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「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔と楽師」(一)

前回「迦陵頻伽かりょうびんがの祈り」

 龍門山りゅうもんさん※1 に静寂は存在しない。
 風に踊り擦れ合う草木。絶えず岩肌を伝い落ちる流水。霧の中で争いいななく獣たち。
 そして、仄かに陽光が差し込む洞穴ほらあなの奥で、静かに脈打つ心音。
 知覚できる世界の全てに神経を研ぎ澄まし、両耳に垂れ掛かった長い白髪を掻き分けると、初瀬はつせの尚政なおまさは膝の上の琴に手を掛けた。
 たった一本だけ張られた灰色の絃を、左手の指で押さえ、右手の指で爪弾つまびく。
 ぴん、と軽い音色が鳴った。
 山の中で形作られる音色に合わせて、絃は時に激しく、時に優雅に響き渡る。幽玄な空気は小刻みに震え、やがて洞穴の外に広がる夕霧の中に溶けていった。
 琴を弾き続けたまま、尚政はそっと瞳を閉じて音色に浸った。
 自らの演奏に愉悦を覚えるなど、楽師にとって傲慢ごうまん極まりない。若かりし日の尚政なら、自身の態度を咎めていたに違いない。
 だが、今の尚政は臆すことなく自負していた。探し求めていた至誠の音色は長安ちょうあんでも平安京でもなく、今この時間、この地にある。だからこそ、魅惑的な音色に余生を捧げ、このまま朽ち果てても構わないとさえ思っていた。

「──だからぁ、すぐ目の前だって言ってんだろ──」

 咄嗟に、尚政は演奏の手を止めた。
 洞穴の外から微かに鳴り響いた少女の声で、鼓動の調子はたちまち崩れた。思わず、尚政は左胸を握り押さえた。襤褸ぼろ切れ同然となった漢服に、また一つ新たな亀裂が走る。

「かような場所で楽器など聞こえるものか」
「おれの耳を信じろよ、確かに聞こえたんだって!」

 耳に届いたのは、落ち着き払った声の男と賑やかな少女との会話だった。
 尚政は幻聴を疑った。遥か昔に別れを告げた東の海の彼方の言葉が、洛陽らくよう※2 の山奥で聞こえるはずがない。
 耄碌もうろくはなはだしいと、尚政は爪で自分の右耳を強くつねった。
 藪に潜む毒虫に刺されたような痛みが、硬く骨ばった耳に鋭く走る。
 ──幻聴ではない。
 尚政は琴を傍らに置き、岩壁に立て掛けた弓に視線を向けた。自ら竹を削ってこしらえた狩猟用の弓矢のしなやかな輪郭が、尚政の濁った瞳にぼやけて映る。

「ほらほら、ここの奥だぜ!」

 少女の軽やかな声と、重々しい足音が近付く。
 意を決して尚政は弓を手に取り、矢を当てがった。

「近寄るな!」

 数十年来に口走った祖国の言葉は、尚政のことほか流暢だった。
 尚政は片膝を突くと、霧の奥でゆらめく大きな影に狙いを定め、弓の弦を引き絞った。

「子連れなら油断すると思ったか。絶対にわしは戻らない、戻ってなるものか!」

 尚政は影に向かって矢を射った。矢は風を切り裂いて、霧の中へと突き進んでいく。
 しかし、想像したような悲鳴は返ってこなかった。
 続けて二本目の矢をつがえようとした時、少女の甲高い大声が、洞穴を所狭しと駆け巡っていった。

「あっぶねーな! いきなり何しやがんだ、このばか!」

 霧の中から、熊を思わせる巨躯の男と、声の主たる幼い少女が姿を現した。
 男は洞穴の天井に頭を打たぬよう、首と背中を丸めていた。少女は男の背後に隠れ、歯を剥き出しにした威嚇の表情を尚政の方に覗かせていた。

「……何だと……」

 尚政は顎を開き呆然としていた。大男の右手には、放ったはずの矢が握られていた。 
 岩のように逞しい拳に、力が篭る。矢は踏み潰された小枝の如く、いとも容易く粉々に砕け散った。

「迦陵頻伽の仔と楽師」(二)へ続く

※1 龍門山 洛陽の南に位置する。岩壁に「龍門石窟」を有する。
※2 洛陽 今日における中国 河南省西部の都市。唐の都:長安の東に位置する。



本作は「迦陵頻伽かりょうびんがの仔は西へ」シリーズの一編です。
過去のエピソードは以下のマガジンをご参照ください。
また、小説投稿サイト:カクヨムでも並行して連載しております。


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