「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔の渡岸」(二)
煉瓦色の肌と憂い混じりの表情を持つ青年が、良嗣の記憶の中で形作られていく。数日前に別れたばかりにも関わらず、良嗣はドルジェの姿をひどく懐かしく感じた。
オトが呟いた「魚」の一言が呼び覚ましたドルジェの姿は、二人がラサから旅立つ前日、食事を共にした時のものだった。父と兄の四十九日はとうに過ぎ去っており、長い喪から明けたドルジェは、躊躇いなく餞別の宴席を設けることができた。
「どうぞ、召し上がってください」
鍛金の工房を兼ねたドルジェの自宅の床に、三人分の料理が並べられた。素朴な麦焦がし、ヤクの乳を固めたチュラ※、ヤク肉入りの餃子。高原の様々な郷土料理は、遠路から訪れた旅人にとっても、いつしか親しみ深い品々となっていた。主人を失った二人分の食器も久方振りに本来の務めを果たし、晴れやかに銀色の輝きを放っていた。
「済まない、感謝する」
「いえいえ! 命を救っていただいた身です。いくらお礼をしても足りる気がしません」
探るような慎重さで、良嗣の口から訥々と吐蕃語が放たれる。一つ一つの言葉はどれもぎこちない発音でこそあれ、ドルジェと直接言葉を交わすには十分に事足りた。
ラサに逗留している最中、良嗣は旅支度と願掛けの巡拝を済ませつつ、オトの助力のもと吐蕃語を学んでいた。未知なる言語すら操るようになったオトの通訳に頼り過ぎてはならないと、良嗣は日々自戒していた。幼い口を介してドルジェに残酷な真実を伝えさせた負い目は、良嗣の厚い胸の奥底に、鋭い棘となって突き刺さったままとなっていた。
オトは良嗣の気遣いを、語気の端々から悟っていた。だからこそ、その不安をあえて意に介そうとせず、ドルジェの饗に舌鼓を打っていた。
「うん、美味い!」
ヤク肉のモモを口一杯に放り込んだオトは、紅潮した頬を膨らませ、ドルジェに微笑みかけた。
「最初は変わった匂いだと思ってたけどさ、慣れると美味いもんだよなぁ。他の肉とか魚の味も、すっかり忘れちまいそうだ」
「魚……」
「『ラサの民は魚を口にしない』だったな」
ラサで幾度も耳にした慣習が、良嗣の口を通じて語られた。ドルジェは静かに首肯した。
「南の河に流される遺体は少なくありません。朽ちた身体は河で清められ、やがて魚の糧になります。その魚を僕たちが口にするわけにはいきませんから」
「弔いの形も様々、か」
「はい。お二人が兄にして下さったことも、形は違えども立派な供養ですよ」
言い終えた後、ドルジェは強引に咳払いをして話題を変えた。鬱蒼と茂る青草の中、禿鷲の餌食になっていた骸は、宴席の場には相応しくない存在だった。
「……直接目にしたわけではないのですが、遥か上流の集落には、漁を生業とする者もいるそうですね。湖のように広い河幅の中、まだ緩やかな流れの中へ船を漕ぎ出し、大きな網を投げ入れて魚を獲っていると聞きます」
吐蕃語に不慣れな良嗣にも趣意が伝わるよう、ドルジェは両腕を波のように動かし、大袈裟に網を投げ入れる仕草をした。
ドルジェは投網など知らない。しかし、見様見真似ですらなかったドルジェの仕草は不思議と的を射ており、魚群に狙いを定めている姿を二人に想起させた。
「様になっているな」
「本当ですか?」
「ああ! 職人だけじゃなくて、漁師の才能だってあるかもしれないぜ。川の上の方じゃなくて、海に行ったら思いっきりやってみろよ」
オトはドルジェの背中を叩いた。鍛金で培われた筋肉が覆う背中が、不意の衝撃でびくりと跳ねた。
法華経の中に説かれる海なるものを、己が瞳で見たいとドルジェは願った。
いつの日か、父と兄の死に折り合いを付けて旅立ったドルジェに、潮風を浴びながら果てなき水平線を眺めてほしい。死の匂いを纏っていない魚の味を知ってほしい。東の果ての海を越えて来た二人は、願いの成就を心の底から祈っていた。
※チュラ チーズに似た食品。
本作は「迦陵頻伽の仔は西へ」シリーズの一編です。
過去のエピソードは以下のマガジンをご参照ください。
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