「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔の渡岸」(一)
高原に暮らす吐蕃の民は、雄大なる馬泉河と共に生きている。
西の水源より来たる清流は拉薩の南を走り、荒涼とした高原の大地に潤いを与え、やがて麦畑に黄金色の輝きをもたらす。
かくして、ヤルツァンポは吐蕃の民から命の源と崇め奉られ、寺院の奥に座す仏のように畏敬の念を集めていた。
しかし、遥か南西のチョモランマを目指して谷合いの道を進む良嗣とオトにとっては、偉大なる河も単なる旅の障壁に他ならなかった。
「よっこいしょ、っとぉ」
気怠げな様子を露わにしたオトは、わざとらしい掛け声で勢いを付け、良嗣の肩の上から跳ね飛んだ。
崖の際に向かって歩み寄るオトに続いて、良嗣は跨った犛牛の背から降り、砂利だらけの灰色の大地を自らの足で踏み締めた。
真一文字に横切っているヤルツァンポの対岸を、良嗣は突き刺すような鋭さで見据えた。瞳を薄く覆う涙さえ奪い去る乾き切った高原の空気が、生来の細目を殊更に際立たせていた。
高原の大地を分断し抉り取るように、ヤルツァンポは西から東へ止めどなく流れている。目測にして凡そ三十歩※の川幅は、良嗣に京の都の東を貫く鴨川を思わせた。もっとも、鴨川の随所に架けられていたような強固な木組みの橋など、良嗣の前には存在していない。
「……これの直し方、知ってるか?」
「知るわけがないだろう」
力の抜けた声でぼやくオトに、良嗣は溜息混じりの相槌を返した。諦観が込められた返事は、どこか他人事染みていた。
河岸に埋められた木の柱の根本には、千切れた荒縄が弱々しくまとわり付いている。二人の眼前にあったそれは、吊り橋の成れの果てだった。
「ったく、何が『ヤクでも歩ける丈夫な橋』だよ……。ドルジェのやつ、テキトーなこと言いやがって」
オトは橋の傍らに建てられた純白の仏塔に手を突き、落胆した様子のまま頭をもたれかけた。五色の旗をはためかせながら虚しく佇むチョルテンの様子は、主人を亡くした孤独な忠犬に似ていた。
「往来の商人から『橋が落ちた』などと聞いた覚えはない。まだ壊れて日が浅いのだろう。ドルジェを責めて何になる」
冷静にオトの不満を咎める良嗣の脳裏には、ラサの街で耳にした助言が過ぎっていた。
無謀にもチョモランマへ向かおうとするなら、南西に向かう行路を取り、ヤルツァンポの対岸へ渡らなくてはならない。川沿いの道を西に向かって進めば、迷うことなく吊り橋まで辿り着ける。道すがら出逢った鍛金師の青年は、二人にそう告げていた。
「わかってるっての。おれの耳にも誰かの悲鳴なんて聞こえてこなかったし、もろくなってて勝手にぶっ壊れたのかなぁ……。ったく、ツイてねぇ」
行き場のない焦燥感を、オトは足に込めた。身体を包み隠す外套から覗いた鋭利な爪先が、一際粒が大きい砂利を弾き飛ばす。
宙を舞った砂利は吸い込まれるように谷底へ落ち、水面の刺激に反応して一匹の魚が飛び跳ねた。
命の躍動によって生まれた小さな水音が、途端にオトの耳へと飛び込んでいく。
一瞬だけ顔を覗かせた魚を目に留めたオトは、反射的に言葉を漏らした。
「魚……」
「どうした、魚など珍しくも──」
良嗣は言葉を止め、目を見張った。何気ないオトの呟きは、良嗣を記憶の底へと誘っていった。
※一歩=約1.78m 参考:新井宏「延喜式の度量衡」
本作は「迦陵頻伽の仔は西へ」シリーズの一編です。
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