日本の技術者が結集した国産旅客機YS-11
かつての日本海軍の零式艦上戦闘機、日本陸軍の三式戦「飛燕」、四式戦「疾風」、二式飛行艇と紫電改といえば、私のnoteでも何回も取り上げた超有名な飛行機たちですが、これらの飛行機の設計者たちが集結して一機の航空機を開発すると聞いたらどうでしょう?ワクワクしませんか?戦後に本当に合った出来事なのです。それが今回紹介する日本初の国産旅客機YS-11です。

■再び国産で航空機の設計を!
終戦で航空機の開発を禁止された、かつての技術者たちは自動車産業や鉄道産業への転向を余儀なくされました。そのおかげで、家電、車、新幹線など戦争で培った技術力が平和利用されて私達の暮らしが豊かになっていたのも事実です。
復興も一段落ついて、陸上自衛隊が創設したのが1954年。航空禁止令の解除に伴い、再び国産で航空機をつくろうという機運が出てきます。
そこで1957年に国産中型輸送機の研究を進めるため、財団法人輸送機設計研究協会(通称、輸研)が設立されることになります。この輸研には、戦前に戦闘機や爆撃機などの軍用機に携わった経験豊かな技術者たちが集結し始めます。そう、もう一度日本の空を自分たちの航空機で羽ばたかせようという国産旅客機プロジェクトです。今度は平和の空なので、機銃も爆弾も考えなくてよいのです。夢が膨らみますよね。
■5人のサムライが集結!
基礎設計には、総合主任と各分野の主任が置かれますが、この総合主任に、「航研機」で名を馳せた木村秀政氏が就任(当時53歳)。
空力主任に「二式大艇」「紫電改」の菊原静男氏(当時51歳)。
艤装主任に「飛燕」の土井武夫氏(当時53歳)。
企画主任に「隼」「疾風」の太田稔氏。
そして構造主任に「零戦」の堀越二郎氏(当時54歳)が加わります。

かつてのライバルたちが一同に集結したことになったこの5人は、いずれも戦前の日本を代表するまさに航空機業界のオールスターたち!
マスコミも当時の人気の映画「七人の侍」をもじって「五人のサムライ」と呼ばれたそうです。
さらには製造を担当するメーカーも、新しい三菱重工、川崎航空機、中島飛行機の富士重工、新明和等など、複数の企業のジョイントした国内大型プロジェクトとなります。日本の大空の夢をもう一度ですね。分担率は三菱と川崎の2つで8割近いことからこの2社が航空機メーカーの大手です。
ちなみに三菱は"よこさん"、川崎は"たてさん"と、私が在籍していた時は呼んでいました(笑)。
面白いエピソードとして、元々の設計者たちが戦闘機や軍用機設計者だけあって信頼性と耐久性には優れるものの、最初の乗り心地はイマイチだったといいます。まるで軍用輸送機のような乗り心地だったとか(笑)。
というか、そもそも皆さん、旅客機の設計をしたことがないどころか、乗ったこともなかったそうで・・・。^^;
■頑丈で堅実な作りで大活躍
それでも日本初の旅客機への期待は大きく、紆余曲折を経て、飛行試作機1号機は1962年(昭和37年)7月11日に三菱小牧工場でロールアウトしました。
YS-11の着工から5年。終戦で翼をもがれてから17年。
YS-11は1965年から運用が開始され、2006年に国内で退役するまで44年の長期に渡り日本や世界の空を飛び回りました。製造機数は182機。
最も飛行時間の長いものは、71,227時間31分にも及ぶ、世界に誇ってもよい記録です。生産機数は合計182機にものぼり、国内民間機75機、官庁34機、輸出13カ国76機など、幅広く活躍することになります。

日本の地方空港を飛び回った飛行機ですので、とても懐かしい方もいらっしゃると思います。
戦後、久しぶリの航空機開発ということで、開発はかなり難航しましたが出来上がってみると、日本の高度経済成長期の象徴ともいうべき名機でした。


