【スナック・なおみ】《第十夜》:風をあつめて、ダウンタウンへ
都会の喧騒を離れた、横浜の運河沿い。
今夜もまた、重い引き戸を開ける誰かがいる。
これは、そんな夜の物語。
雨上がりの夜。
店内には、いつもより少しだけスローテンポな時間が流れていた。
カウンターの隅で、いつもは無口な清が、珍しくグラスを片手に静かに微笑んでいる。
今夜の清は、どこか吹っ切れたような、凪のような穏やかさを纏っていた。
「……ママ、今日はなんだか、風が気持ちいい夜だな」
清がぽつりと呟き、リモコンを手に取った。
選ばれたのは、はっぴいえんどの『風をあつめて』。
🎵【今夜の一曲目】『風をあつめて』/はっぴいえんど
イントロが流れ始めると、店内の空気の温度がふっと変わる。
育三がギターを置いた。
鉄っつぁんも珍しくジョッキを置き、マイクを握る清の方を向く。
清が歌い出す。
「風をあつめて 風をあつめて 風をあつめて 蒼空(あおぞら)を 翔けたいんです」
彼の声は、普段の寡黙さが嘘のように、驚くほど透明で、メランコリックな優しさに満ちていた。
なおみは、グラスを磨く手を止めたまま、しばらく動けずにいた。
「……いい声ね」
なおみが小声で呟くと、隣で聞いていた育三が「ああ」と小さく頷いた。
鉄っつぁんも、いつもなら「なんだその曲!」と野次を飛ばすところを、今夜ばかりは静かに目を閉じ、リズムを刻んでいる。
歌い終えた清は、少し照れたように笑った。
「……へへっ、今日はなんだか、うまく歌えそうな気がしたんだ」
「清さん、あんた今日、一番かっこいいわよ」
なおみが微笑み、清のためにいつもの酒を一杯多めに注ぐ。
店内に小さな拍手が広がる。
清が歌い終えると、入れ替わるように育三がギターを背負い直した。
「清さん、いい風だったね。……じゃあ、俺はこの風に乗って、街まで繰り出す歌でも歌うか!」
育三が選んだのは、シュガー・ベイブの『DOWN TOWN』。 イントロが流れた瞬間、店内の空気がガラリと変わる。今度は静寂ではなく、軽快なビートが店を支配した。
🎵【今夜の二曲目】『DOWN TOWN』/SUGAR BABE
店内は、育三が弾き語る『DOWN TOWN』の軽快なビートで、さながら小さなライブハウスのようになっていた。
育三の若々しい声が店内に弾け、鉄っつぁんが
「へいへい! 下町サイコー!」
とジョッキを高く掲げる。
カウンターの端では、新人バイトのあきさんが、忙しなく動き回りながらも楽しそうにリズムに乗っている。
由美が、そんなあきさんに「いい動きね!」と声をかけ、あきさんが少し照れくさそうに笑い返した。
なおみも思わずリズムに合わせて身体を揺らした。
清も先ほどまでのメランコリーを脱ぎ捨て、
「なんだよ育三、いい選曲じゃねえか!」
と楽しそうに笑っている。
横浜の夜の街へ、今すぐ駆け出したくなるような、胸が躍るような高揚感。
「ママ、最高だな! 今夜は朝まで飲めそうだぜ!」
鉄っつぁんの雄叫びに、なおみは
「あんたたち、ほどほどにしなさいよ」
と言いながらも、その口元は緩みっぱなしだった。
(……この店に、いい空気が満ちてる。)
なおみは、カウンターの中に立ち、笑い合う常連たちと、一生懸命にグラスを運ぶあきさんの姿を眺めていた。
ただ、この楽しい音楽と、温かい仲間たちの笑顔を、もう少しだけ眺めていたかった。
店内に溢れる音楽の隙間で、なおみは誰にも聞こえない声で呟いた。
「……みんな、ありがとう」
ダウンタウンの風が、横浜の路地裏にあるこの小さなスナックを、優しく駆け抜けていった。
※この物語はフィクションです。登場する人物、店舗、団体名はすべて架空のものです。実在のものとは関係ありません。
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