「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔と楽師」(四)
オトの手に握られた水晶と出火鉄※が、かちり、と鋭利な響きを立てた。
飛び散った火花は乾いた葦の穂へと燃え移り、一粒の赤い実を結ばせる。揺らめく火種はすぐさま薪の中に焚べられ、吹き込まれた息に呼応して勢いを増していく。
日の陰りとともに濃さを強めていた洞穴の影は、煌々と輝く橙色の灯火によっ振り払われていった。
「随分と手慣れているな」
「これ、便利だろ? 船の中から掻っ払ってきた朝貢品なんだってさ」
蓄えた白髭をなぞりながら感心する尚政に向けて、オトは得意げに出火道具を見せびらかした。
旅の道中で会得した火起こしを、オトはいたく気に入っていた。最初は粟粒よりも小さな火花が、徐々に大輪の花に育っていく過程を眺めることが好きだった。それ以上に、水晶と出火鉄が重なり合った瞬間に得る鼓膜をくすぐる感覚が、何よりもたまらなくオトを魅了した。
石と鉄が衝突する一瞬の響きは、昼間に狩った野兎の羽を黙々と毟り続ける良嗣にも届いていた。産まれた炎が薪の中で育っていく破裂音も、オトと尚政の間で交わされる親しげな会話も、全て同じように耳から頭へ伝わっていた。
だからこそ、良嗣は興味と疑念を更に強めていた。自分の耳は正常に働いている。では、なぜ尚政が爪弾いた琴の音色は聞こえなかったのか。オトが捉えた旋律の正体は何だったのか。
三人で共に夜を明かす契機とともに、図らずも良嗣が探りを入れる時間を作ったオトの一言に、良嗣は口に出さずとも感謝していた。
『同じ海を越えてきたヤツ同士がこんな山奥で出会うなんて、きっと何かの縁ってやつだろ。せっかくだし、このまま朝まで休ませてくれよ』
『また、勝手なことを──』
『なら、今から野営の場所探しをするってのか? 夜の山をうろつき回って顔中虫に喰われるなんて、おれはゴメンだね』
『……儂は構わん。好きにするといい』
僅かに和らげた口元を隠しつつも、オトの強引な要望に、尚政は否定的な態度を見せなかった。
元遣唐使かつ楽師を名乗る得体の知れない老人に深入りし、住居を間借りする不用意な真似など、普段の良嗣であれば絶対に選ばない。オトが背中に隠した羽根が他人に露見することを、良嗣は常に恐れていた。
良嗣が警戒心を解いていない一方で、オトが琴の音色について語った瞬間から、尚政は安らいだ顔を見せるようになっていた。深い皺が刻まれた尚政の穏やかな横顔と、生きてきた年月を証明するかのような灰色掛かった長い白髪は、薪の上に立ち昇る灯火に照らされていた。
良嗣は尚政を一瞥した後、その鋭い視線を尚政が携えた琴に向けていた。洞穴の影に紛れそうになっていた琴の姿は、ゆらめく炎の奥で再びはっきりと浮かび上がっていた。
燻んだ灰色をした一本の絃と木目が露わになった傷だらけの胴を、果たして琴と称することが正しいのかどうかさえ、良嗣には判然としなかった。
尚政が遣唐使として海を渡ってきた事実は、話振りから疑いようもなかった。だが、単なる船員が世捨人と化した挙句に楽師だった過去を創り出しただけかもしれないと、良嗣は尚政の正気を訝しんでいた。
握り締めた右手の拳を背中に隠して、良嗣は慎重に左手の指を伸ばした。
「済まない、その琴……だが──」
良嗣が琴を指差し、いよいよ音色の疑問について尋ねようとした瞬間、尚政が遮るように口を挟んだ。
「完全なる静寂を知っているか」
意図の読めない質問に対して、良嗣は答えに窮した。
「静寂……」
荘厳な寺社の堂宇の中や、静まり返った深夜の邸宅が、次々と脳裏を掠めていく。静謐だったそれらの場所が『完全なる静寂』に足るか否か、良嗣の記憶は判然としなかった。
黙して考え込む良嗣を他所に、オトは尚政の問い掛けに割り込んだ。
「ばかなこと言うなよ、そんなもんないね。何にも聞こえない場所なんておれは知らないし、もし世界がどこも静まり返ってたとしたら、毎日退屈すぎて腐っちまうぜ」
さも当然の常識を尋ねられたかのように、オトは両手を頭の後ろで組み、飄々とした声色で答えた。
さほど間を置かず、尚政は再び感心した様子で三度頷いた。年老いて濁った目は、オトが起こした灯火の輝きを受け、いつしか瑞々しい生気を取り戻していた。
「やはり、其方は物を知っているようだ」
絃を指でなぞりながら、尚政は澱みない調子で語り出した。
「完全なる静寂など、儂は産まれてこの方知らん。人が集う街や村落は言うまでもなかろう。海の上は船体に打ち付ける波風が忙しない。厳かな山寺では虫や鳥がさざめき合うだろう。儂らの居る龍門山も同じだ。巻き起こる風とともに騒めく草木、身体を巡る血のように絶えぬ川のせせらぎ、野性のままに命を燃やす獣の息遣い……。その全ての響きは混然一体となって、今生に二つとない旋律を創り出している。どれほど腕の立つ京仕えの楽師でも敵うまい」
尚政は膝の上に琴を置き、自らの爪で絃を弾いた。オトが反射的に身を乗り出す。
「儂はそこに少しだけ音色を添え足しているに過ぎない。絃など一本あれば事足りる」
しなやかに躍動する指に応じて、絃が小刻みに震え出す。良嗣もオトに続いて身を乗り出した。腕を組み、瞼を閉じて、耳をそばだてる。不可思議な演奏に、神経の全てを集中させる。
ぱちりぱちりと、薪の破裂音が断続的に響き渡る合間の、ほんの一瞬だった。
ぴん、と細い糸を弾くような僅かばかりの音色が、良嗣の鼓膜に触れて消えた。
咄嗟に良嗣は開眼し、鋭い視線で改めて琴の絃を捉えた。焔光を受けて輝く灰色の絃は、真珠のように無垢に輝き、高貴で軽やかな音色を生み出す絹糸の絃とは異なる。
枯れた色合いに覚えた既視感の正体に、良嗣は自ずから辿り着いた。
だらりと琴に垂れかかった尚政の長髪は、絃と瓜二つだった。琴の響きを発さない絃の正体が、伸び切った自身の白髪を撚って拵えたものだと、良嗣はようやく悟った。
思わず向けた奇異の目には、陶然とした表情で満足げに絃を震わせる尚政が映り込んでいた。
※出火鉄 名の通り、鉄製の火付け道具。朝貢品として、水晶とともに遣唐使船に載せられていた。
本作は「迦陵頻伽の仔は西へ」シリーズの一編です。
過去のエピソードは以下のマガジンをご参照ください。
また、小説投稿サイト:カクヨムでも並行して連載しております。
