「迦陵頻伽(かりょうびんが)の仔の祈り」
「……オン・マニ・ペメ・フン……」
オトが幼な声で唱える観音菩薩の六字真言が、ゆっくりと回転する摩尼車に反響する。
少女の喉が放つ高い声と鈍い金属音が折り重なった音色は、弦楽器と打楽器の合奏さながらに調和し、高原の風に乗って大昭寺の周囲に鳴り渡った。
「ほらほら、次だ次!」
「そう焦るな」
良嗣に胸の高さまで担ぎ上げられたまま、オトは全身の力を両手に込め、列を成したマニ車を一つ一つ回し進んでいった。
◇
二人が拉薩の街に辿り着いて、三日が経った。
高原地帯を手中に収めていた吐蕃の首都であったラサは、国家が政変により衰退の一途を辿ってもなお、聖地としての威光を放ち続けている。市街の中心地に建立されたジョカンは信仰の縁として、高原の民の祈りを一身に集めていた。
漆喰の白壁で覆われたジョカンの伽藍は、堂内から漏れ出す乳灯※1の匂いと、数百基ものマニ車によって取り囲まれている。人の頭ほどの大きさがある筒状の金属の塊は、オトの小さな背丈では到底届かぬ高さに並べられていた。
幼子が身の丈七尺半※2もの大男に抱えられ夢中でマニ車を回す様子は、二人の素性を知らぬ他人の瞳には、信心深く仲睦まじい父娘の姿に映るだろう。
しかし、ジョカンの周囲に集った人々は、二人に目もくれようとしなかった。二人の先を歩む人々は、黙々とマニ車を回しながら進んでいる。そして、硬く冷たい石畳の上では、老若男女が伽藍に向かって一心不乱に五体投地を行っていた。
「……オン・マニ・ペメ・フン……」
真言を唱えながらマニ車を回し続けるオトをよそに、良嗣は礼拝する人々を細目で眺め見た。
遣唐使船で大陸に渡ってからの三年間で、良嗣は異国の慣習を数知れぬ程目の当たりにしている。胸の前で組んだ合掌を頭上に掲げた後、大地と一体化するように全身を投げ打つ吐蕃流の五体投地もその一つだった。当初は力強くも痛ましい礼拝の様子に戸惑いを覚えたが、今ではその信心深さを羨ましくも感じていた。
良嗣は出家者でも、さして敬虔な信徒でもない。旅の目的は巡礼に非ず、遥かなるチョモランマへとオトを送り届けるためにある。しかし、いかに瞳に映る景色が移ろうとも、その道行きからは仏の影が付いて離れなかった。
「……オン・マニ・ペメ・フン……」
尚も六字真言を繰り返し続けるオトに、痺れを切らした良嗣が口を挟んだ。
「何遍唱えれば気が済むんだ」
「んだよ、ジャマすんなよな」
「黙って回すだけで構わないのだろう」
「わかってるけどさ。なーんか、それだけじゃしっくりこないんだよなぁ」
マニ車の中には経巻が納められており、回すだけで経文の読誦と等しい功徳を得られる。その言い伝えを耳にした時、良嗣は祖国の寺院で行われていた、大般若経の転読会を想起した。
六百巻にも渡る膨大な経文を読誦せず、経巻を転がすことで功徳を得られると謳われる法会に、良嗣は立ち会った経験があった。僧侶たちの袈裟の模様や堂内の設えを漠然と眺めながら、喉を潰さずに功徳を得られるならば合理的かもしれないと、喉元まで迫った欠伸を堪えて嘯いていた。
一方、その信仰の形はオトの目には新鮮で興味深く、そして半ば愉快なものとして映った。
「なあなあ、よく考えてみろって! おれが回すだろ。で、こうやって唱えるだろ。そうすれば効き目が二倍だ二倍!」
「そんなに単純な筈があるか」
拳を振り上げて自信満々に語るオトに、良嗣は呆れながら苦笑した。それは次々と人間離れした力を得ていくオトの幼子らしい素振りに、良嗣が覚えた安堵の表れだった。
迦陵頻伽の仔たるオトが人間離れしているのも理の当然だろうと、良嗣は以前から納得していた。
しかし、声の主の感情をも察し取り、遂には初対面の異民族の言語まで操るようになったオトは、いつしか麻布で隠した背中の羽根の傷を癒やして飛び去ってしまうのではないか。それが気ままなオトの望む真の幸福だとしたら、自分は素直に受け入れられるのか。
時折胸の内から溢れ落ちそうになる不安に、良嗣は固く蓋をし続けていた。
◇
「……で、結局どれがドルジェのマニ車なんだろうな? しっかり聞いてくりゃよかった」
オトは良嗣の方へ首を振り向け、ラサへ向かう道中で行き倒れていた鍛金師の青年の名を口にした。
──先日、奉納するマニ車をいくつか任せて貰えたばかりで。
煉瓦色の肌をした青年の、純朴で誇らしげな顔が、二人の瞼の裏に蘇った。
「願主の名も作者の名も記されていない。そもそも、意匠の差も見当たらない。探しようもないな」
「せっかくだし、聞きに戻るか?」
「止めておけ。……父の四十九日までは喪に服すと言っていた。暫くは一人きりで己と向き合う時間が必要だろう」
師匠である父を同門の兄に殺められ、怨讐を抱いたその兄まで喪った青年は、二人と接する中で家族の死に折り合いを付けた。一時は見失いかけた生きる意味を、青年はまだ見ぬ外の世界への憧れへと託した。
──俺たちが渡った海は遥か東方だ。命ある限り、歩みを止めなければ必ず辿り着く。見たければ見ればいい。行きたければ行けばいい。誰もお前の意思を妨げない。
渇いた語気の中に思慮を込めた良嗣の一言が、青年の心を揺り動かした。両の瞳に再び灯った確かな輝きこそが、何よりの証左だった。
「あいつ、いつかはラサを出るんだよな」
「……ああ、きっと」
「海、見れるといいな」
「そうだな」
どちらからともなく、二人は共にラサの空を見上げた。天上には二人が見た海よりも深く濃く青い、澄み渡った瑠璃色が途方もなく広がっている。
手を伸ばせば届きそうな空よりも、まだ見ぬ海を選びたがった青年に、二人は改めて思いを至らせた。
「一人旅は止めさせた方がよさそうだよなぁ……。弱っちそうだし、またどっかでぶっ倒れちまうぜ」
「そうならぬよう、無事を願うとしよう」
「まあ、他人の心配ばっかりしてる場合じゃないけどな」
「……わかっている」
──チョモランマ!? あり得ない!
旅の目的を告げた後の青年の驚き様は至極当然だったと、良嗣は十分に理解していた。
それでも、指先の爪程の大きさにしか見えなかったチョモランマは、歩みを進めるにつれ壮麗さを増していた。南西の方角にどこまでも連なる山脈は、今や良嗣がかざした掌程の高さまで迫っている。果ては未だに伺い知れないが、着実に距離は縮まっていた。
ラサから巡礼者が歩む道を伝って、人里を辿りながら西を目指し、チョモランマの麓へと少しずつ近付いていく。かつて青年に薦められたジョカンへの参詣は、その道中の安全祈願を目的としていた。
「ならさ、オマエも手伝えよな!」
「手伝う?」
「いっしょに唱えていっしょに回すんだよ。おれとオマエとマニ車、力を合わせて三倍だ! あれ、違うな……四倍か……?」
オトは幾度も首を捻りながら指折り数えた。混乱する頭は緩やかに振り乱され、後ろ髪が良嗣の頬を打った。
鬱陶しいぞ、と喉から出かけた良嗣の文句は、そのままオトの弾んだ声に塗り潰された。
「ま、何でもいいや! とにかく、ドルジェのやつが無事に海を見れるように。それに、おれたちの旅の安全に」
振り返ってはにかむオトの横顔に、良嗣は軽く頷いて応じた。おれたちの旅、の一言に、良嗣は確かな安堵を覚えていた。
そして、二人の意思と真言を唱える声が、共に重なり合った。
「「……オン・マニ・ペメ・フン……」」
良嗣は左腕でオトの身体を抱え直すと、空いた右手に力を込め、オトと共にマニ車へ手を添えた。拳を握り続けて硬くなった掌の皮膚から、金属の筒へと熱が伝わる。
途端にオト一人とは比べ物にならない程の力が加わり、片手押しにしたはずのマニ車が盛大に回転した。
「うおっ!?」
マニ車と支柱が擦れ合い、鼓膜を突き破る程の勢いで鋭い金属音が鳴り響く。オトは騒音の激しさに我慢がならず、咄嗟に両耳を塞いだ。
一基だけ異常な速度で回転し続けるマニ車の姿は、荘厳な祈りの場に釣り合わない。オトの喉からは文句が飛び出す前に、自然と笑いが込み上げてきた。
「きひひひひっ! 気合い入れすぎだって、このばか力!」
「……力加減が難しいんだ」
マニ車が発した悲鳴は、オトに限らず多くの衆目を集めた。黙々と五体投地をしていた数名が向き直り、一様に目を顰めて二人を見た。
「……悪かった」
良嗣は頭を下げ、不慣れな吐蕃語で決まりが悪そうに呟いた。人並外れた図体の大男が神妙にしている姿は、再びオトの笑いを誘った。
「こっちの言葉もちょっとはサマになってきたな! もっと早く覚えられるよう祈っとくかぁ? きひひひっ」
「余計なお世話だ」
更にけらけら笑い続けるオトの声が、ジョカンの周囲にけたたましく鳴り渡る。
清浄な祈りの場を包み込む幼子の笑い声を、誰一人咎める者はいなかった。それどころか、当初は怪訝な面持ちで二人を凝視していた人々の心は、途端に安楽な境地へと誘われた。
少女から発せられた声は、まるで観音菩薩が礼拝に応えて返事をしたような、納得し難い錯覚さえ人々に起こさせた。それが迦陵頻伽の妙なる声の力によるものだと、良嗣以外には知る由もなかった。
「迦陵頻伽の仔の祈り」完
つづく
※1 チューメ ヤクの乳を原料とするバター製の灯明。
※2 七尺半 約223.5cm。養老律令における尺貫法(一尺=29.8cm)にて換算。
本作は「迦陵頻伽の仔は西へ」シリーズの一編です。
過去のエピソードは以下のマガジンをご覧ください。
また、カクヨムでも並行して連載しております。
