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【スナック・なおみ】《第七夜》:愛してるなんて、言えないまま

都会の喧騒を離れた、横浜の運河沿い。
今夜もまた、重い引き戸を開ける誰かがいる。
これは、そんな夜の物語。



梅雨の末期、どんよりと雲が低く垂れ込めた夜だった。

肌にまとわりつく湿気が、スナック「なおみ」の引き戸を重くさせる。

カウンターの隅、定位置に座る育三が、手元のギターを何度も爪弾いては、弾くのをやめる。

いつもなら鉄っつぁん相手に冗談を飛ばしているはずの男が、今日はやけに口数が少なく、指先が落ち着かない。

「おぅ、育三。どうした?腹の調子でも悪いのか?」

鉄っつぁんが、冷えたビールをあおりながら野太い声で突っ込む。

育三は視線を伏せたまま、短く、そして少し早口の津軽弁で答えた。

「……いえ、別に。なんでもねぇっす」

カラン、とドアベルが鳴り、店の空気がわずかに動いた。

濡れた髪の毛を少し揺らし、由美が入ってくる。

「いらっしゃい、由美さん。今夜はまた蒸し暑いわねぇ」

なおみママが穏やかな声で迎え入れる。

その背後で、育三の視線が入り口に吸い寄せられた。

由美を直視するわけでもなく、かといって完全に目を逸らすこともできず。

ただ、何かを必死に堪えるような、不器用な横顔がそこにあった。

沈黙を破るように、鉄っつぁんがリモコンをテーブルに滑らせた。

「おい育三!いつまでじっとしてんだ。湿っぽいのはお天道様だけで十分だ。なんか景気よく一曲いけや!」

育三はふっと息を吐き出すと、少し震える指先で選曲ボタンを押した。

モニターに表示された曲名は『年上の女』。


🎵【今夜の一曲目】『年上の女』/森進一

前奏が流れ出すと、彼の纏う空気が、先ほどまでの湿り気を帯びたものから、どこか遠くを見つめるような、切ない色へと変わった。

歌い終わった瞬間、店内の空気が一瞬凍ったように静まり返った。

いつもの、青森から出てきたばかりの素朴な育三の歌声ではない。

そこにいたのは、一人の男の業を背負った、色気のあるヴォーカリストだった。

ハスキーなトーンが、蒸し暑い店内の湿気と絡み合い、聴く者の肌を粟立たせる。

鉄っつぁんはビールのグラスを置くのも忘れ、口を半開きにして育三を見つめている。

カウンターの端にいた常連客も、新聞から目を離していた。

育三は、歌い終えてもなお、ギターのネックを握りしめたまま俯いている。

その肩が、微かに震えているようにも見えた。

「……へぇ」 沈黙を破ったのは、なおみママだった。

小さく感嘆の声を漏らすと、カウンターの布巾を静かに置く。

「育三ちゃん、アンタ、そんな歌い方、どこで覚えてきたの。……やるじゃない」

ママの言葉で、ようやく店内の時間が動き出した。

鉄っつぁんが、どんとテーブルを叩く。

「おいおい!おい!どうしたんだよ急に!今の歌、誰の真似だ?
お前、本当はいい声してんじゃねぇか!ちくしょー、騙されたわ!」

ガハハと豪快に笑いながらも、その目には育三を見直すような光が宿っていた。

育三は照れ臭そうに頭を掻き、いつもの調子に戻そうと早口で喋り出した。

「な、なしてすか!いつもの通りだっすよ!た、たまたま、調子が良かっただけだっす!」

その慌てふためく様子を見ながら、なおみママは由美の方へ視線を向けた。

由美は、ブランデーのグラスを揺らしながら、微笑んでいる。

「いい歌だったわよ、育三くん」

「……あ、あざっす」

育三は由美のその言葉に、一瞬だけ顔を赤くした。

そして、意を決したように、由美の方へ向き直った。

ギターを置く手が、また少し震えている。

「……あの、由美さん」

「ん?」

「……あ、あの、もしよければ、でいいんすけど。
……つ、次の曲、い、一緒に、う、うたって、く、もらえねぇすか?」

津軽弁が混じり、しどろもどろになりながらも、育三は真っ直ぐ由美を見つめていた。

由美は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐにふわりと微笑んだ。

「あら、デュエット?いいわよ。私でよければ」

「へ?……ほ、ほんずか!やったぁっす!」

育三は子供のように喜び、慌ててリモコンを操作し始めた。

モニターに表示された曲名は『ロンリー・チャップリン』。

🎵【今夜の二曲目】『ロンリー・チャップリン』/鈴木聖美 with 鈴木雅之

イントロの軽快なリズムが流れ出すと、育三は少しだけ肩の力を抜いた。

道化師のように、少しだけおどけてみせることで、自分の震えをごまかそうとするように。

「……お先に、歌わせてもらうっす」

そう言って歌い出した育三の声は、驚くほど艶やかだった。

『ロンリー・チャップリン』―― 
愛を伝えることへの恐怖と、それでも溢れ出る情熱を、軽妙なステップで隠そうとするこの曲は、今の彼の心境そのものだった。

由美が、心地よさそうにマイクを握る。

彼女は何も知らない。

この歌が、隣に立つこの不器用な青年の、精一杯の「告白」だなんてことは。

――愛してるなんて 言えないまま

サビに入り、二人の声が重なる。

育三の声が、ふっと揺れた。
ほんの一瞬だった。

でも、隣にいた由美には、それが「歌の感情移入」だとしか映らない。

彼女は楽しそうに、リズムに合わせて体を揺らしている。

(ああ、なんて綺麗なんだ……)

育三は、彼女と目を合わせることができなかった。

目を合わせれば、自分の瞳の中に濁流のように渦巻く想いが、全部バレてしまう気がしたからだ。

だからこそ、彼はもっと大げさに、道化のように、マイクを握りしめて身体を揺らす。

由美が楽しげに微笑む。

「育三くん、いい声ね! もっと堂々と歌えばいいのに」

彼女の何気ない賞賛が、一番の毒であり、一番の薬だった。

育三は苦笑いを浮かべ、「……あ、あざっす!」と、また津軽弁の早口で誤魔化す。

カウンターの奥で、なおみママがそっとグラスを拭く手を止めていた。

彼女だけは、育三の視線がマイクではなく、由美の横顔にずっと張り付いていることに気づいている。

そして、その表情が、チャップリンを演じているようでいて、実は泣きそうなほど切実であることにも。

「愛してるなんて 言えないまま」
もう一度、そのフレーズが店内に響く。

育三の心の中では、その言葉が何度も何度も、叫ぶように繰り返されていた。

歌が終わる。 拍手がぱらぱらと店内に響いた。

由美が満足げにマイクを置く。

「楽しかったわ! ありがとう、育三くん。あなた、意外とやるわね」

由美の明るい声が、育三の必死な想いをあっさりと日常の中へ押し戻していく。


育三は
「へへっ……まあ、こんなもんで……」

とギターを置き、ふらつく足でカウンターに戻ろうとした。

その時だった。

「おっしゃあ!! 湿っぽいのはここまでだ!」

店内に轟いたのは、鉄っつぁんの雄叫びだった。

育三がまだデュエットの余韻に浸り、消えない切なさを噛みしめていることなど、露ほども気づいていない様子だ。

鉄っつぁんはすでに、メニューを捲り始めている。

「育三! 由美ちゃん! よく歌った! さあ、次は景気のいいやつで締めるぞ! ほら、ママもリモコン持ってこい!」

鉄っつぁんが勢いよくボタンを押す。

店内に流れ出したのは、バラクーダのあの特徴的すぎるイントロだった。

育三は、完全に虚を突かれた。

「えっ……」と口を開けたまま、ギターを抱えた姿勢で固まる。

さっきまでの、あの切ない色気はどこへやら、彼は間抜けなほど呆然と、モニターを見つめるしかなかった。

対照的に、鉄っつぁんは満面の笑みでマイクを握りしめている。

「よし! きたぞ! これだ、鉄板だよ鉄板!」

🎵【今夜の三曲目】『日本全国酒飲み音頭』/バラクーダ

店内に響き渡る『日本全国酒飲み音頭』のあのメロディ。

「――酒が飲めるぞ、酒が飲める飲めるぞ、酒が飲めるぞー!」

そのあまりの唐突さと、あまりの馬鹿馬鹿しさに、由美も思わず吹き出した。

「あら、鉄っつぁんってば!」

と笑いながらマイクを手に取る。

なおみママは、合唱の輪の中で無邪気に吠える鉄っつぁんの背中を、半ば呆れた目で見つめながら、それでもグラスを拭く手を止め、小さく肩をすくめた。

「ったく……。鉄っつぁん、あんたって人は、本当に『空気を読まない』天才ね」

ママはそう呟きながら、合唱の輪から一歩引いた場所で、ふと育三の方へ視線を投げた。

育三は、なおみママと目が合うと、少しだけ照れくさそうに笑い、やけくそになって叫んだ。

「……へいっす! 酒が飲めるぞーッ!」

どんよりとした湿気も、育三の隠した恋心も、鉄っつぁんのこの無自覚な狂騒と一緒に、スナックの熱気に溶けていく。


ママは満足げに微笑むと、新しい氷をバケツに投げ入れた。



「救われたのかしらね、あんたも……ま、これもスナックか」



《第八夜につづく》



※この物語はフィクションです。登場する人物、店舗、団体名はすべて架空のものです。実在のものとは関係ありません。

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