小林信也 僕が創って・手放してきた宝物 日本スポーツ“裏通り”の出来事 第一話「ヒーロー工房」
僕の作品は「本」だけじゃない
「作家・スポーツライター」だから、文章を書くのが本業。「出版した本が作品」かもしれない。けれど、
「生きて、それ自体が物語になる作家でありたい」
「評論家的に外から取材して論じるのでなく、中に入り、実際にスポーツ界を変える、ヒーローを育て、新しいムーブメントを創るのが使命」
作家を志した十八歳の時からそう決めていた僕は、本以外にいろいろな「作品」を世に送り出し、手放してきた。なぜか作品は僕の手を離れていくため、語り継いでくれる人もいない。僕が創った事実はほとんど忘れられている。歴史は後になって書き換えられるという。なるほどそんなものかと当事者になって知る。
いま僕は、これまで創った“作品”を断片的に書こうとしている。振り返れば道草ばかり。なぜ、本業と関係ない無駄(?)なエネルギーを費やしたのかと、他人からは愛想を尽かされるだろう。自分にはどうしてもやらずにいられない必然があった、強い動機があった。道草をしながらも、そのお蔭でいまに辿り着いたという実感もある。一方、自分でも少し呆れる。もっと上手く生きて来られなかったか、人生の貴重な時間と大切なお金を余計な挑戦に奪われた。それは浪費だったのか、意味ある糧になっているのか。
一体、僕は何のためにそんな道草に情熱を注ぎ続けてきたのだろう。
作家としてある領域に到達するために、通底している何かがあるのかないのか。自分ではわかっているとも言えるし、本当に必然だったのかもわからないとも言える。いま改めてその深層に気付くきっかけがほしくて、そしてその深層を手がかりに今日から先をなるべく真っすぐ生きて行きたくて、このエッセイを書こうとしている。
ヒーロー工房=ヒーローを創るアトリエ
最初に取り上げる「作品」は何にしようか。あえて順不同、時系列を尊重せずに書こうと思う。それで浮かんだ第一話は《ヒーロー工房》。「ヒーローを創るアトリエ」「新しいムーブメントを生み出す工房」。れっきとした株式会社で、僕は代表取締役だった。
設立は1985年(昭和60年)だったと思う。ちょうど20代から30代に差し掛かる時期だ。
大学時代から雑誌で原稿を書く仕事に恵まれ、曲がりなりにも「スポーツライター」として活動をしていた。気概としては「作家」。当時は「物書きで身を立てる」という意気に燃えていた。雑誌で仕事をしていると、先輩たちの動きが目に入る。それなりに活躍している先輩が、30代を迎えるとスタンスを変える。結婚し子どもが出来て、雑誌の原稿料だけでは暮らせない、安定しない事情があるからだと聞かされた。多くは「広告」に舵を切った。
「広告の原稿料は雑誌と一桁違うからね」と編集者に聞かされた。「雑誌で2万円の字数が、広告なら20万円になる。そりゃ、そっちを選ぶよね。けど、小林クンはアイツらみたいに堕落しちゃダメだよ」
そんな話を聞かされて、僕は思った。
「ギャラに目が眩んで落ちぶれてたまるか。僕は絶対、広告なんかに手を出さない。筆一本で、物書きとして生きていくのだ!」」
そういう単純さが今日まで僕を動かしてきた。その裏には社会性や経済的見識のなさがある。それは僕の取柄でもあり、不幸なその日暮らしの要因でもある。
ディスクゴルフの普及とトレーナー制度の推進
そんな僕が会社を作るきっかけは主に二つあった。
ひとつは大学時代に出会い、熱中したフリスビーへの情熱だ。
紆余曲折もあり、雑誌で原稿を書き始めて一時離れていたが、遠くから眺める日本のフリスビー状況はほとんど変わらなかった。普及は劇的には進まず、相変わらずマイナー扱いが続いていた。僕がカルフォルニアで衝撃を受けた究極の自由と自然との共生を求めるフリスビー・スピリットを感じ、そういうフリスビー文化を伝えようとする意志もほとんど感じられなかった。
(自分がやるしかない)
フリスビーの中でも、ディスクゴルフに可能性を感じた。これなら勝負できる、という予感もあった。社会的に「余暇の過ごし方」が課題にされ、「健康スポーツ」への意識が高まる中で、老若男女を問わず楽しめるディスクゴルフは最適なスポーツだと感じた。頭に、様々なプロデュースプランが浮かんだ。円盤や用具を輸入し、コースを作り、国際大会を開催する……。
そのためには会社にする必要があった。それが「株式会社ヒーロー工房」設立の最初の動機だった。
そしてもうひとつ、親しい友人であり、個人的にずっとサポートしていた白石宏トレーナーからの要請もあった。後輩の岩崎由純がアメリカ留学を終えて帰国する。本場の資格を取得して帰ってきたが、日本ではトレーナーへの理解が浅く、思い通りの就職先も活躍の場も見つからない。何とか助けてあげてくれないか。それで、ヒーロー工房に迎え、トレーナー制度の普及振興も会社の大切な使命となった。
実は直後に岩崎はNECの女子バレーボール部にヘッドハントされ、トレーナーとしての活躍の場を得た。アッという間にヒーロー工房を離れたのだが、すぐ代わって、当の白石が勤めていたナイキジャパンをやめて独立する決意をしたため、白石を迎え、新宿南口の事務所は玄関を入って左に行くとトレーナールーム(鍼灸治療院)、真っすぐ進むとスポーツライターの書斎というふたつの顔を持つようになった。
ソウル五輪で2個の金メダル獲得の一翼を担った
正式に白石宏トレーナーの相棒になって、ヒーロー工房は思っていた以上の刺激的な成果を上げることになる。
最初の大きな成果はソウル五輪(1988年)だ。
パスの関係で選手村に入れない白石のために、僕はソウル市内のホテルを予約し、同行した。そこに選手村から水泳の鈴木大地選手、柔道の斉藤仁選手らが通ってきた。
二人とも金メダルを獲った。ソウル五輪で日本が獲得した3つの金メダルのうち、2つに貢献できた。そう書くと簡単な話になるが、それは、スポーツ界の中心人物にさえ存在が認められない、欧米型のアスレチック・トレーナーの意義をアピールする貴重な出来事でもあった。加えて白石は、鍼治療という武器を持っていた。テーピングやマッサージといった欧米のトレーナーの役割に加えて、治療のできる日本的なトレーナー像は世界でも画期的なスタイルだった。しかし、既存のスポーツ界の制度や企業と密着した組織は、新参者をすぐに歓迎してはくれなかった。つまり、2個の金メダルは、白石トレーナーとヒーロー工房の意地と提言の結実でもあった。
伝説のヒーロー工房は「歴史の幻の彼方」へ消えつつある
選手が求めるトレーナーが選手村に入るのでなく、協賛企業のトレーナーにパスが渡される組織の現実。白石トレーナーの価値や力量が理解されず、評価もされない現実が日本のスポーツ界にはあった。
ソウル五輪で白石とヒーロー工房が成し遂げたのは、金メダルの陰の力になった成果を通して、選手にとってトレーナーが重要だという認識を高めたことだ。そして、白石に触発されてトレーナーを志す大学生がたくさん現れ、後のトレーナー制度普及の礎になった。
ソニー企業をはじめ、岩崎を抜擢したNECなど、トレーナー制度の普及と確立に尽力した企業はいくつもある。その中で、白石トレーナーとヒーロー工房が一定の役割を果たしたことは紛れもない事実だが、いまとなっては、それを語り継ぐ人もいるのかいないのか。時代の流れとはそんなものかと、観念する思いだが、ほんの少し心によぎる空しさが、もう当たり前のことで、それほど尾を引いているわけでもない。(続く)
