっている将軍 足利義昭からも説得を受けていたと思われます。

将軍直々の御内緒を送られて、毛利の支援を確約され、秀吉とは交渉決裂となると、たとえ織田が相手であろうとも名族の誇りで将軍に従うべき…… と考えた者は多かったかもしれません。

そしてまだ20才ほどの若き当主の別所長治は、叔父の別所賀相(吉親)と毛利派の家臣たちの進言により、織田家から毛利家に鞍替えすることを決意します。

秀吉は高倉山や圓教寺で記憶喪失になってたけど、そうなの?

人はそんなに都合よく記憶喪失にはなりません(笑
全部ドラマのフィクションです。
ただ、秀吉は上月城の支援に向かった際、しばらく高倉山や圓教寺に滞在していました。

高倉山は上月城の側にあって、そこにあった高倉山城に陣を張って上月城を支援する機会を伺っていたのですが、なにせ毛利&宇喜多の3万の大軍がいるため手出しができません。

信長に救援を求めるものの、やってきた明智光秀・丹羽長秀・滝川一益・佐久間信盛の軍勢は、別所の支城の攻略に向かいます。
これは信長の「先に別所を何とかしろ!」という指示のためで、ドラマでも半兵衛官兵衛が話していたように、上月城は見捨てられる形となりました。

とは言え、上月城が落ちれば毛利の大軍がそのまま姫路に向かう危険があるので、秀吉は退こうにも退けません。

画像は信長の野望・新生より。クリックで拡大します

結局、上月城の救援をあきらめた秀吉は、姫路近くの圓教寺に陣を構えます。
秀吉は尼子家の家臣であった亀井茲矩を使者として派遣、尼子勝久&山名幸盛に城を捨てて姫路城に合流しても良いと伝えますが、尼子主従は七難八苦の末に手に入れた上月城を捨てるのを良しとせず、決死の籠城戦を選択。
3ヵ月の壮絶な防戦ののち、再興の夢と共に果てました。

なお、秀吉が上月城の救援を求めたとき、信長が「もう西国と東国の決戦しかない!」と言い出して自ら出陣しようとしたため、光秀・丹羽・滝川・佐久間の各将が万が一があっては大変だと必死で止め、代わりに彼らが行くことになったという一幕があったようです。
それでも翌月、信長は自ら出陣しようとするのですが、大雨が降って各地で水害も発生、結局信長の出陣はお流れになりました。

その後、上月城を落とした毛利軍は、結局そこで退いていきます。
そのまま東進するか、上洛を目指すのか、それとも帰るのか、毛利家でもだいぶ議論となったようで、当主の毛利輝元はやる気はあったと言われていますが、小早川隆景が大反対。

輝元の教育役(しかもスパルタ)だった小早川隆景としては、信長と決戦するには輝元は頼りなく見えたのかもしれません。
実際、桶狭間の今川義元になる確率が、万が一ではなく万が百ぐらいありそう。
また、病気と称して動かなかった宇喜多直家の動きが不穏だったこと(でも実際に病気だった)、毛利元就が「毛利の領土を守れ。決して天下を狙ってはならない」と遺言していたことも影響したと思われます。

こうして毛利が帰ったので、秀吉も圓教寺から引き上げます。
しかし一難去ってまた一難、荒木村重が謀反(反逆)したという情報が伝わってきます。
荒木領は東播磨の別所の、さらに東。
秀吉軍はますます孤立してしまうことになります。

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今回登場した武将や家族の(史実の)動向

・羽柴小一郎長秀
本ドラマの主人公。のちの豊臣秀長。
但馬方面の大将となっており、竹田城を拠点に領内の安定化や銀山の調査などを進めています。
一方で別所攻めにも秀吉の副将として参陣、圓教寺に陣を構えた秀吉の支援にも向かっていて、忙しく播磨と但馬で活動しています。
豊臣兄弟紀行で紹介されていた、圓教寺の柱に「羽柴小一郎」のラクガキがあるのは面白いですね。

・羽柴筑前守秀吉
本ドラマのもう一人の主人公。のちの豊臣秀吉。
国境にある上月城を落としたことで、毛利の大軍が接近してくることに。
上月城に入った尼子勝久&山中鹿之介が包囲され、救援に向かいつつ信長にも支援を頼むものの、やってきた援軍は別所方面に向かってしまい、毛利家との小競り合いにも敗れます。
しばらく上月城を支援する機会を伺いますが手を出せず、姫路の守りのため圓教寺に後退。
この期間、別所方面は織田家の援軍に任せていました。

・なか
秀吉の母。 ドラマでは秀吉がおかしいことになってたので様子見に。
それにしても播磨まで来るとはフットワークめちゃ軽い。
姉のとも、妹のあさひ、その旦那二人は今回は回想のみの登場。

・宮部継潤
元比叡山の僧侶で、元浅井家の家臣。 武闘派の僧兵です。
秀吉の姉の子である万丸(よろずまる、豊臣秀次)を養子にしています。
彼はこのまま中国地方の山陰方面を担当するため、ここが主戦場です。
実質、小一郎の副将であり、ドラマでもそれらしい役割となっています。

・蜂須賀正勝
秀吉の片腕である「蜂須賀小六」。
美濃の木曽川流域の土豪である川並衆の頭領の一人でした。
ドラマでは3年たったら城主にするという秀吉の話をぶり返していました。
12年たってるしねぇ。

・浅野長吉
寧々と同じく浅野家の養子で、同じ浅野家の養女の やや と結婚。
のちの浅野長政で、加藤清正や福島正則、藤堂高虎らの先輩と言えます。

・小寺官兵衛尉孝高
のちの黒田官兵衛、及び黒田如水。 秀吉の軍師「両兵衛」の一人。
若くして軍才を発揮し、主君・小寺家の窮地を何度も救った奇才。
今回のドラマは、官兵衛と半兵衛の対話が多い回でした。
なぜなら、両名がそろうのは、もう……

・竹中半兵衛
秀吉の配下であり、軍師的なポジション。
黒田官兵衛(小寺孝高)が登場して、ちょっと焼きもち気味。
ドラマでは上月城の磔事件の主犯に……
史実ではこの時期、備前と播磨の国境にある八幡山城を寝返らせ、信長から秀吉に黄金100枚、半兵衛には銀100両が与えられています。

・荒木村重 / だし
主家であった池田家を乗っ取り、信長に反逆するものの出戻りして、摂津の守りを任された信長お気に入りの武将。 と、その奥さん。
上月城に毛利軍が接近してくると、秀吉と共にその救援に向かい、高倉山城に入っています。

信長から「摂津一国切り取り次第」(攻め取った摂津の土地はそのまま自分のものにして良い)の許可を貰っていたため、摂津方面に大きな領地を持っていました。
しかし石山本願寺城のすぐ側であったため領内に一向宗門徒が多く、本願寺と信長の戦いが激化するほど領民からの突き上げを受けるようになり、そのせいか信長からも疑いの目を向けられるようになります。

疑われたことについては、奥さんから「これまであなた様がなされてきたことを思えば……」とツッコミを入れられてましたが。

・中川清秀
荒木村重の配下というか同僚。 村重と同じく元は池田家の家臣。
池田家が内紛を起こしたときは荒木村重と乗っ取りを実行、その後は村重と共に織田を裏切って三好に付いたり、また戻ったり、行動を共にします。
荒木村重がいる有岡城のすぐ東にある茨木城を居城としています。

・高山右近
荒木村重の配下というより同僚。元は和田惟政の配下。
熱烈なキリシタンで、領民がみんなキリスト教徒になるほど日々神の教えを実践しています。
茨木城のすぐ東にある高槻城を居城としています。

尼子勝久(NEW!、敗死)
滅亡した尼子家の跡継ぎ。 でも最後の尼子の当主である尼子義久や、その父の尼子晴久の子ではなく、粛清された尼子の武闘派「新宮党」の末裔です。
お寺に奉公に出されていましたが、山中鹿之介の説得で尼子家の次期当主になるべく寺を出て、共にお家再興を目指しました。
戦に敗れて隠岐の島に逃れたり、京都に潜伏したり、大変な目に遭いますが、ようやく上月城の城主となって機会をつかみます。
しかし、毛利の大軍に包囲され、信長にも見捨てられる形となり、ついに降伏、自害してしまいます。

山中幸盛(NEW!、敗死)
滅亡した尼子家の遺臣。 通称「山陰の麒麟児」。
三日月に七難八苦を与えたまえと祈り、本当に七難八苦を与えられ、それでもめげずに主家の再興に邁進した忠臣。
武勇に優れ、一騎打ちや一番槍の逸話も多く、捕まっても脱走し、しかもたった一人で再興軍を作り上げ、毛利の大軍と戦える組織力を持ちます。
しかし毎回、あと一歩で敗れるか、調略によって失敗に終わりました。

織田軍に参加し、明智光秀の配下となって活躍、上月城を与えられ、ようやく城持ちまでこぎ着けるものの、毛利の大軍に包囲され降伏。
それでも生き延びて機会を伺おうとするも、それを予見した吉川元春の手の者に殺され、苛烈な生涯を閉じました。

・別所長治
東播磨の戦国大名。まだ20才前後です。
織田家と同盟(実質従属)していたのですが、毛利家の調略によって叔父の別所賀相や家臣の多く、さらに播磨の国衆が毛利派となり、領内に一向宗門徒も多かったことから、彼らの説得によって織田家から毛利家に寝返ることを決めます。
ドラマでは合戦の準備をする別所賀相を見て浮かない顔をしていました。

・別所賀相
別所家の家老で別所長治の叔父。一般には「別所吉親」。
毛利派の別所家臣で、加古川評定での秀吉との交渉決裂のあと、別所長治に織田家に反逆して毛利家に付くよう進言しました。
以後、別所家の家老の筆頭と言える立場になります。

・別所重棟
別所家の家老で別所長治の叔父。一般には「別所重宗」。
兄である別所賀相とは仲が良くなかったようです。
織田派の別所家臣で、別所家が毛利側に寝返ってしまったため、秀吉に謝罪に向かっています。
そのまま秀吉の家臣となり、空き城となっていた別所領の阿閇城の守りを任されます。

・安国寺恵瓊(NEW!)
毛利家の外交僧。 ネットでは「AK」と略されるのが定番。
外交官として大名家や将軍 足利義昭との交渉を担っています。
ただ、当初は織田信長と結んで義昭を匿うのは避けるべきだと述べており、秀吉の台頭も予見するなど、早いうちから親織田な見解を持っていました。
これから毛利の調略の実行者として、さらに秀吉との交渉役として、重要な役割を担うことになります。

・織田信長
大相撲・安土場所を開催。
そして別所家の寝返りを聞くと、息子の信忠&信雄&信孝らを派遣。
さらに上月城に毛利の大軍が来た報告を聞くと、自ら出陣して勝敗を決しようとするも、光秀や丹羽や滝川や佐久間や蜂屋頼隆に止められて、代わりに彼らが播磨に行くことに。
翌月、それでも出陣しようとしたところ、急に大雨が降り出して各所で洪水も発生、しばらくその復旧や視察に追われることになります。
もし出陣していたら…… どうなってたんでしょうね?

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次回、第23回の記事は こちら
前回、第21回の記事は こちら です。

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