「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔と楽師」(二)
眼前の光景は決して白昼夢でないと、尚政の耳に残る痛みが告げていた。
獲物を狩る虎にも勝る機敏な体捌きで、大男──良嗣は洞穴の奥から放たれた矢を鷲掴みにした。弱々しい老人が放った矢を見切るなど、良嗣にとっては造作もない芸当だった。これ見よがしに矢を握り潰した力の誇示は、無益な争いを回避するための術でもあった。
「俺を射ちたければ好きにしろ、どうせ当たるものか。……だが、もし彼女に切先を向けるようなら容赦はしない。指の骨を粉々に砕き、両の目を押し潰す」
重々しい声で放たれた良嗣の鋭い言葉が、尚政の胃の底に突き立てられた。
霧がかった夕刻の西陽と良嗣の巨躯が、厚みのある影を生み出し、尚政の痩せた身体を覆い尽くす。色彩を失った髭と髪を蓄え、かろうじて漢服としての体裁を整えている布切れを身に纏った姿が、尚政を一層弱々しく見せていた。
異様な迫力に気押された尚政は、そのまま腰を抜かして倒れ込んだ。握り締めていた粗末な弓が、手から零れ落ちる。竹材が岩肌を打ち付け、からん、と力のない響きを鳴らした。
「ばか、いくら何でも脅しすぎだろ」
「唯の方便だ。また妙な気を起こされたら困る」
「いや、わかってるけどさぁ……。もっとオマエは加減ってものを知った方がいいぜ」
「簡単に言ってくれるな」
少女──オトの身を案じた良嗣の揺るぎない意思は、確かにオトの耳から心に伝播していた。不器用な思い遣りに、オトは良嗣の膝下を軽く小突いて応じた。
二人が小声で交わす会話は、尚政の耳には微塵も届いていなかった。
「……なあ、そろそろ話聞く気になったかよ?」
戦意を失った尚政の様子を見届けたオトは、良嗣の背後から顔を出し、小柄な体躯を外套で覆った姿を現した。そして、少しでも尚政の気を諌めようと、外套から覗かせた両手を大仰に動かしながら語りかけた。
「おれたちは野盗でもないし人さらいでもない、通りすがりの旅人だぜ。別にそこまで怖がんなくたっていいだろ」
「……何を言うか。唯の通りすがりの旅人が、その言葉を使うはずがなかろう」
「あぁ? んなこと言ったらなぁ、じーさんこそどうして──」
荒波を越えた先、東の海の彼方でのみ息衝くはずの言葉を交わす二人を前にして、良嗣は口元に拳を当てながら思案した。
──安史の乱※を経て勢力が衰えてもなお、唐は様々な土地の人々が集う国だ。海を隔てた異国の言語を自在に操れるようになった者が、一定数居ても不思議ではない。だが──。
時を待たずして、良嗣は自ずと一つの結論に至った。あまりにも流暢で澱みのない口振りを耳にした以上、その結論しか至りようがなかった。
「『行方知れずの船員を連れ戻せ』などという勅命を、俺は受けていない」
良嗣の一言で、尚政の身体が否応なく反応した。
「え、じゃあこのじーさん……」
「俺と同じだ。遣唐使だった。……そうだな?」
良嗣は膝を突き、眼前で縮こまった老人と目線を合わせた。
正鵠を射ていた良嗣の一言に観念し、尚政はゆっくりと首を縦に振った。
白髪が垂れ下がり、尚政の顔が陰る。細く開かれた良嗣の瞳は、その奥に隠された表情を読み解けなかった。
※安史の乱 西暦755-763年に唐で発生した反乱。唐の衰退を招くきっかけとなった。
本作は「迦陵頻伽の仔は西へ」シリーズの一編です。
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