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【スナック・なおみ】《第十二夜》:忘れ物と、たどたどしい字

都会の喧騒を離れた、横浜の運河沿い。
今夜もまた、重い引き戸を開ける誰かがいる。
これは、そんな夜の物語。



雨上がりの夜。

店内には、いつもより少しだけ穏やかな時間が流れていた。

清がいつものように、カウンターの隅に腰を下ろす。

なおみが、ふと思い出したように、カウンターの引き出しから何かを取り出した。

「清さん、そういえば。前来た時、これ忘れてったわよ」

差し出されたのは、使い込まれたジッポライター。

側面には、色褪せかけたプリクラのシールが一枚、貼られている。


小さな子供と、清によく似た男の横顔が、ピースサインと一緒に写り込んでいた。


なおみは、それ以上何も言わず、ただライターをカウンターに置いた。


清は一瞬だけ手を止めたが、すぐに何でもないことのように、それを受け取った。

「……ああ、どうも」

ポケットにしまう仕草は、いつもと変わらない、几帳面なものだった。

その日の清は、いつもより少しだけ、口数が多かった。

「……ママ、今日はなんだか、いい天気だったな」

清がぽつりと呟き、リモコンを手に取った。

イントロが流れ出す。RCサクセションの『昼間のパパ』。

🎵【今夜の一曲目】『昼間のパパ』/RCサクセション

聞き慣れないイントロに、鉄っつぁんがジョッキ片手に片眉を上げた。

「……あん? なんだそりゃ。清、お前がそんな曲入れるの、初めて見たな」

清は答えず、マイクを握った。


歌い出したその声は、いつもの『スローバラード』や『傘がない』の時とは、明らかに違う響きを持っていた。

湿った哀愁ではなく、どこか照れくさそうな、それでいて確かな温かさを含んだ声。

鉄っつぁんは、目を丸くしたまま清を見つめた。

「……なんだ? いつもと雰囲気違ぇ歌、歌いやがって」


その声には、からかいというより、素朴な戸惑いが滲んでいた。


育三も、ギターを弾く手を止め、清の方をじっと見ている。

清は歌いながら、少しだけ照れたように笑った。


なおみだけが、カウンターの奥で、静かにグラスを磨きながら微笑んでいた。

歌い終えた清は、マイクを置くと、柄にもなく少し照れたような顔をしていた。

「……いや、悪い。柄にもねえ選曲したな」

鉄っつぁんが、まだ怪訝な顔のまま身を乗り出す。

「だから、なんだよ。気持ち悪ぃな、今日のお前」


清は苦笑いを浮かべると、上着の内ポケットから、折りたたまれた便箋を一枚取り出した。

「……ちょっと、いいことがあってな」


皺の寄った便箋を、丁寧に広げる。

「子供から、手紙もらったんだ」

たどたどしい、ひらがなだらけの文字が並んでいる。

清は、それを鉄っつぁんと育三の前に、少しだけ差し出して見せた。


鉄っつぁんが覗き込み、一瞬固まった。


「……お前、子供……」

「ああ」

清は短く頷いただけだった。

それ以上、何も説明しなかった。

鉄っつぁんも、育三も、それ以上は聞かなかった。

なおみだけが、カウンターの奥で、すべてを知っていたような、優しい笑みを浮かべていた。

清は便箋をそっと畳み直すと、また内ポケットにしまった。



「……ま、そんなわけだ。今夜は一杯、多めに頼むわ」


「おう、おごりだぞ、これ絶対おごりだからな!」


鉄っつぁんの声に、店内に小さな笑いが起きた。

その時、重い引き戸が開いた。

顔を出したのは、鉄っつぁんの後輩、賢一だった。


「おう、賢一。珍しいな、お前がここに来るの。
最近、二丁目の方にご執心だって聞いてたけどよ」

鉄っつぁんが軽口を叩くと、賢一は少しだけ困ったように笑った。


「……いや、なんででしょうね。今夜は、なんとなく」


賢一は、それ以上詳しくは語らなかった。

事情を知らない賢一は、なんとなく漂う店内の温かい空気に、遅れて加わる形になった。

鉄っつぁんが、身振り手振りで賢一に説明する。

「清の奴、子供から手紙もらったんだとよ。感動的な話だろ」

賢一は、少し驚いたように清を見た。

それから、ふっと柔らかい表情になった。

「……いいですね、それ」

賢一は、静かにリモコンへ手を伸ばした。

「……おれにも一曲、歌わせてもらっていいすか」

流れ出したのは、さだまさしの『案山子』。

🎵【今夜の二曲目】『案山子』/さだまさし

「元気でいるか 街には慣れたか」

賢一の穏やかな声が、店内に染み渡っていく。

その歌声には、清と、清の子供への素直な思いやりが滲んでいた。

けれど、隣で聞いている鉄っつぁんには気づかれないまま、賢一の眼差しは、ほんの一瞬だけ、彼自身の方を向いていた。

歌い終えた賢一は、少し照れくさそうに頭を掻いた。

「……なんか、柄にもないっすね、おれも」

「いや、いい声だったぞ、賢一」

鉄っつぁんが、無邪気にその肩を叩いた。

賢一は、小さく笑って頷いた。

その笑顔の意味を、鉄っつぁんはまだ知らない。


店内には、雨上がりの夜らしい、静かな温もりだけが残っていた。




《第十二夜につづく》


※この物語はフィクションです。登場する人物、店舗、団体名はすべて架空のものです。実在のものとは関係ありません。

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