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堀越二郎の頂点〜零戦の登場【堀越二郎の挑戦その4】


 堀越二郎は、1932年の七試艦戦の設計から本格的に海軍戦闘機の開発に携わりました。七試艦戦、九試単戦、九六式艦戦と段階を踏むなかで、次々と成功を収め、設計主任としての地位を不動のものにしていきます。  
 1937年に九六式艦戦の4号機が完成し、区切りを迎えたとき、堀越は33歳。設計者としての円熟期を迎えつつありました。そしていよいよこの年(昭和12年)、十二試艦戦(後の零戦)への開発に挑みます。


1. 海軍のムチャぶり要求と革新技術の導入

 1937年(昭和12年)。海軍は新たな「十二試艦戦」の開発を指示します。要求は極めて厳しく、堀越自身が「ないものねだり」と嘆くほどでした。ライバルの中島飛行機はこの要求に撤退します。
 この要求を一言でいうと「攻撃機援護のための長い航続距離と敵機を補足する高速力、そしてまけない格闘性能を両立させよ」ということになります。太平洋の広大な戦場を想定したものでした。与えられたのは1,000馬力クラスのエンジンです。

 堀越は九六式までの経験を活かして果敢に挑戦することになります。七試艦戦→九試単戦→九六式艦戦の開発で得た経験と技術の集大成となるものでした。

 十二試艦戦の設計方針は徹底した軽量化と空気抵抗の減少、そして操縦性と安全性の向上でした。新しい翼型(翼端のねじり下げ)や定速式プロペラ、降着装置、超々ジュラルミンESD材、水滴型密閉風防、新しい20㎜機銃、流線形の落下増槽などが次々と採用されました。この中には社内の新技術や、他の機体の成功例なども盛り込まれたいきます。
 堀越は零戦よりも、九六式艦戦の方が思い入れがあったと後年、言葉を残しています。技術的なイノベーションは九六式艦戦の方があったといえます。

徹底した軽量化

 特に徹底したのは重量軽減です。飛行機の設計は「ひき算の設計」と言われるように、これでもかというぐらいに徹底的に重量を軽くします。余計な重量は即、性能低下に繋がるからです。空に上げる質量は軽いに越したことはありません。これがあったので零戦には防弾性がありませんでした。優先順位が違っていたのです。クライアントの軍から要望がなかったからと言われています。
 優先順位が低いから装備しなかったというのは、それほどまでに過酷な要求であって余裕がなかったからともいえまます。

 また、翼面荷重をわずか105kg/m²以下に抑えるという思い切った数値を設定。イギリスのスピットファイアが160kg/m²、ドイツのBf109が170kg/m²だったのに比べると、その軽さは際立っていました。これにより、格闘性能と空母運用での優位性を獲得したのです。

初期の頃の立役者。零戦21型

2. 試作機の誕生と空中分解事故

 こうして完成した零戦の試作1号機は1939年3月に完成し、4月には初飛行を果たしました。2号機が空中分解し、パイロットが殉職するなど痛ましい事故も起きますが、それらを乗り越えて、1940年(皇紀2600年)に正式採用、これをもって零式艦上戦闘機(A6M)として名を刻むことになります。

 この当初は瑞星一三型エンジン(780馬力)を搭載し、2枚プロペラで飛行しましたが、振動の問題から3翅プロペラに変更。3号機以降に待望の栄一二型エンジン(970馬力)を搭載し、順調に試験が進められていきます。

初期の零戦11型 

3. 中国戦線での衝撃的デビュー

 零戦の初実戦は運用開始の2ヶ月後、1940年9月、重慶上空で行われました。日本側の記録では、わずか13機の零戦が27機のソ連のI-15・I-16を全機撃墜、損失ゼロという衝撃的な戦果を収めたとされています。
 この報告は中国軍顧問のシェンノートを通じて米本国に伝えられましたが、「日本にそのような技術力はない(笑)」と取り合われなかったと伝えられています。

 その後の真珠湾攻撃をはじめ、零戦は連戦連勝を重ね、「無敵のゼロ戦」として世界中に恐れられる存在となりました。アメリカもようやく零戦の驚異的な能力を認め、対抗策を練り始めます。まずは「ゼロとは格闘戦をするな」でしたが。よく知らないイギリス空軍はスピットファイアでこてんぱんに零戦にやられます。
 ここには優れた設計とともに、徹底的に鍛えられた熟練搭乗員たちの力がありました。

格闘戦のイメージ

4. 対抗策の出現と戦局の変化

 しかしアメリカは偶然にもほぼ無傷で鹵獲した零戦(アクタン・ゼロと呼ばれている)を徹底的に研究し、弱点を把握します。
 零戦の軽量構造は長所であると同時に、それを引き換えにした防弾性能や急降下耐性の低さという弱点を抱えていました。
 零戦のライバル機は、当初はF4F(1,200馬力)でしたが2,000馬力級のF6FP-38などが続々と登場し始めると苦戦し始めます。

 米軍は零戦と正面から格闘戦をせず、一撃離脱戦法や「サッチ・ウィーブ」と呼ばれる編隊戦術を採用。
 さらに新型戦闘機F6FヘルキャットF4Uコルセアが登場し、物量と性能で圧倒する時代に移っていきます。日本側は改修に改修を重ねたものの、エンジン開発の遅れが響き、零戦は次第に劣勢を強いられることになりました。

一撃離脱戦法
格闘戦を習得する必要はなく短期間でパイロットを養成できました。

相次ぐ改修に悩殺される堀越二郎

 戦局が悪化するなか、堀越は現場から要請される零戦の改修に追われました。しかしエンジン開発が進まない日本では、根本的な性能向上は望めず、改修は常に「延命措置」に過ぎませんでした。エンジン開発が遅れていた零戦は、工芸品のようであり、完成した時がピークだったのかもしれません。
 設計者としての苦悩は深まり、堀越は「悩殺される日々」を過ごします。それは技術者としての責任感と、国家の命運に巻き込まれた苦しみの交錯でした。

零戦の各タイプはざっとこんな感じ。

11型〜64機製造。中国大陸で敵機全機撃墜という強烈なデビューを飾りました。
21型〜艦載用に翼端折れるようにして着艦フックをつけています。真珠湾攻撃で有名。
32型〜エンジンを栄12型(920馬力)から栄21型(1,110馬力)へパワーアップ!高速化のために翼端をカットしたかたちに。航続距離は犠牲にしたため現場からは大不評に。
22型〜栄21型になって減った航続距離を増やしたもの。翼も元に戻す。
52型〜翼の改設計して単排気管にしてスピードアップしたもの、機銃の搭載方法でで甲、乙、丙があり。

エンジンは結局終戦まで2番目の形式、終戦まで栄21型に頼らざる終えませんでした。

5. 苦闘の末に特攻の象徴へ

 戦争末期になると、零戦は最新鋭機に太刀打ちできず、制空権を失った日本は次々と敗退していきます。堀越二郎も改良作業に奔走しましたが、限界を超えた機体を維持し続けるのは困難でした。

 零戦の長所は、護衛のための長い航続距離と格闘性能です。それに特化したため、他の性能は犠牲になっています。 
 戦局が変化し、護衛の飛行機もなくなり、パイロットの練度が落ちて、本土決戦になると言葉は悪いですが、お役目御免というわけです。

 やがて零戦は本来の戦闘機としての役割から、悲惨な特攻機として使われることさえ増えていきます。

零戦の限界は250kg爆弾でしたが特攻では倍の500kg爆弾を搭載していました。

 設計当初、「1000馬力相当のエンジンで最高の戦闘機を作れ」という無理難題に対して、堀越が到達した零戦は、間違いなく時代の頂点に立つ名機でした。しかし、戦局の変化と国力の差が、その栄光を長くは許しませんでした。
 零戦は、日本の技術力の誇りであると同時に、戦争の無謀さを象徴する存在として記憶され続けています。


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