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“天才”ライターの軌跡18 YOSHIKIと過ごした時空 小林信也

19歳の春、僕の夢は「シンガーソングライター」だった
大学の合格発表を受けて春休みに上京した時、僕が向かった先は慶応義塾大学の野球部寮だった。入寮し、神宮の星になるはずだったが、たった一週間で田舎に逃げ帰った。根性がなかった、としか言いようがない。入学式のため再び上京した時、僕の心にあったのは「シンガーソングライターになりたい」という淡い夢だった。
小学生のころから時々歌を作っていた。作詞作曲。給食の時間に僕の歌が全校放送で流れたことがある。あれほど恥ずかしい経験は他に思い出せない。友人の笑いの中で僕はただ顔を伏せ、その時間を耐えた。
それでも歌を創り、歌いたい思いは募るばかりだった。中学生のころ、フォークソングに出会い、高校生になるとそれがニューミュージックへと流れを変えた。
吉田拓郎が最初のヒーロー。それから六文銭、赤い風船、ジローズ、井上陽水、中島みゆき……。
6畳ひと間のアパート、孤独な都会暮らしの中、僕は簡単なコードを抑える程度にギターを弾き、歌をテープに吹き込んで《ヤマハ・ポプコン》に応募した。
雪国の高校時代と違って、ヤマハはすぐ目と鼻の先にあった。走っても届けられる近さ。けれど、現実は遠かった。予選落ちどころか、「応募受け付けました」の手紙さえ返って来なかった。

音楽の道はあきらめ、たまたま出会ったフリスビーに没頭し、それが縁で出版社での仕事も始まって十年が過ぎたころ、これも偶然に僕は音楽の世界と深く関わる幸運を得た。
X(エックス)、そしてYOSHIKIとの出会いだ。これはすでに他のシリーズで書いているので、一部引用しよう。

小林信也 僕が創って・手放してきた宝物日本スポーツ“裏通り”の出来事 第一話「ヒーロー工房」(続き)

・・・昭和から平成に変わった年の夏、僕は突然、網膜剥離を発症し、緊急手術を受けた。術後も安静を言い渡され、原稿を書くために借りていた自宅近くの仕事場のリクライニングチェアでずっと有線放送を聴いて過ごす日々があった。
マンションに備え付けの有線放送はヘビーローテーションで、何分かに一度は同じ曲がかかる。僕はその中の一曲に胸をわしづかみにされた。
イントロは温かくも切れ味のある、何とも胸の奥をざわめかせるピアノ・ソロ。続いて始まるボーカルの、高く冴えた歌声は、それまで聴いたどの音楽とも違う衝撃で僕を心地よく打ちのめした。その曲が流れるたび、リクライニングチェアにすっかり任せた僕の身体がいっそう沈み込んでいくようだった。
(誰が歌っているのだろう? 何という曲なんだろう?)
有線放送だから、それを調べる手立てがなかった。
数日後、ようやく医師に許されて新宿南口のヒーロー工房(注・僕の事務所)に行った。玄関のドアを開けると、薄暗いその空間がいっそう暗く沈みつつ、ボワッと仄かな光に包まれている何かが足元にあるのがわかった。
最初は何かわからなかった。やがて、それがひとりの人物で、足元まである長く黒いコートに身を包み、やはり黒いロングブーツに紐を通しているのだとわかった。その人は、座った状態だから床までつかんばかりの長い髪を、首を軽く捻ってはねあげた。アスリートではない。普段はあまりこの部屋で見ない、明らかにスポーツとは違う分野の人物の横顔がはっきりと見えた。それが誰かはわからなかった。
中に入って、スタッフの女性に訊いた。
「いまの人は誰?」
「知らないんですか? YOSHIKIさんですよ。エックス(X)の」
「エックス? 知らない」
僕が言うと、彼女はデスクの抽斗からビデオテープを取って差し出した。
「これ、見てください。最近、白石さんの治療を受けに来てくれているんです」
渡されるままビデオを見ると、いますれ違った彼、YOSHIKIが、確か真っ赤なロングドレス(コート)を身に纏い、バッハのフーガト短調を演奏する光景が浮かび上がった。そのミスマッチ……、ヘビメタロック的な装いでありながら、僕が最も好きなクラシック曲のひとつであるバッハを、しかもピアノで演奏している。茫然と見入っていたとき、彼の指先から、仕事場で胸を揺さぶられたあの和音のイントロが紡ぎだされた時には、全身が震えた。
(えっ? この曲は彼が弾いていたのか!)
曲名が《エンドレスレイン》、アーティストはX(エックス)だと、僕はその時知った。
それが、僕とYOSHIKIとの運命的な出会いだった。・・・

YOSHIKIの楽屋で過ごした時間
当時一緒に〈ヒーロー工房〉を主宰していた白石宏トレーナーが、YOSHIKIに依頼されてツアーに同行し、身体のケアを担当することになった。僕は白石をサポートするため、同行した。
それはかけがえのない時間そして空間だった。
白石トレーナーがライブの前、ライブ中、そしてライブの後、楽屋でYOSHIKIを治療する間、僕は同じ部屋のソファに座って白石トレーナーの治療を、心を込めて、見るとはなしに見守る。言葉にできない、信頼の、そして創造的なエネルギーが部屋に満ちていた。
忘れられない出来事はたくさんある。
中でも印象的なひとつを挙げると、それはXがX Japan と名前を変えて世界デビューを果たした夜。1992年8月。ニューヨーク、ロックフェラーセンターでの記者会見を終えて、一緒に外に出た。十㍍くらいはあるかというリムジンに乗り込む前、YOSHIKIが長い髪を抑えながら高層ビルのテッペンを見上げて言った。
「小林さん、やっとここまで来れました」
それから30年が経ち、YOSHIKIは「世界のYOSHIKI」になっている。

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