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「あなたは、ここまでできる?」―知と信念に生きたヒュパティアが私に問いかけたこと

虚無感、脱力感、そして怒り。

映画『アレクサンドリア』
(原題 : Ágora)を観終わった瞬間、
なんとも言えないものが胸に残りました。

こんな後味を残す映画に
出会ったのは、初めてでした。

しかも、その感覚を、私は
その後もずっと引きずっていたのです。

なぜだろう?

この映画は、4世紀末のエジプト・
アレクサンドリアを舞台に、女性哲学者
ヒュパティアの生き方を描いた作品です。

宗教と結びついた政治勢力の
対立が激しくなる時代の中で、
彼女は知と信念を守ろうとします。


そして、その生き方の果てに、
ヒュパティアの最期がありました。

自分が守り抜こうとしたもののために、彼女は
死さえも受け入れる覚悟を持つことになります。


なぜ私は、虚無感と脱力感、
そして怒りを感じたのか?


まず怒りは、権力者たちに対して。

自分たちとは相容れない存在、
自分たちの権威や正当性を脅かす存在を、
力で排除していくやり方に、怒りを感じました。


しかし、
その怒り以上に大きかったのが、
虚無感と脱力感です。

これは、ヒュパティアに抱いた感情でした。

実在した人物の話であるとはいえ、
これはもう1600年以上も前の出来事。

でも、こう思わずにはいられなかったのです。

「もっと、他に道はなかったの?」

「本当に、どうにかならなかったのだろうか?」


私が考えたところで、
どうにかなるわけでもないのは分かっている。
考えること自体、馬鹿げている。


私は基本的に、他人の生き方に
口出しはしないタイプです。

人生はその人のものだし、
私自身も、自分の人生を他人から
とやかく言われるのは嫌です。

時には、自ら相談をお願いし、
意見には耳を傾けてきたけれど、
最後は自分で決めてきました。


それなのに…

彼女の最期を知ってから、
エンドロールが流れ続けている間も、
なぜか、この問いが頭から離れませんでした。

「生き続けるための方法が、
本当に彼女にはなかったのか?」


考えて考えた末に、この問いは
いくら考えても無駄だと気づきました。

なぜなら、

「自分にとって一番大切なものは何か?」

ヒュパティアと私とでは、
価値観がまったく違っていたからです。

彼女の最期を知ったとき、なぜ私は

「彼女が生き続けるための方法はなかったのか?」

と思ったのか?


それは、私が自分の価値観として、

「命より大切なものはない」

と考えているからでした。


まず、生きていること。
それがすべての前提だと。

この考え方は、
私のこれまでの人生経験の中で、
自然と出来上がったものです。


まだ看護師として働いていた頃。
日本の病院でも、派遣先のイラクの病院でも、
ある日突然、命を失う人たちを見てきました。

昨日まで普通に生きていた人が、
事故や病気、テロの犠牲に遭い、
あっという間に人生を終えてしまう。


ウガンダで暮らすようになってからは、
命の重さというものを、別の形で
感じるようになりました。

最初から食べる(=殺す)のが目的で
豚やヤギなどの家畜や野菜を育て、
その命をいただいて食べること。

畑を耕すこと自体が、土の生態系を
破壊する行為でもあるという事実。


自分が生きられるのは、他の命の
犠牲の上に立っているという現実。

「生きていさえすれば、
人生は何度でもやり直せる」

という経験もしてきました。


そういう経験を通して、

「私にとって一番大切なのは、自分の命だ」

と思うようになりました。


だからこそ…

生きるとはどういうことなのか?
そして、どう生きるのか?

そんな問いに、より真剣に、
より誠実に向き合えるようになれたのです。


ところが、ヒュパティアはそうではなかった。

彼女には、自分の命より大切なものがあった。

自分の命より大切なものを守り抜くこと。

それが、彼女の生き方だった。

だから、これ以上は
自分の生き方ができないと悟った時。

「どう生き残ろうか?」

を考えるのではなく、
死を受け入れることもできる。

それもまた、彼女の生き方だったのです。


それは、なんとか理解できるとして…。


それならなぜ、
映画を見終わって1ヶ月も経つのに、
私はこんなにもスッキリしないのだろう?

不快なモヤモヤは、ずっと消えませんでした。

分からないことばかりでしたが、
何か記録に残しておきたいと思い、
このnoteを書き始めました。

そして書いているうちに、ようやく
このモヤモヤの正体が分かってきたのです。


それはヒュパティアではなく、
私自身の心の中にありました


書きながら、私は自分の
もっと深い本音を思い出したんです。

「知のために、死ぬ必要があったの?」

正直に告白すると、
それはもっと乱暴な言葉でした。

「そんなもののために?」

ヒュパティアに対して、
私はこう感じていたのです。


もしこれが、国のために
命を懸けた兵士の話だったら?
愛する家族を救う話だったら?

私はきっと、

「そんなことする必要ある?」

とは思わない。


むしろ、

「国や家族のために命を懸けるなんてすごい」

と思うはず。

「なんと崇高で偉大な生き方だろう」

と、真っ直ぐに感動できたと思うのです。


なのに、知のために生きた
彼女には思ってしまった。

「そんなもののために?」

と。


つまり私は、
彼女が大切にしているものを、
自分の価値観で裁いていた
のです。

ヒュパティアを処刑した権力者たちは、
自分たちの権威を脅かす「悪の存在」として
暴力を使って彼女を排除しました。

そして私は、
自分の価値観に合わない彼女の生き方
――理解に苦しむその生き方――に対して、つい

「そんなもののために?」

と思ってしまったのです。


力は使っていないにしても、

「この構図、私はあの権力者たちと
どこか似ているのではないか?」

そう気づいたとき、

「私はそんな人間だったのか…」

と、自分自身の醜い人間性を
突き付けられたようで、ゾッとしました。


私には「そんなもの」でしかないものを
他の誰よりも大切にしている。

その価値を、誰よりも分かっている。


城壁の一歩外では、惨忍な
虐殺が繰り広げられている。

そんなときに、彼女は、
地球が楕円の軌道を回っている可能性に
目を輝かせながら夢中になり、助手として働く
奴隷とともに発見の喜びを分かち合っている。

その姿は、私には
どこか滑稽にも見えました。

「今は、そんなことをしている
 場合じゃないでしょう?」

そう思ったのです。

でも同時に、そんな彼女が
どうしようもなく羨ましかった。


外の世界がどれほど混乱していようと、
自分が本当に知りたいことに没頭し、
発見の喜びに目を輝かせていられる。

そんな生き方ができる人が、
この世界にいるということが…。


私には「命を懸ける価値なんてない」と
思うことのために、彼女は潔く死を選べる。

最期が迫った直前のシーンでは、
かつての教え子たちが必死に、
どうにか彼女を助ける方法を探し、
受け入れるよう懇願した。

しかし、彼女は一瞬も揺れることなく、
迷うことなく、その申し出を拒絶した。


その凛とした生き様。

彼女はけして、
自分の生き方を自慢したり、
逆に理解してくれない教え子たちを
責めたりしたわけでもない。


それでも私は、彼女から
こう問いかけられているように感じたのです。

「あなたは、ここまでできる?」


その問いと彼女の生き方に、私は圧倒されました。


「ここまでできなくてもいいのではないか?」

と思いつつも、心の奥深くでは、

ただ生きるのではなく、
自分の生き方を知り、
本当の自分を生きること。

死をもって自分を貫ける彼女の姿を、
私は尊いとも感じました。

「私も、こんな風に命を生き切ってみたい」

と思う一方で、やはり

「私には、ここまでの勇気も覚悟もない」

と自覚しています。


だからこそ、理想の自分と、
限界のある現実の自分との間で、
心が揺れました。

その揺れは、彼女への羨望や
嫉妬の感情も伴っていて…

正直に言えば、自分の感情を
どう扱えばいいのか分からず、
モヤモヤしていたのかもしれません。


最後、権力者の命令を受けた者たちが、
彼女を殺すための石を探しに外へ出て行く場面。

ここで私は、"小さな救い"を感じていました。


それは、
彼らが戻って来るまでに感じるはずだった
恐怖を味わわずに済んだこと。

そしてもし、戻って来た男たちによって
石で殴られていたら、息絶えるまでに
どれほどの痛みを感じたことか?

その苦しみも、彼女は免れました。

(映画を観た後で史実を知った私は、
彼女の恐怖と苦痛を想像して震えました)

さらに、もう一つ。

最期の瞬間、彼女のそばにいたのが、彼女を
ずっと愛し続けてくれていた人だったこと。


ヒュパティアが彼に対して特別な感情を
抱いていたわけではなかったとしても、

あの瞬間、彼がそこにいたことで、
彼女は少なくとも孤独ではなかった。


男たちの手によって服を剥ぎ取られ
全裸にさせられた羞恥心や屈辱、
恐怖で身も心も凍える寒さにも、
彼がそばにいたことで耐えられたのではないか?

そう思うと、ほんの少しだけ、
救われる気がしたのです。


私は大学で自然科学史を学んでから、
哲学や天文学が好きでした。

この映画を見ようと思ったきっかけも、
実在した女性の哲学者・天文学者の話だと
知ったからでした。


それなのに、
ほとんど何も知らないまま観始めたら、
宗教や政治の対立が描かれている。

「あれ? なんだか違う…」

と気づいたものの、
観るのを止められませんでした。

彼女の人生や生き様を通して、
こんなにも私自身を投影されるとは…

予想とは違う話の展開だったからこそ、余計に
感じるものが大きかったのかもしれません。

今もまだ、彼女の生き方を完全に
理解できたわけではないし、
モヤモヤも晴れてはいません。


私は、きっとこれからも、

「本当に他の道はなかったのだろうか?」

と考えてしまうと思います。


それでも、この note に書くことで、自分の
感情や価値観と向き合うことができました。

それだけで、少し心が軽くなったのです。


私は、この映画を通して
“ヒュパティア”という生き方に出会い、

私ならどう生きるか?
私にとって大切なことはなにか?

自分自身に問いかけるきっかけを
与えてもらえたことに、感謝しています。

ヒュパティア、ありがとう。

あなたの生き方を
完全には理解できなくても、
受け入れたいと思っています。


さいごに、
ここまで読んでくださったあなたへ。

もしよかったら、
映画を観てあなたが感じたこと、

「自分ならどう選ぶだろう?」

と思ったことを
教えていただけませんか?

私は今回、期間限定で配信されていた
YouTubeのギャガ公式チャンネルで観ました。

配信が終わっている場合は、
こちらから観ることもできます。

🌟【映画『アレクサンドリア』を観る】

この映画を通して、
自分の価値観や生き方を問い直す体験を、
あなたと共有できたら嬉しいです。


Soul Stylist おぴこ

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おぴこ|人と地域の命の輪郭を整えるSoul Stylist 夫と歩むウガンダの地域創り『ShineOn』を次へ進めるため、私自身も「開拓者」として進化する決意をしました。頂いたサポートは、現地の雇用創出や商品開発、活動を加速させる私の学びのために大切に活用します。誰もが自分の人生を切り拓き、命を輝かせる世界を。応援よろしくお願いします!