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【スナック・なおみ】《第十一夜》:許してないのよ、まだ

都会の喧騒を離れた、横浜の運河沿い。
今夜もまた、重い引き戸を開ける誰かがいる。
これは、そんな夜の物語。



梅雨明けが近いのか遠いのか、はっきりしない、蒸し暑い夜だった。

カウンターには、鉄っつぁんと育三だけ。

いつもより手持ち無沙汰な空気が漂っている。

「……なあ、ママ。こないだの、けいこさんだっけ。
あの人、その後どうしたんだ?」

鉄っつぁんが、思い出したように口を開いた。

なおみは、グラスを拭く手を止めずに答える。

「さあ、どうかしらね」

「いや、だってよ。この間、あの秀夫って野郎が来た時、えらい啖呵切ってたじゃねえか。
あれから音沙汰、あるのか?」


なおみは、少しだけ手を止めた。

「……ないわね。
新宿の店は畳んだって聞いたけど、あれから何も」

育三が、ぽつりと呟いた。

「……あん人、あん時、笑ってはいたっすけど。なんか、まだ何か抱えてる感じ、したっすよね」

鉄っつぁんが、ビールを呷りながら頷く。

「まあ、あれだけの修羅場だ。そう簡単に、忘れられるもんでもねえんだろうな」

なおみは何も言わず、ただ小さく息を吐いた。

その横顔には、ただの詮索とは違う、何か静かな気がかりが滲んでいた。

彼女はグラスを置くと、リモコンを手に取った。

「……あの子、今頃どうしてるのかしらね」

そう言って、なおみは選曲ボタンを押した。

🎵【今夜の一曲目】『夜間飛行』/ちあきなおみ

前奏が流れ出す。

なおみの声は、いつもより少しだけ遠くを見ているようだった。

歌うほどに、なおみの脳裏には、新宿のあの夜、けいこと交わした最後の言葉が蘇る。

「探さないで」——そう言い残して姿を消した、かつての相棒。

その決意も、痛みも、なおみには痛いほどわかる。だからこそ、何も聞かずにいた。

鉄っつぁんも育三も、いつもとは違うママの歌声に、ただ静かに耳を傾けている。

歌い終え、なおみがマイクを置いたその時だった。


重い引き戸が、ガラリと開いた。


「……噂をすれば、ね」


立っていたのは、けいこだった。


濡れた傘を畳みもせず、彼女は仁王立ちのまま店内を見渡した。

その目には、隠しきれない苛立ちが宿っている。


「なんだ、私の話でもしてたの? ……いいご身分ね、みんな揃って」

なおみが驚いたように立ち上がる。

「けいこ……! あんた、いつの間に……」

「さっき。……ちょっと、頭に来ることがあってね」

けいこはカウンターに乱暴に腰を下ろすと、なおみの返事も待たず、リモコンを引ったくった。

「今夜は、飲まなきゃやってらんないのよ」


彼女が選んだ曲に、なおみの顔が一瞬こわばった。

🎵【今夜の二曲目】『うそ』/藤圭子

低く、刺すような声で、けいこは歌い始めた。

それは、これまで押し殺してきた怒りを、一息に吐き出すような歌声だった。

秀夫のことなのか、新宿の日々そのものなのか——誰も、それを問いただすことはしなかった。

鉄っつぁんは、いつもの調子を封じ込め、ただジョッキを握りしめている。

育三も、言葉を失ったまま、けいこの横顔を見つめていた。

歌い終えても、けいこの表情から怒りは消えなかった。

マイクを乱暴にカウンターへ置くと、彼女はグラスに残った酒を一気にあおった。

「……許してないのよ、私。あんな男のこと」

誰にともなく、けいこはそう呟いた。

その一言に、店内が静まり返る。

なおみは、何も言わずにただ隣に座った。

慰めの言葉も、正論も、今のけいこには必要ないと分かっていたから。

沈黙を破ったのは、育三だった。

彼は静かにギターを抱えると、リモコンには手を伸ばさず、ただ弦を爪弾き始めた。

「……けいこさん。おら、歌、下手っすけど。……ちょっとだけ、聞いてもらえねえすか」

戸惑うけいこの前で、育三は目を伏せたまま歌い出した。

🎵【今夜の三曲目】『女のためいき』/森進一

女性の未練を歌ったその曲を、育三は不器用な津軽訛りのまま、精一杯の丁寧さで紡いでいく。


うまいとは言えない歌声だった。


けれど、育三が誰かのために——


自分の想いではなく、その場にいる誰かの痛みのために歌うのは、これが初めてだった。

けいこは、驚いたように育三を見つめていた。


その目に浮かんでいたのは、苛立ちでも、涙でもない。


なんとも言えない、毒気を抜かれたような表情だった。

歌い終えた育三が、照れくさそうに頭を掻く。


「……す、すんません。柄にもねえこと、しちまって」

けいこは、しばらく黙っていたが、やがて小さく、ふっと笑った。

「……バカね、あんたたち」


その声には、もう先ほどまでの刺々しさはなかった。

ただ、隠しきれない疲れと、ほんの少しの安堵だけが滲んでいた。

なおみは、けいこのグラスに、そっと新しい酒を注いだ。

「今夜は、とことん付き合うわよ」

けいこは何も言わず、ただそのグラスを黙って傾けた。


外では、いつのまにか雨が上がっていた。




《第九夜につづく》


※この物語はフィクションです。登場する人物、店舗、団体名はすべて架空のものです。実在のものとは関係ありません。


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