見出し画像

「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔と楽師」(六/終)

前回「迦陵頻伽かりょうびんがの仔と楽師」(五)


 朝霧に滲む淡い陽光が龍門山りゅうもんさんに降り注ぎ、じわりと洞穴ほらあなの中に差し込んでいく。
 柔らかな光を頼りに旅支度を終えた良嗣よしつぐは、膝を突いたまま荷を背負った。尚政なおまさが潜んでいた洞穴は、どうにか三人が過ごせる広さだった。身の丈七尺半※1 を誇る良嗣ほどの大男が、背筋を伸ばして立ち上がれるような高さはない。

「行くのか」
「ああ。手筈通り、一先ひとまずは洛陽らくようを目指す。……邪魔をして済まなかった」
「……構わん。ほんの一時、山が騒々しくなっただけだ。其方そなたたちが求める場所に、無事に辿り着けるよう願っている」

 普段通りの素っ気ない声色に反して、良嗣は深々と頭を下げた。一つ結びにした後ろ髪が、首筋を伝って緩やかに流れた。
 対する尚政は片膝を突いて座り込んだまま、強く頷いて応えた。油の抜け切った白い長髪は、更に激しく乱れた。
 やがて、尚政から良嗣に向けられた視線は、良嗣の傍らで腕組みをしながら唸っているオトへと移っていった。

「……うぅーん……」
「何を悩んでいる? これ以上長居をするつもりは──」
「わかってるってば、そうじゃなくて……」

 オトは尚政の元へ歩み寄った。足元に引き摺る麻の外套が、冷たい岩の床を滑る。

「……なぁ、じーさんも一緒に洛陽まで来ないか?」

 放たれたオトの一言に、良嗣と尚政は目を丸くした。

「どうにかしてカネ集めて、琴の絃をきっちり張り直してさ。街中で……そうだな、人が集まりそうな市場のど真ん中で弾いたら、きっとみんな足を止めてくれる。『凄い楽師がいるぞ!』って、どこのどいつも驚くぜ。ずっと穴ぐらに閉じ込もったままじゃ、その腕前が勿体ねえよ」
「待て、儂は──」

 狼狽うろたえる尚政の横で、良嗣は瞳を閉じて頷いた。オトの我が儘な一言を、良嗣は否定せず受け入れた。

「洛陽までならば構わない。旅の邪魔をしなければ、俺はそれでいい」

 今は世捨人と言わざるを得ない風体だとしても、かつて音声生おんじょうしょう※2 の一人として唐に渡った身であれば、優れた楽師だったことは良嗣にも疑いようがない。自らの白髪を結って作った一本の絃ではなく、真っ当な絹糸の絃を張り揃えた琴を弾くのであれば、その音色は誰の耳にもつまびらかになる。薄暗い洞穴の中で燻り続けている尚政が、燃え盛るような輝きを放つ様を目の当たりにできるかもしれないと、良嗣は思い至った。
 答えを待つ二人の視線が注がれる中、尚政は首を横に振った。

「誘いには感謝しよう。……だが、儂は行かん」

 尚政の口から望んでいた肯定が返らなかったことに、オトは少なからず落胆の色を隠せなかった。
 駄々をねる幼子らしい調子をわざとらしく装って、オトは再び尚政の情に訴え掛けようとした。

「あのな、おれたちはたまたまここまで来たけど、わざわざ山奥に入って来るやつなんて滅多にいないんだぜ。どんだけ気に入った演奏ができたって、それを聴くやつはじーさんしかいないわけだろ? それで本当にいいのかよ?」 
「……ああ。儂が求める音色はこの場所・・・・にしかない。世俗の中では絶対に得られん。だから、離れるわけにはいかんのだ」

 断固とした頑なな態度から、オトの記憶は尚政と巡り逢った瞬間に至った。
 尚政は同じ母国語を操っていた良嗣を、自らを強引に連れ帰らせようとする遣唐使の一人だと思い違え、矢を放ってまで追い払おうとした。薄暗く湿気っている洞穴から連れ出されることを拒む理由を、オトはようやく思い知った。
 尚政が求める音色を、オトの類稀なる聴覚は確実に捉えていた。あらゆる生命と現象が奏でる調和は流動的で、そこに白髪の絃を振るわせる微細な響きが時折混ざる。洞穴の中に籠りながら尚政が一絃の琴で産み出す世界は、オトの耳にとっても魅力的だった。尚政が俗世との決別を誓う程の世界を創造してしまったのだと、オトは不本意ながらも理解に至った。

「……そっか。それじゃ、ここでお別れだな」

 オトは尚政に背を向け、洞穴の外に滲む朝日を見据えた。
 そして、ゆらりと首を左右に動かすと、流れのまま肩と腕を揺らして全身の力を抜いた。小さな身体に風を纏わせて自身を溶け込ませるような仕草は、まさに今より『うた唄/詩』をそらんじようとする合図だった。

「何十年もここで暮らしてるんじゃ、『誰もが知ってる』って訳にはいかないけど……。でも、おれは覚えててやるから」

 そして、唇に乗せられた言葉の一つ一つが、解き放たれて空に舞う。刹那に消えゆく音色の連なりこそが、オトなりの離別の挨拶だった。

十里黄雲白日曛じゅうりおううん はくじつくらし
(黄昏の雲がどこまでも広がり、陽光さえも薄暗い)
 北風吹雁雪紛紛ほくふうかりをふいて ゆきふんぷん
(北風はがんの群れを吹き送り、雪は紛々と降りしきる)
 莫愁前路無知己うれうるなかれぜんろ ちきのなきを
(行く先に親友がいない、と心配するな)
  天下誰人不識君てんかたれびとか きみをしらざらん
(君の名を知らぬ者は、天下に誰一人としていないのだから)」

 オトが旋律を付けて吟じた唄は、名だたる詩人が琴の名手に宛てた七言絶句しちごんぜっく※3・4 の訓読だった。
 聴き慣れている良嗣でさえ感嘆を隠せない唄声に、尚政の心が動かない道理はなかった。

「……おぉ……」

 詩を澱みなくそらんずる聡明さ、口から奏でられた旋律の見事さ、そして詩の文句に尚政は驚嘆した。
 半開きになった口は震え、やにで固まった目元からは止めどなく涙が溢れ出した。流れ落ちていく涙は、洞穴の岩肌を伝う結露のように、尚政の乾いた肌を潤していった。

「おい、ばか! 泣いてんじゃねぇよ!」

 人目も憚らず赤子のように落涙する老人の姿を前に、オトは決まりが悪そうに怒鳴った。
 尚政は乱れた呼吸を整え、鼻をすすり、掠れ声をかろうじて搾り出した。

「……京の都に居た頃の儂は、誰よりも優れた才能を持っていると驕っていた。たとえ入唐にっとうして儂より秀でた者に出会ったとしても、すぐに踏み越えて己の力を証明してやろうとさえ思っていた。……だが、考えが甘かった。長安で幾人もの名手に出会った。天女が舞い踊るように精緻な指運びも、奏でられる艶やかな音色も、何もかも敵わないと悟った。だから、儂は帰朝きちょうを諦め、仲間達の元を去った」

 良嗣もオトも、押し黙って尚政の過去に向き合った。
 良嗣の脳裏には、同じように帰朝を諦めて唐に残った自身の姿があった。命を賭してまで唐へと渡った挙句、ちょくさえも無視すべき境地に至った尚政に、良嗣は己を重ねていた。

「……だが、決して諦める訳にはいかなかった。琴は儂の全てだ。琴に向き合い続ければ、道が開けると信じていた。誰にも邪魔されぬ雑音のない場所で修練を積むため、儂は龍門山を彷徨って、この洞穴に辿り着いた。寝食以外を全て修練に費やした挙句、いつの間にか箏爪ことづめは粉々に砕け、絹糸の弦は全て千切れ飛んでいた」

 尚政は目を伏せ、右手の指先に目をやった。深い皺で亀裂が入った尚政の指先には、黒漆こくしつが剥がれた傷だらけの琴があった。年老いた旧友を労わるように、尚政は桐の木目を優しく撫でた。

「……朦朧もうろうとした意識の中で、戯れに伸びた髪を張って爪弾いた時、儂は気が付いた。今まで気にも留めていなかった山の音色の深さと、その世界に寄り添う弾き方に誰の耳に届かずともよい。命ある限り奏でていたい。儂だけが知っていればよい。儂の耳がれただけだとしても構わない。……五十年間、ずっとそう思っていた。其方と出会うまでは」

 突き出した頬骨に溜まった涙を拭うと、尚政の潤んだ瞳はオトを捉えた。

「オトよ。其方の耳は確かに、儂が奏でる音色に触れたようだ。儂にはそれだけで充分だ。この地へ来た意味は確かにあったのだと、ようやく納得することができた。感謝する」
「何だよ、照れ臭いなぁ」

 尚政のかしこまった態度は、初対面の際に疑念と敵意を剥き出しにした様とはまるで異なっていた。肌をくすぐるような奇妙な感覚に戸惑い、オトは鼻の頭を掻いた。
 そして、改めて尚政は良嗣の元に歩み寄った。焚火を囲んだ夜よりも近い距離で、しわがれた声が放たれる。

「……橿原かしはらの良嗣とやら。オトを導いてくれた其方にも礼を言わねばならん。……オトと同じ旅路を歩んでいけば、きっといつか其方が望む音色に巡り逢えるはずだ」

 西の果てからオトを喚ぶという『導きの唄』は、未だに良嗣の耳に届く気配がなかった。それでも、良嗣にはオトを信じて共に旅を続ける覚悟があった。まるで根拠のない覚悟を肯定された気がして、良嗣は自ずと背筋を正した。

「オマエさぁ。昨日の夜、なんか余計なこと喋ってないだろうなぁ?」

 熟睡していたオトの耳に、良嗣と尚政の間で交わされた会話は届いていない。
 首を突き出して冷ややかな視線を向けるオトから目を逸らし、良嗣は無言でかぶりを振った。余計な否定の言葉を口に出せば、オトの力ですぐに勘付かれると知っていた。
 うそぶいた態度の良嗣を追求しようとするオトの姿は、さながら父親と戯れ合う娘のようだった。瞳に映る微笑ましい光景が、尚政の涙腺に蓋をした。先程の唄声の持ち主がとるとは思えない仕草が、更に尚政の感心を誘った。

「……それにしても、あれは不思議な唄声だった。みやびで、軽やかで、まるで声に翼が生えたかのような……。『迦陵頻伽の如き声』とは、きっと其方のような声を指すのだろう」

 オトと良嗣は張り合いを止め、互いに顔を見合わせた。
 類稀なる美声の持ち主に対して用いる最上級の賛辞は、尚政にとっては単なる比喩に過ぎなかった。だが、その言葉は決して比喩で終わらない事実であり、決して誰にも明かさないと誓った二人だけの秘密だった。

「ひひっ……ひひひっ!」
「どうした、何が可笑しい」
「じーさん、ヘンなこと言うなって! おれの声はそんな立派なもんじゃねぇよ。それに、迦陵頻伽かりょーびんがなんて鳥だか人だかよくわかんないやつ、いてたまるかってんだ! なぁ?」

 照れ隠しと誤魔化しの入り混じったオトの賑やかな引き笑いが、洞穴の外へと軽やかに飛び出していく。
 龍門山を覆っていた霧は、いつしか一点の曇りもなく晴れ渡っていた。


「迦陵頻伽の仔と楽師」完

「迦陵頻伽の仔の憧憬」へ続く


そして、二人の旅は更に続く……


※1 七尺半 約223.5cm。養老律令ようろうりつりょうにおける尺貫法(一尺=29.8cm)にて換算。
※2 楽師。
※3 高適こうてき(生年不詳-765)作「別董大とうだいにわかる」より。 
※4 七言絶句 一句七語、合計四句二十八語で構成される漢詩。


本作は「迦陵頻伽かりょうびんがの仔は西へ」シリーズの一編です。
過去のエピソードは以下のマガジンをご参照ください。
また、小説投稿サイト:カクヨムでも並行して連載しております。


いいなと思ったら応援しよう!