「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔と楽師」(五)
夜の帳が下りた洞穴の外で、木々の合間に梟の囀りが飛び交う。口笛に似た鳴き声はどこか物悲しげで、龍門山を包み込む暗闇の濃さを一層深いものにした。
橿原良嗣、初瀬尚政、そしてオト。異なる理由で唐へ渡った三人は燻る焚火を囲んで、思い思いの夜を過ごしていた。
腹を満たしたオトは良嗣が背負っていた荷にもたれ掛かり、口を半開きにして安らかな寝息を立てていた。下唇にこびり付いた焦げた兎肉の欠片が、穏やかな呼吸に応じてゆっくりとこぼれ落ちた。
尚政は相も変わらず琴と戯れていた。黒漆の剥がれた胴体の上で、絹糸の代わりに張られた白髪が弱々しく震える。絹糸の絃とは似ても似つかず、蚊の鳴くような微音しか出せない細糸の響きは、梟の鳴き声で上塗りされていった。
良嗣の耳にその旋律は届いていない。撚った白髪を弾いた微細な振動を感じ取れたのは、奏者である尚政自身と、類稀なる聴覚を持つオトだけだった。
「改めて聞かせてくれ。な──」
──何故、真っ当な琴の道から外れてしまった。
良嗣は尚政の演奏に割り込んだ。疑問で覆われた思考は、山を包んでいた白い霧のように漠然としていた。
音声生として唐へ渡った身であるからには、琴の道を突き詰めようと願っていたことは疑いようもない。その尚政が『京仕えの楽師でも敵うまい』とまで豪語した旋律──山中の有情と無情が織り成す音色は、常人の理解が到底及ばない、練達の士だけが理解できる境地か。それとも、道を外れて転がり落ちた挙句、泥中に嵌ってもがき苦しむ哀れな老人の呻き声か。
逡巡の末、良嗣は踏み止まった。尚政の精神を刺激せぬように自然な体を装い、咄嗟に質問を取り繕った。
「……難波を立ったのは延暦二十四年※1 だな。海賊の嫌疑を掛けられた船があったと聞くが」
延暦年間に海を渡った船団の逸話は、京の都に広く知れ渡っている。四艘のうち二艘が遭難し、唐へ辿り着いた二艘も災難に見舞われた約五十年前の航海は、若かりし日の高僧が乗船していたことで語り種となっていた。
尚政は小さく首肯すると、つい昨日起きた出来事を振り返るかのように澱みなく答えた。
「正しく儂が乗っていた第一船だ。大使が悪筆でな、碌でもない嘆願書を認めたせいで難儀をさせられた。筆の立つ留学僧の助力がなければ、儂ら船員は一人残らず首を刎ねられていただろう」
良嗣は顰めていた眉を解き、尚政の昔語りに聴き入った。
たとえ楽師としての技量に疑念を持とうとも、尚政が延暦の船団の一員であったことは疑うべくもない。自身よりも遥か昔に海を渡った者として、良嗣の心には尚政への畏敬の念が芽生えつつあった。
「……溌剌とした力強い瞳が今でも忘れられん。求法のために長安を目指すと語っていたが、望みは果たされたのだろうか」
「そのようだ。法と宝物の請来は言うに及ばず、帰朝の末に残した事績は数え切れん。示寂から十数年を経た今でも、あの高僧の名を知らぬ者はいない」
「……そうか。あの若者の入唐は無駄ではなかったか。儂より早く今生を去るとは、何たる薄幸よ」
衰えた焚火から放たれる淡い焔光が、尚政の濁った瞳に映り込む。焦点の定まらぬ視線の先は岩壁ではなく、どこか遠い場所を見つめていた。
「儂も八十余年生きたが、とうに遣唐使など役目を終えているとばかり思っていた。……幾百人の命を賭してまで、よくも懲りずに来たものだ。大使は一体何を考えているのか」
老いさらばえた眼は、いつしか良嗣に振り向けられていた。
大使。遣唐大使。遣唐使団を統べる者。
棄て去った身分の重みを感じなかった日は、唯の一日たりともない。良嗣は生唾を飲み込み、肝が冷える思いを固く封じ込めた。
「……派遣を決めたのは大使ではあるまい。どのみち、俺のような水手※2 には預かり知らぬ話だ」
朝廷が唐に使節を送るようになって、既に二百余年の時が流れていた。その間に請来した大陸由来の文化は形の有無を問わず、計り知れない数を誇っている。
だが、国の発展と文化の成熟に大きく寄与した遣唐使も、いつしか役目を失いつつあった。
以前は朝貢の末に得ていた大陸由来の品々は、商船によって頻繁に輸入されるようになっていた。また、新たに即位した皇帝の手により、唐の各地で廃仏が起こる気運が高まりを見せていた。多くの学僧が留学を望んでいた唐は、今や求法への憧れを抱ける国ではなくなっていた。
こうして変わりゆく時勢の中において、遣唐使は最早形骸化した存在だった。危険を冒してまで渡航する必要性に疑問を投げ掛け、流罪を覚悟の上で任を辞す者も現れる中、良嗣は大使の任を引き受けた。
その胸の内に抱えていた意思は、大義や使命感などといった、他人に誇れるものではなかった。
「……大使には命を荒波に晒す覚悟があった。飲み込まれれば所詮それまでと、腹を括っていたのだろう」
「だとすれば無責任な愚か者だ。其方もよく命を預けられたものよ」
何処までも他人事を装って良嗣は呟いた。その調子に応じて、尚政は半ば呆れたような声を返した。
愛娘を喪ってからというもの、良嗣は自らの意思が及ばない死地を探し続けていた。自らを殺生しても娘の元には行けぬという僧侶の諫言が、仏が説いた真の教えか心身を気遣った方便か、在家者である良嗣には知る由もなかった。
それでも、良嗣はもう一つの方便を信じようとした。唄を愛していた娘は、きっと迦陵頻伽と共に天を舞い、極楽浄土を唄で満たしている。たとえ方便だったとしても、その説法は失意の底に落ちた良嗣の生きる糧となった。
妙なる声で唄う半人半鳥の生物など存在しない、ましてや現世に現れるはずもないと、良嗣は心の奥底で理解していた。
しかし、遣唐使船の中で迦陵頻伽との巡り逢いを果たした時、その言葉は遂に方便以上の意味を帯びた。
「結局、俺たちは無事に唐の土を踏んだ。……それが大使の意思によるものならば、きっとまだ易々と死ねぬ、生き続けねばならぬ理由が見つかったのではないか」
良嗣は傍らに視線を落とし、切れ長の目をオトに向けた。
オトは琥珀色の瞳を閉じた瞼の裏に隠して、尚も眠り続けていた。新雪にも似た純白の肌は、暖かな炎に照らされてやや赤みを帯びている。背中の羽根と脚の鉤爪を麻布で包み隠した姿は、親に手を引かれて市街を歩く人間の少女と寸分の違いもなかった。
四六時中喋ってばかりのオトも、夢の中だけは言葉を忘れ、誰にも邪魔されぬ安息の時を過ごしている。船室の箱に身を潜めていた弱々しく怯える少女の姿は、今や見る影もない。
──やはり似ていないな。
都を襲った流行病に倒れ、橿原音子は死んだ。精緻な碁石のように輝く黒い瞳も、熟れた桃を思わせる艶やかな頬も、全て荼毘に付されて灰となった。良嗣の胸を自ずと過ぎった感情は失望ではなく、在りし日の姿をまだ鮮明に思い出せる安堵感だった。
オトに気を引かれる良嗣に倣い、尚政も視線を落とした。
「……オトと言ったな。聡い子だ。この洞穴の外から、確かに儂の旋律を聴き取ったのだろう」
「彼女は他人より耳がいい。俺も驚かされてばかりだ」
良嗣はオトに向けていた目を伏せ、密談をするような調子で声を潜めた。
「ずっと、唄が聴こえるのだという。何処のものとも知れぬ異国の言葉で綴られる唄声が、遥かな西から時折響いてくるらしい。彼女は唄に喚ばれていると感じるそうだ。……そのような唄は、俺には一度も聴こえた試しがないが」
僅かに俯いて首を丸める大男の姿に、尚政は言いようのない哀愁を感じた。
しかし、その様子を意にも介さず、尚政は疑問を投げ掛けた。
「まさか、唄の主の元を目指しているのか。いくら利発な子であっても、所詮は縁も所縁もない唯の幼子だろう。揶揄われているだけかもしれぬというのに、そこまでする義理があるのか」
「……薮を漕ぎ進める最中に彼女が捉えた弦の響きを、俺は僅かに疑った。だが、たとえ俺の理解が及ばないものであったとしても、その音色は確かにこの場所にあったようだ。彼女の耳は嘘を吐かないと、俺は信じている。いや、信じなくてはならなかった」
「だから、その唄とやらも信じると?」
「ああ。……それに、喚び声の主の居場所は、俺がずっと目指していた場所と同じかもしれない。その場所に辿り着くまで、俺たちは絶対に死ねない」
良嗣の鋭い瞳が天井を見上げた。その視線は重々しい岩壁を突き破り、洞穴の外に広がる満点の星空さえ見据えられそうな力強さがあった。
「……強情な愚か者だ」
「何とでも言え」
洞穴の中に、再び沈黙が流れていく。口を閉ざした二人の代わりに、弾ける薪が相槌を打った。
※1 延暦二十四年 西暦805年。
※2 水手 船の漕ぎ手。
本作は「迦陵頻伽の仔は西へ」シリーズの一編です。
過去のエピソードは以下のマガジンをご参照ください。
また、小説投稿サイト:カクヨムでも並行して連載しております。
