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【本格書道家が愛する】宋の四大家

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左:書道家タケウチ 右上:書道家板谷栄司with鯖大寺鯖次朗 右下:ジャズギタリストタナカ


書道と言えば中国。分厚すぎる中国書道史において、現代でもよく習われるのは書聖・王羲之(303-361年)に始まり、初唐の三大家(唐の四大家)、そして宋の四大家

▼初唐の三大家
欧陽詢(おうようじゅん 557-641年)
虞世南(ぐせいなん 558-638年)
褚遂良(ちょすいりょう 596-658年)
顔真卿(がんしんけい 709-785年)を入れて「唐の四大家

今回は、「宋の四大家」を取り上げます。

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宋という時代

:前1600頃-前1046年〔甲骨文〕
:〔金文〕
 西周:前1046-前771年
 東周:前770-前256年
:前221-前206年〔小篆(篆書体)が公式書体となる〕

 前漢:前202-8年〔隷書体が実用書体となる〕
 後漢:25-220年〔隷書体から草書体が生まれる〕
(三国):220-280年〔楷書体が生まれてくる〕
(六朝):265-589年〔楷・行・草・隷・篆の5書体が出揃う〕
:581-618年
:618-907年〔楷書体の黄金期〕
宋:
 北宋:
960-1127年(今回はとくに北宋の話)
 南宋:
1127-1279年
:1271-1368年
:1368-1644年
:1644-1912年

書体の変遷

907年唐が滅亡、五代十国時代の戦乱の後、960年に初代皇帝:趙 匡胤(ちょうきょういん 927-976年)が宋を建国しました。

宋の前半・後半で、北宋・南宋に分かれているのは、地理的な意味において、都が北(開封)南(臨安)にあったから。北宋と南宋では、領域・政治・文化も大きく異なりました。

今回は、北宋の話。


「士大夫」が政治・文化の中心に

唐からの大きな変化としては、唐までの中国の王朝では、政治も経済も文化も貴族層がメインでしたが、宋では「士大夫(したいふ)」と呼ばれる階級が取って代わりました。平民でも士大夫になれば、国の中心の一員となれるようになったのです。(実際には狭き門だったが)

▼「士大夫」とは
・科挙(官僚の試験)に受かり、上級官僚になった者
・儒教的教養を身につけている知識人・読書人
・代々の地主ではなく、新興地主が多い

士大夫は、腕っぷしより、所謂「頭の良い」人たち。宋は、皇帝を中心として、「頭の良い」士大夫たちによって、武力ではなく学問や文化を重んじる「文治主義」の政治方針をとりました。

文化面でも、士大夫は大活躍。貴族文化の受け手が貴族的階級であったことから、士大夫中心の文化になると受け手の裾野も広がり、大きく変わっていきました。


活版印刷の発明

宋代には、羅針盤・火薬・活版印刷のいわゆる三大発明がされました。
活版印刷は、畢昇(ひっしょう 972-1051年)が土製の活字を作ったことによって始まったと言われています。(その後の時代に、木製→金属製となった)

※金属製の活字を型に並べてインクを付けて刷る、現代の活版印刷は、ドイツのグーテンベルク(1398-1468年)によって発明されたというのが一般的。

ヨハネス・グーテンベルク
(出典:Wikipedia)

アルファベットに比べて漢字は複雑で膨大な数なので、宋の活版印刷はとても難儀したのではないかと推察しますが、印刷が普及すればするほど、書の役割は芸術方面に傾いてくる(後述)のも頷けます。

ちなみに、現代のいわゆる「明朝体」は明代に確立しましたが、宋の時代には「宋朝体」がありました。

宋朝体(出典:Wikipedia)


その頃日本は平安時代

中国・北宋の時代、日本は平安時代中期~後期。藤原氏が権力を持ち、貴族が政治も文化も独占していた時代です。

文字としては、平仮名が成熟し、源氏物語などの文学が花開くころ。宮廷の内側で洗練された、閉じた美の世界があったと言えます。

土佐光起(1617-1691)筆『源氏物語画帖』
(出典:Wikipedia)


北宋の書の特徴


今回のメイン「宋の四大家」蔡襄・蘇軾・黄庭堅・米芾の4人も皆「士大夫」。知識が豊富で頭がよく、書が上手く、歴史に深く名を残した彼ら。

唐代の書が、公的な意味合いが強く、端正で規範的で威厳のあるものが多いのに対し、北宋の書の特徴は、「尚意競艶(しょういきょうえん)」。

意(こころ)を尚(とうと)び、艶を競う。
つまり、人間性や個性、その人の思想・哲学などを書で表現することが重要視されました。

唐代の「公的な美」から、宋代の「個人の美」へと移り変わっていったのです。そのため、自作詩を書いたものも多く、秩序や読みやすさ重視の楷書体ではなく、優れた行書・草書作品が多く残っています。

また、唐までの時代は現在に残るのは拓本が多いですが、宋以降は真蹟を見ることができ、書き手の「生の書」を観察できるようになったのは大きな違いです。


蔡襄(さいじょう)

生没年:1012-1067年 56歳没
字:君謨(くんぼ)

4人の中では、最も年上。王羲之・顔真卿(特に顔真卿に傾倒)などを学んだ。
新しい書風を打ち立てたというよりは、超古典主義だった蔡襄。宋の書の特徴である「尚意」に欠け、時々「宋の四大家」から外され、「蘇軾・黄庭堅・米芾」で「宋の三大家」とされることもある。

『楷書謝賜御書詩表巻』(部分)1053年 文化遺産オンライン
(かいしょしゃしぎょしょしひょうかん)
皇帝に奉った書
『万安橋記』(部分)1060年 文化遺産オンライン


蘇軾(そしょく)

生没年:1037-1101年 66歳没
号:東坡居士(とうばこじ)
字:子瞻(しせん)
苗字+号で「蘇東坡(そとうば)」とも呼ばれる。

宋代の、「尚意競艶」の華やかな書法を蘇軾の登場から始まったとも言える。蘇軾は王羲之を基礎としつつ、顔真卿も多く学んだ。
蘇軾は、父(蘇洵)も弟(蘇轍)(親子三人で「三蘇」)も優秀で皆「士大夫」であった。蘇軾は特に詩も書も善くした。北宋でもきっての詩人であり、評価も高い。性格は、理知的でありながら、おおらかで豪放磊落、力強い風格を持っていたと考えられている。
(官僚であるがゆえ政治の争いに巻き込まれ、波乱の人生でもあった)

※蘇軾の有名な句
春夜 蘇軾

春宵一刻値千金 花有清香月有陰
歌管楼台声細細 鞦韆院落夜沈沈

春の夜は一刻の短い時間さえも千金の価値がある
花の清らかな香りが漂って、月はおぼろに霞んでいる
歌や演奏があった楼台も静まり
ブランコのある中庭に夜は更けていく

東坡肉(出典:シェフごはん)
ちなみに東坡肉(トンポーロー)は美食家・蘇東坡考案だからこの名前らしい


『黄州寒食詩巻』(こうしゅうかんしょくしかん)

榊莫山も殿村藍田も石川九楊も、現代の書の達人たちがこぞって大絶賛しているのが、蘇軾の代表作である『黄州寒食詩巻』(1082年)。蘇軾の傑作であるに留まらず、中国書道史の劇跡であると言える。(内容は左遷された蘇軾の嘆き)

『黄州寒食詩巻』(『寒食帖』)(出典:書をたのしむ法)
蘇軾47歳


『赤壁賦』(せきへきのふ)

黄州寒食詩巻』と同じく1082年に書かれた『赤壁賦』は骨太感のある楷書体。前編・後編があり、「前赤壁賦」「後赤壁賦」とも呼ばれる。(内容は友人と赤壁の下に舟を浮かべて遊んだ際の自然の美しさに対する喜びや感動)
書のみならず詩も愛され、『赤壁賦』はこの後、趙孟頫(1254-1322年)、文徴明(1470-1559年)、本阿弥光悦(1558-1637年)巻菱湖(1777-1843年)など著名な書家によって各々の書風で書かれている。

『赤壁賦』蘇軾『マンガ書の歴史【宋~民国】』p.27より


黄庭堅(こうていけん)

生没年:1045-1105年 61歳没
字:魯直(ろちょく)
号:山谷道人(さんこくどうじん)、涪翁(ふうおう)など
苗字+号で黄山谷(こうざんこく)とも呼ばれる。

黄庭堅は、8歳ほど年上の蘇軾を尊敬し慕っていた。蘇軾と同じく、顔真卿をよく学んだと言われる。(筆者は宋の四大家の中ではもっとも黄庭堅が好き。なんか変で笑)
顔真卿は屋漏痕(おくろうこん)に、懐素は夏の雲に、そして、黄庭堅は船の櫓(オール)が残す水の跡から書の極意・ヒントを得たという伝説がある。


『伏波神祠詩巻』(ふくはしんししかん)

劉 禹錫(りゅううしゃく 772年 - 842年)の詩と自跋(※後述)を黄庭堅が行書体で書いたもの(全長820.6cm!)。スケールが大きくて、いささか違和感がある、でもそれが黄庭堅!
これを揮毫したのは水難があったことから依頼されたもので、しかし黄庭堅はちょうど病後であったことが自跋に書かれています。

『伏波神祠詩巻』(出典:Wikipedia)巻頭部分 永青文庫蔵
黄庭堅57歳のとき


『黄州寒色詩巻跋』(こうしゅうかんしょくしかんばつ)

蘇軾が書いた『黄州寒色詩巻』の後に黄庭堅が書いた跋文も有名。尊敬する蘇軾の名作のとなりに、しかも蘇軾よりも何なら堂々と大きな文字で書かれている。
内容は、蘇軾の書への賛辞。「顔魯公 (顔真卿)・楊少師(楊凝式) ・李西台(李建中) の筆意を兼ねており、蘇軾に再び書かせてもこれほどの出来ばえにはならないだろう」というような内容。

『黄州寒色詩巻跋』部分 黄庭堅
(出典:書をたのしむ法)

▼題跋(だいばつ)・跋文(跋文)
作品に添えられた「題(タイトル・題辞)」と「跋(あとがき)」の総称。
「跋文」は「題跋」のうち、特にあとがきを指す。
「題跋」=「跋文(あとがき)」の意味で使われることも多い。

作者でない人が、作品終わりの余白や別紙に、本文の由来、評などを書いたもののことを言う。作者本人が書いた題跋が「自跋」。

※ちょっと余談
高村光太郎(1883-1956年)(『書について』について以前取り上げました)は『黄山谷について』という文章において、黄庭堅の文字は「まずいように見える」とか「ひどく不器用に見える」としつつも「大きい」「気魄に満ちている」「品位が高い」「うまさを通り越した境に突入した書」と絶賛している。
また、蘇軾・米芾の書は、黄庭堅に比べて「よそいきじみている」とも評している。

米芾(べいふつ)

生没年:1051-1107年 56歳没
字:元章(げんしょう)
号:襄陽漫仕(じょうようまんし)・海嶽外史(かいがくがいし)・鹿門居士(ろくもんこじ)など
苗字+号で米元章(べいげんしょう)とも呼ばれる。

蘇軾、黄庭堅、米芾の三人では最も書が上手かったと言われる。蘇軾、黄庭堅は顔真卿に傾倒したが、米芾は徹底して王羲之を学んだ。
科挙の試験は受けておらず、母親のコネで官僚となった。

『蜀素帖』(しょくそじょう)

自らの自詠詩8首を、蜀で織られた絹に書いたもの。軽やかでありつつも、重みもあり、己のリズム感を確立しているといった雰囲気。いやったらしくなく、力むことなく、大らかであり、さすがの書の名手。

『蜀素帖』(出典:Wikipedia)部分 1088年
米芾、38歳のとき


『苕渓詩巻』(ちょうけいしかん)

『蜀素帖』と同じ年に書かれた『苕渓詩巻』。自らの詩を友人のために書き、贈ったもの。一字の軸がかなり右に傾いていて、肉厚で厳しさがある。『蜀素帖』とほぼ同時期に書かれたにも関わらず、書く気分が異なったのだろうか。

『苕渓詩巻』(出典:新華書城)部分 1088年
米芾、38歳のとき



うーん・・・これでも削りに削って盛りだくさんになりました。また個別に特集を組みたいと思います。



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