堀越二郎の最後の翼―YS-11【堀越二郎の挑戦その7・最終回】
堀越二郎の挑戦、最後のエピソードで最終回になります。
1945年の敗戦とともに、日本の空は閉ざされました。GHQの航空禁止令により、航空機の設計や製造は一切認められず、大学の航空学科も消滅しました。
航空技術者たちは、一瞬にして職を失い、再び空に挑むことができるのかすらわからない日々を過ごすことになり、多くの技術者たちが他の産業に流れることになりました。
日本の航空技術は凍結され、未来への展望はまるで霧に包まれていたのです。
1. 戦後の7年間の断絶と堀越二郎の苦悩
しかし、その技術の灯火は完全に消え去ったわけではありませんでした。多くの技術者は自動車や造船、あるいは重工業の分野へと散り散りになっていきました。
ある技術者は車の設計に。零戦の技術者の一人は開発で得た振動問題を応用し、新幹線の開発に大きな貢献をしました。また他の技術者も精密機械やエンジン開発に携わることで、培った知識や経験を細々とつないでいったのです。
もしこの潜在力までもが完全に途絶していたならば、日本の航空は本当に二度と立ち上がれなかったと思います。
飛行機が大好きで航空の道を目指した堀越でしたが、時代が与えられたのは戦闘機の開発でした。それでも高性能の機体を開発することで、一人でも多くの若者の命を救いたかった。堀越は晩年にそういう手記を残しています。
多くの前途ある若者が、けっして帰ることのない体当たり攻撃に出発していく。新聞によれば、彼らは口もとを強く引きしめ、頬には静かな微笑さえ浮かべて飛行機に乗り込んでいったという。涙がこぼれてどうしようもなかった。
なぜ日本は勝つ望みのない戦争に飛びこみ、なぜ零戦がこんな使い方をされなければならないのか」
特攻隊というような非常な手段に訴えなくてもよかったのではないか
1950年の『読売評論』では「私は職業の選択に失敗したと思う」という、航空ファンからしたら、あまりにも哀しい言葉も残しています・・・。
新たな希望が見えないまま、この暗闇のような状態は6年も続くことになります。
2. 新たな希望へ
しかし、新しい転機が訪れます。それは1951年、サンフランシスコ講和条約の発効でした。日本が独立を回復した瞬間、それは同時に航空研究の再開を意味しました。戦後の荒廃から立ち直ろうとする復興の熱気の中、「日本の技術で再び空を飛ぶべきだ」という声が高まりました。
その象徴として計画されたのが、1956年に発足した国産旅客機開発プロジェクト(輸送機設計研究協会)です。敗戦から11年。航空技術の継承が次世代に伝えられるかどうか、まさに最後のタイミングでした。
この旅客機はYS-11と名付けられました。それは単なる新型機の設計ではなく、戦前から続いた航空技術の記憶と経験を呼び覚まし、次世代へと橋渡しする国家的挑戦でした。
かつて敗戦の悲しみの中で閉ざされた技術を、もう一度光の下に引き出すこと。その試みには、戦後日本の再生そのものが込められていました。
零戦を設計した堀越二郎もこの計画に加わります。当時53歳。若き日の軍用機開発のような華やかさはなく、まさに「最後の挑戦」でした。
零戦で世界を驚かせた設計者が、戦後には人々を安全に運ぶ翼を作る。その歩みは日本の航空史の縮図であり、堀越自身の人生も「戦争の技術」から「平和の技術」へと舵を切ったのです。
3. 五人のサムライの再会
YS-11の設計陣には、かつて軍用機を設計した名匠たちが再び集結しました。零戦の堀越二郎、一式戦「隼」の太田稔、紫電改の菊原静男、飛燕の土井武夫、そして航空学の第一人者・木村秀政。戦中はライバルであった彼らが、戦後は「人を運ぶ平和の翼」を生み出すために肩を並べたのです。この当時はみんな50歳を超えていました。

その姿は「五人のサムライ」と呼ばれ、日本再生の象徴として人々を熱くしました。YS-11は日本が再び航空機を生み出せる国であることを示し、敗戦で途切れかけた技術の系譜を未来へとつなぐ大きな希望となりました。堀越にとっても、それは失われた空を取り戻すための最後の挑戦でした。
4. 苦難の開発と初飛行
しかし、YS-11の開発は決して順調ではありませんでした。戦前の軍用機開発の経験は、民間輸送機にはほとんど通用せず、安全性・快適性・経済性という新しい課題が次々と立ちはだかりました。特に快適性は軍用機ばかりのっていた彼らにはある意味、未知の分野であったと思います(^^)。
また、エンジンや電子機器の多くは外国製に頼らざるを得ず、設計現場は試行錯誤の連続でした。
製造を担当するメーカーも、新しい三菱重工、川崎航空機、中島飛行機の富士重工、新明和等など、複数の企業のジョイントした国内大型プロジェクトとなります。日本の大空の夢をもう一度ですね。分担率は三菱と川崎の2つで8割近いことから、この2社が航空機メーカーの大手になりました。

着工から5年。技術者たちは挑戦を続け、1962年8月30日、YS-11は初飛行に成功します。その瞬間、日本の空に再び国産機が舞い戻り、閉ざされた技術を乗り越えた努力が結実しました。YS-11の機影は、日本の空に飛翔する希望の証であり、堀越二郎の人生を締めくくるにふさわしい結晶となったのです。
零戦からYS-11へ。彼の「最後の挑戦」は、日本の空に平和の翼を取り戻し、技術と志を次世代へと橋渡ししたのです。
5. 堀越二郎の晩年と思索
YS-11開発後、堀越は教育と安全の分野に力を注ぎました。1963年から1965年にかけて東京大学宇宙航空研究所で講師を務め、1965年には「人の操縦する飛行機の飛行性の改善に関する研究」で工学博士号を取得。その後、防衛大学校(1965〜69年)、日本大学(1972〜73年)で教授を務め、後進の育成に尽力しました。
また、1966年の英国海外航空機空中分解事故、1971年のばんだい号墜落事故などで事故調査委員会の委員を務め、原因究明に携わりました。
彼は「飛行機の設計者は、最後にその飛行機に乗る人の安全を考えなければならない」と語り、設計者の責任と安全の大切さを後世に訴え続けました。
その功績により、1973年に勲三等旭日中綬章を受章。1982年1月11日、78歳で逝去。死後は従四位を追贈され、ニューヨーク・タイムズをはじめ世界の新聞がその死を報じました。
敗戦の闇に閉ざされながらも、再び飛翔を夢見た技術者たち。その誇りと希望を未来へ託したことこそ、堀越二郎の真の遺産でした。
「戦う技術者たち」というシリーズで「堀越二郎の挑戦」ということで全7回に渡って紹介してきました。お付き合いくださり、ありがとうございました。

設計チームの仲間。中央が堀越二郎
