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「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔と楽師」(三)

前回「迦陵頻伽の仔と楽師」(二)

遣唐使けんとーし……」
「そうでなければ、これほど流暢に口が回るはずがあるまい」

 相対する尚政なおまさを首肯させた良嗣よしつぐの一言を、オトはぽつりと反芻はんすうした。
 今やオトの間でしか交わされなくなった祖国の言葉を操る様子から、良嗣よしつぐは一つの答えに至った。その予感が的中してもなお、良嗣は未だに納得する素振りを見せなかった。

帰朝きちょうを望むも一生涯叶わず、この地で果てた遣唐使は数多いと聞く。だが……帰らなかったのは自らの意思だな。一体何を求めて唐に残った?」

 表情に出さぬよう努めていたが、良嗣は驚きと興味を同時に抱いていた。自分と同じ遣唐使の男は、なぜ洛陽らくようの地の山奥に潜み、世捨人染みた風体で洞穴ほらあなに篭り琴を携えているのか。不意に湧き上がった好奇心は、寡黙な良嗣を柄にもなく饒舌にさせた。
 一方の尚政は、項垂うなだれたまま無言を貫き続けていた。その弱々しい姿を眺めていたオトは、出会い頭に投げ付けた怒鳴り声も忘れ、他人事振って良嗣を冷やかした。

「信用が足りないんだよ、信用が。あーあ、さっきオマエがヘンな脅し方したからだ」

 わざとらしく発した気怠けだるい声色とともに、オトは足元を指差した。僅かに湿った岩床いわとこには、咄嗟に良嗣が捉え握り潰したばかりの、かつて矢だった木屑が散乱している。図星を突かれた良嗣は指先で額を擦り、浅い溜息を一つ落とした。

「……先刻話した通り、行方知れずになった船員を連れ戻す勅命など知らん。仮に勅を受けていたとしても、どの道今の俺には無関係だ。それでも、俺たちを信用してはくれぬか」

 互いの心を隔てる壁を取り払おうと、良嗣は慎重に言葉を連ねた。
 洞穴の壁を跳ね回る声の反響が鳴り止み、しばしの沈黙が続いた後、遂に尚政は固く閉していた口を開いた。

「……己の素性も胸の内も明かさぬ者どもに、これ以上何を語れと言うか」

 尚政の重々しい呟きは、素性を隠しながら旅を続けている良嗣にとって、心に堪える一言だった。
 良嗣は海を隔てた国の使節であった身分を伏せ、漢人を装って旅をしていた。京のみやこで学んだ漢語は遺憾なく発揮され、漢服と外套がいとうを組み合わせた旅の装束の馴染み方も相まって、異国の人間だと勘付く者はごく僅かだった。
 だからこそ、同郷の遣唐使だと既に明かした者に対して用いる方便を、良嗣は持ち合わせていなかった。岩壁のように広く力強い背中に、微かな汗が伝った。

「……承知した、答えよう」「おい、何もそこまでしなくたって──」「案ずるな、やましい話をする気はない」「んだよ、仕方ねえなぁ」 堅物な大男が時折見せる気まぐれに、オトは半ば呆れながらも付き合う覚悟を決めた。無言のまま上下させた朱色の唇は、『テキトーに合わせといてやるよ』と告げていた。

「改めて数々の非礼を詫びよう。名乗りもせず済まなかった。俺は──」

 ──橿原かしはらの良嗣。遣唐大使の任に就いていた。
 たとえ棄てた身分とはいえ、氏族の名、そして遣唐使団を統べる大使としての立場を明かせば、警戒心を余計に膨らませるだけだ。そう良嗣は思い留まり、心にぎった真実は胸の内に押し留められた。

「……良嗣という。水手《かこ》※1 の一人だった。何分なにぶんこの図体だ。漕ぎ手を人とも思わぬ使団の者どもに嫌気が差して、陸に上がった後は使団を抜け出して旅に出た」
「おれのことはオトって呼んでくれ。親父がこっち・・・の役人だったからさぁ、あっち・・・の言葉も喋れたんだよ。で、親は二人とも野盗に襲われて死んだ。取っ捕まって売り飛ばされるんじゃないかと思った時、たまたま通り掛かっておれを助けてくれたのがこのデカブツだ。どうせ身寄りも行く場所もないし、それからは一緒に旅してる」

 澱みのない口調で、立て続けにオトの口からも嘘が綴られていった。遣唐使船での出会いも、自身を導く不思議な唄の存在も、外套で覆い隠した背中の羽根と脚先の鉤爪かぎづめも、何一つ語ろうとしなかった。唯一つだけ紛れていた真実は、名を持たなかった自分に、良嗣が与えた名前だけだった。
 尚政は口を挟もうとせず、大男と少女の身の上語りを黙して聞いていた。二人は一度顔を見合わせた後、改めて話を続けた。今度こそ真実を語ろうとするからこそ、声の調子が変わってしまわぬよう二人は努めた。

「今は洛陽の街に向かう道中だった。野盗の相手にも程々飽きて、人を避けようと山の中に分け入った」
「食い物も減ってきたし、さっさと進んじまおうと思ったんだぜ。でもさ、なんか変わった楽器の響きが聞こえてきたんで気になって、わざわざここを覗きに来たってわけ」

 肩から足元までを覆い尽くした長い外套を引き摺って、オトは尚政へ歩み寄った。岩床を踏み鳴らす音色は、鋭く尖っていた。

「そうそう、きっとその琴だよな。何かの曲っぽく聞こえたわけじゃないんだけどさ。何て言うのかなぁ、こう……山の中に広がってる霧みたいにスッと溶けていって、木とか川とか風とかと混ざって一緒になるような……。そんな感じがしたんだよ」

 その場しのぎの嘘よりも、抽象的で要領を得ない物言いだった。だが、それらは紛れもなく、オトが耳で捉えた世界の在り方だった。

「……そうか。其方そなたには、そのように聞こえたか」

 尚政は遂に面を上げ、琥珀色に輝くオトのつぶらな瞳を覗き込んだ。

「……初瀬はつせの尚政なおまさ音声生おんじょうしょうとして唐へ渡って、もう五十年は経つ」
「五十年前……。延暦えんりゃくの使団※2 か」
「おんじょーしょー?」
「楽師だ。見ての通り、琴を生業なりわいとしていた」

 尚政はオトの問いにだけ答え、琴の絃を右手で弾いた。
 良嗣は細い目を更にすぼめ、改めて尚政の姿と琴を凝視した。腰の下まで伸び切った髪と顎に蓄えた髭はどちらも色彩を失い、魂が抜けたかのように白々としている。携えた琴は黒漆こくしつが剥がれ落ちて木目が露わになり、絃は一本しか張られていない。みやびな雰囲気を纏わせた都の楽師たちの姿と尚政は、『見ての通り』と主張するにはあまりに掛け離れ過ぎていた。
 それ以上に、良嗣の胸の内には更なる気掛かりが生じた。
 オトの耳はより優れていた。風の流れから嵐の予兆を読み取ったり、獣や野盗の気配で察知するような芸当を、旅路の中でごく自然に行っていた。そのような力を持つオトにとっては、遠方で鳴り響く楽器の音色を聞き分けるなど容易いだろうと、良嗣はさほど気に留めていなかった。
 今この瞬間、灰色の絃は眼前で奏でられていたはずだった。だが、良嗣の耳には依然として、何の響きも聞こえずにいた。


「迦陵頻伽の仔と楽師」(四)へ続く

※1 水手 船の漕ぎ手。
※2 延暦の使節団 延暦二十四年(804)に渡航した船団。たちばなの逸勢はやなり空海くうかい最澄さいちょうらが加わっていたことで知られる。


本作は「迦陵頻伽かりょうびんがの仔は西へ」シリーズの一編です。
過去のエピソードは以下のマガジンをご参照ください。
また、小説投稿サイト:カクヨムでも並行して連載しております。


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