【スナック・なおみ】《第八夜》:かつての名前、激しい恋
都会の喧騒を離れた、横浜の運河沿い。
今夜もまた、重い引き戸を開ける誰かがいる。
これは、そんな夜の物語。
梅雨の長雨は、深夜を過ぎてから土砂降りの様相を呈していた。アスファルトを激しく打ち据える雨音が、スナック【なおみ】の小さな店内にまで重低音となって響いてくる。
店の引き戸が勢いよく開け放たれた。そこに立っていたのは、全身をずぶ濡れにした一人の男だった。
びしょ濡れのトレンチコート。
肩に張り付いた髪。
男は店内を見回し、カウンターの奥でグラスを拭いていたなおみと目が合うと、ふらりとその場に立ち尽くした。
「……なおみ、か」
なおみの指が、グラスの上で止まった。
いつもなら朗らかに
「いらっしゃい!」
と声をかける彼女の唇が、わずかに引きつる。
男の名は秀夫。
店内には、鉄っつぁんと育三しかいない。
鉄っつぁんは酔いも手伝って、男の登場に無邪気な声を上げた。
「おっ、珍しい客だな! 雨の夜は客が呼ぶっていうが、あんた、なおみちゃんの知り合いか?」
秀夫は答えず、なおみを見つめたまま一歩、二歩と近づいた。
「探したよ。新宿のあの店が閉まってから、ずっと。
俺たち、一緒に自分の店を持つはずだっただろう」
なおみは、あえて無表情を装った。
「……昔の話よ、秀夫さん。私はもう、ここのママなんだから」
秀夫はカウンターの椅子に腰を下ろすと、懐かしむように、そして挑むように、カラオケの機械を操作した。
流れてきたのは、西城秀樹の『傷だらけのローラ』。
前奏が鳴り響く。秀夫はマイクを握り、なおみを見据えながら歌い始めた。
🎵【今夜の一曲目】『傷だらけのローラ』/西城秀樹
「――激しい恋だ〜、ローラ!」
その名前が呼ばれた瞬間、なおみの指が、拭いていたグラスの上でピタリと止まった。
育三はギターの手を止め、息を呑んだ。
鉄っつぁんでさえ、いつもと違うなおみの表情に、ジョッキを持つ手を止めている。
――「ローラ」。
それが誰のことなのか、二人にはまだ分からない。
けれど、なおみの纏う空気だけが、雨の匂いよりも重く、店内に立ち込めていた。
歌が終わっても、店内には重い沈黙が流れた。
秀夫の瞳には、あの頃のままの未練が宿っている。
「……なあ、ローラ。お前も分かってるだろう、あの頃の俺たちが――」
「――やめて」
なおみの声が、秀夫の言葉に被さった。
低く、けれど有無を言わせない強さで。
「その名前で、私を呼ばないで」
一瞬、店内の空気が凍りついた。
言葉を発した後も、なおみはしばらく秀夫を見ようとしなかった。
グラスを拭いていた手も、いつのまにか止まっている。
雨音だけが、やけに大きく店内に響いていた。
育三は息を呑んだまま、なおみの横顔を見つめている。
鉄っつぁんでさえ、ジョッキを持つ手を止めたまま動けずにいた。
やがて、なおみは小さく息を吐いた。
「……あんたの気が済んだなら、もういいわね」
彼女はカウンターから出て、カラオケのスイッチを入れた。
🎵【今夜の二曲目】『紅とんぼ』/ちあきなおみ
秀夫の激しい情熱を、あえて冷ますかのように、静かに曲を選ぶ。
流れてきたのは、ちあきなおみの『紅とんぼ』。
なおみは、秀夫の方を向くことなく、ただ真っ直ぐに鏡の中の自分を見つめながら歌い出した。
過ぎ去った日々を、まるで遠い異国の風景のように歌い上げる。
その歌声は、かつての「ローラ」としての華やかさではなく、今この場所で「なおみ」として生きる者の、静かな決意に満ちていた。
秀夫は、なおみの歌う背中を見つめ続けた。
その背中は、かつて自分が愛した女のものだが、もう二度と自分の手には届かない場所へ行ってしまったことを悟ったのだろう。
曲が終わると、なおみは秀夫に、いつもの常連に出すのと同じ、安い焼酎の薄い水割りを置いた。
「……もう、お帰り」
秀夫は苦笑し、一気に酒をあおると、雨の夜の中へと背中を向けて消えていった。
静寂が戻った店内。
鉄っつぁんが喉を鳴らしてビールを飲んだ。
「……ママ。あんた、やっぱいい声してるな」
なおみは照れくさそうに笑い、グラスを磨き直した。
「……ふん。余計なこと言わなくていいのよ、鉄っつぁん」
外の雨音だけが、店内の熱を優しく冷ましていた。
大人たちの過去を少しだけ夜の霧に溶かして、静かに更けていくのだった。
……そう、誰もがそう思った。
店の外、激しい雨音の中へ消えかけた秀夫の足音が、唐突にピタリと止まった。
彼は店内に背を向けたまま、しばらく雨の中に立ち尽くしていた。
肩を震わせ、拳を握りしめ、何かを懸命に飲み込もうとしているかのように。
そして―― 彼は意を決したように、ゆっくりと振り返った。
再び開かれる引き戸。
秀夫は、ずぶ濡れのまま、もう一度だけ店内に足を踏み入れた。
「……なおみ。最後だ。これだけ歌わせろ」
彼はなおみの返事も待たず、カラオケのリモコンを操作した。
流れてきたのは、皮肉にも男女の痴話喧嘩を歌った『三年目の浮気』。
🎵【今夜の三曲目】『三年目の浮気』/ヒロシ&キーボー
なおみは呆れたように、
「……あんた、本当にいい加減にしなさいよ」
と言いながらも、あえてマイクを手に取った。
かつて新宿の店で、酔った客をあしらうために二人で何度もデュエットした、いわば「仕事の一曲」だ。
歌い出し、秀夫が
「三年目の浮気ぐらい大目に見てよ」と切実に歌う。
なおみも淡々と、「バカ言わないでよ」と返す。
ただ一瞬——
ほんの一瞬だけ、その「バカ」に、歌詞にしては少し湿った響きが混じった気がした。
気づいたのは、育三だけだった。
鉄っつぁんと育三は、カウンターの端で固唾を飲んで見守っている。
店内の空気が、「紅とんぼ」の静寂から、再びあの頃の「新宿の夜」へと逆行していく。
秀夫は歌いながら、なおみの目を見つめていた。
その瞳には、なおみという一人の女性への執着が渦巻いている。
けれど、なおみは一度も彼の目を見ない。鏡の中の自分、あるいはカウンターの奥のボトルを見つめながら、淡々と、しかし完璧なタイミングで
「バカ言わないでよ!」
と秀夫の未練を切り捨てていく。
最後のサビ。
秀夫が「お前がいなけりゃ……」と歌うところで、なおみの相槌が、コンマ数秒遅れた。
ほんのわずかな間だったが、いつも完璧なタイミングで返す彼女にしては、珍しいことだった。
それから、ふと、小さな溜息をついた。
「……三年経っても、あんたは何も変わってないわね。
ローラなんて女は、もうどこにもいないのよ」
秀夫は、なおみの言葉の意味を悟ったのか、あるいは彼女の強さに屈したのか。
ふっと小さく笑うと、今度こそ振り返らずに店を出て行った。
店内に流れる、重苦しい余韻。
そんな中、沈黙を破ったのはやはり鉄っつぁんだった。
「……おいおいおい! 『三年目の浮気』かよ!
しかも、なおみ、あんた、あんなに完璧なタイミングで返せるなんて、相当な修羅場を潜ってきたな! ……いや、修羅場どころじゃねえか、これ?」
その無神経な一言で、張り詰めていた糸がプツンと切れた。
なおみは呆れて、「あんたねえ!」と笑い出し、育三も思わず吹き出した。
雨が止み始めた夜。
スナック「なおみ」には、またいつもの、けれど少しだけ「ママの過去」を知って絆が深まった、奇妙で温かい空気が戻ってきた。
※この物語はフィクションです。登場する人物、店舗、団体名はすべて架空のものです。実在のものとは関係ありません。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援いただけると嬉しいです。
いただいたチップは、クリエイターとしての活動費に使わせていただきます。