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【短編小説】#3 「続・レンタルこども事務所」(後編)

第3話 『水先案内人を探せ!』

「彼らを守るための、これが唯一の隠蔽だ。大人しく、そこを離れろ」

内治局の男が言い終えた直後、船底から突き上げるような振動が走った。折り畳み椅子の脚が床を滑り、長机に積まれていた青いファイルが次々に落ちていく。天井の蛍光灯が大きく揺れたあと、船内を満たしていた低いエンジン音が、不意に途切れた。

「エンジンが止まったの?」
「ただの減速ではないわ。補助機関へ切り替わる音も聞こえない」
「予定にない停止だ」

菜月がタブレットを開くのと同時に、船内放送を知らせる電子音が鳴った。わずかに上ずった女性の声が、窓のない《C―17》の研修室まで届く。

『乗客の皆様にお知らせいたします。本船は機関部の不具合により、一時的に航行を停止しております。安全に問題はございませんので、そのまま船内でお待ちください』

内治局の男は胸元の無線機で部下を呼び続けていたが、返ってくるのは激しい雑音だけだった。無線機を握る手が、わずかに強張っている。

「あなたたちが仕組んだんじゃないの?」

菜月が疑いを向けると、男は無線機から目を離さずに答えた。

「我々がこの船を止めて、何の得がある」

綾火は壁際に置かれていた船内用の無線機を拾い、受信周波数を一つずつ切り替えた。子ども案内係として渡されたものではなく、先ほどまでここにいたスタッフが置き忘れたらしい。

激しいノイズの向こうから、船員たちの声が断片的に聞こえてくる。

『主機、再始動できません』
『原因の特定を急げ。救援要請は送ったのか』
『送信済みです。本部からの返答を待っています』

突然の故障へ対応する船員同士の連絡に聞こえた。綾火がさらに周波数を動かすと、短い電子音のあと、それまでとは違う低い声が割り込んだ。

『責任者へ。通常計画の続行は困難です。抽選会の開始にも遅れが出ています』
『代替手順へ移行する』
『まだ保護者も本船に残っています』
『予定外の停止だが、第一便は待機済みだ。状況を利用しろ』

内治局の男の眉が、わずかに動いた。無線機へ顔を近づけ、今の声をもう一度確かめようとしたが、通信はそこで切れてしまった。

「今の声、あなたたちの人?」
「違う。我々は船を待機させていない」

男は別の回線を呼び出したものの、何度呼びかけても応答はなく、雑音だけが研修室へ流れ続けた。

「内治局も、何も知らされてなかったの?」

曜が尋ねても、男は答えず、雑音しか返さない無線機を強く握った。

「通常計画って何?」

菜月は事前に保存していたスタッフ用の進行表を開き、予定されていた催しを上から確認していった。

「今夜八時から、海外留学生を選ぶ特別抽選会がある。参加した子どもたちの中から数人を選び、学費も生活費も国際財団が負担する企画よ」
「抽選なんかじゃない」

壁際に座っていた少年が顔を上げた。膝の上に広げていたゲーム用紙には、数字や矢印とともに、何人もの子どもの名前が細かな字で書き込まれている。

「僕たちは、船に乗る前から決められてた」
「どういうこと?」
「いろんな遊びをやらされたんだ。僕は、相手が次に何をするか考えるゲームを何度もやった。終わったあと、大人たちが点数をつけてた」

少年は研修室にいる子どもたちを順番に見た。菜月は、トランプや反射神経ゲーム、言葉当て遊びとして行われていた催しを思い返し、タブレットを握る指へ力を込める。

「交流イベントのふりをして、能力を調べていたのね」

曜のそばにいる外国籍の女の子が、小さくうなずいた。彼女は言葉を探すように唇を動かしたあと、自分の胸へ手を当てる。

「みんな笑ってた。でも、うれしい笑いじゃなかった」

曜には、その感覚が分かった。大勢の中で自分だけを見られている息苦しさ、優しい顔をした大人に価値を測られ、知らないうちに行き先まで決められていく怖さを、この子は誰よりも早く感じ取っていたのだ。

再び電子音が鳴り、船内放送が流れた。

『乗客の皆様にお知らせいたします。本船の安全確認に時間を要するため、救援船による移乗を行います。最初の救援船には、安全上の配慮から、海外留学候補のお子様を優先してご案内いたします』

青いカードを首から下げた子どもたちの表情が、一斉に強張った。

『二隻目、三隻目も順に到着いたしますので、保護者の皆様は船内でお待ちください。係員の誘導に従い、落ち着いて行動してください』

聞く者を安心させる言葉ばかりが、穏やかな声で並べられていた。綾火は無線機を耳へ押し当てたまま動かず、菜月も放送が始まった時刻を確かめている。

「早すぎるわ」
「何が?」
「救援要請が出たのは、今の無線を聞く限り数分前よ。近くに待機していなければ、もう到着するはずがない」

内治局の男は職員に防火扉のロックを解除させ、通路の丸窓へ向かった。曜たちもあとを追うと、暗い海の向こうから白い灯りを掲げた中型船が、波を切りながら近づいてくるのが見えた。

大型客船に比べれば小さいものの、数十人を運ぶには十分な大きさだった。船は進路を迷う様子もなく、《ブルー・ホライズン号》の右舷側へ回り込み、貨物搬入口を目指している。

ゲーム用紙を持っていた少年が窓へ近づき、船の動きを見つめた。しばらく目で追ったあと、不安そうに首を振る。

「あの船、最初から貨物口へ来るって決めてたみたいだ」
「どうしてそう思うの?」
「この船の人と相談してる感じがしない。迷わず、まっすぐ向かってきてる」
「救助会社の名前も書かれていないわ」

菜月がタブレットのカメラで船尾を拡大したが、船内の通信はすでに遮断され、船体番号を調べることができない。

内治局の男は上着の内側から、折り畳み式のアンテナが付いた端末を取り出した。

「衛星回線を使う」
「貸してください」
「局の専用端末だ。通信はすべて記録される」
「記録が残れば、この子たちを隠せなくなりますね」

菜月の視線を受け、男の指が止まった。迷った末に端末のロックを解除し、そのまま菜月へ差し出す。

「圭太へつなげ。番号は登録されている」
「どうして、おっちゃんの番号を知ってるんですか」
「あの男は、こちらが拒否しても連絡を寄越す」

菜月が発信すると、数回の呼び出し音のあとに圭太の声が聞こえた。

『無事か』
「今から船体番号を送る。救援会社の船か調べて」
『分かった。見える部分を全部撮れ。船名、番号、旗、何でもいい』

マリの声が遠くから割り込んだ。

『圭太、船会社の検索は私がやる。あんたは関係機関へ連絡して!』
『分かってるよ。怒鳴るな』
『子どもたちが船底にいるのに、怒鳴らずにいられると思う?』

曜は張り詰めていた息を少しだけ吐き出した。菜月は中型船の映像を送り、圭太へ無線で聞いた内容を短く伝える。

船体の外側から重い金属音が響き、防舷材のぶつかる衝撃が床を伝ってきた。上階では大勢の足音が行き交い、船員たちの慌ただしい声も近づいている。

綾火の無線機から、さらに別の指示が流れた。

『留学候補児童には識別カードを着用させ、右舷四番通路へ誘導せよ』
『保護者が同行を求めた場合は』
『二便目で合流すると伝えろ。最初の移送が終わるまで、保護者は本船から出すな』

しばらくして、衛星端末から圭太の声が返ってきた。

『海保へ照会した。あの船は正規の救援船じゃねえ。海外の民間貨物会社が所有していて、日本側の救助船登録にも入っていない』
「どこへ向かうつもりなの?」
『そこまでは分からねえ。ただ、行き先も言えない船へ、子どもだけを乗せる理由は一つもない』

外国籍の女の子は曜の袖から手を離し、自分の首に下げられたカードを見つめた。青い縁取りのカードには、参加番号と小さな星印が印刷されている。

菜月が研修室を見回すと、集められた子どもたちは全員、同じ青いカードを身につけていた。

「留学候補者の目印……」
「抽選会は、まだ始まってないのに」
「候補じゃない。僕たちは、もう決められてるんだ」

少年が言った直後、防火扉の向こうから複数の足音が近づき、電子ロックが解除された。濃紺の制服を着たイベントスタッフたちが入室し、先頭の男が子どもたちへ笑顔を向ける。

「お待たせしました。皆さんには、安全な救援船へ移っていただきます。保護者の方々は二隻目で合流しますので、安心してください」
「二隻目は、いつ来るの?」
「間もなく到着します」
「船の名前は?」
「詳しい説明は移乗後に行います」
「どこの救助会社?」

菜月が問いを重ねると、男の笑顔がわずかに固まった。

「君たちはボランティアスタッフですね。ここから先は大人に任せ、上の階へ戻りなさい」

男が一歩進むと、外国籍の女の子が曜の背中へ隠れ、ほかの子どもたちも壁際へ下がった。スタッフの一人が腕時計を見て、仲間へ鋭い視線を送る。

「時間がない。連れていけ」

男たちの笑顔が消え、一斉に子どもたちへ手が伸びた。その前へ内治局の男が割って入り、低い声で命じる。

「移乗を中止しろ」
「内治局には、今回の件へ介入しないよう通達が出ているはずです」
「我々が受けたのは、対象児童を船内で保護しろという命令だ。行き先を伏せた民間船へ引き渡せとは聞いていない」
「これは正規の救援活動です。保護者の同意も得ています」
「同意を得たのは留学への参加だ。保護者を残した洋上移送ではない」

男は無線機へ一度だけ目を落とし、顎へ力を入れた。

「局へ報告されていた内容と違う」

スタッフの表情が初めて揺れた。内治局の男は背後の曜たちへ視線を向けず、作業通路を顎で示す。

「反対側から上へ行け。ここは止める」
「あなたたちは、動けないんじゃなかったんですか」
「命令のために、この子たちを渡す気はない」

男は目の前のスタッフの腕を掴み、そのまま壁へ押さえつけた。背後の内治局員たちも一斉に動き、狭い研修室でもみ合いが始まる。

「行け!」

綾火が子どもたちを先導し、研修室の奥にある作業通路へ走り出した。曜は外国籍の女の子の手を握り、菜月と少年を追いながら、衛星端末を耳元へ寄せる。

『移乗者を管理している場所を探せ。誰を最初の船へ乗せるか、船内のどこかで指示しているはずだ』
「中央管理室は一つ上のデッキ、右舷側よ。この通路の先に非常階段がある」
「管理室の前には警備員がいるはず。正面から入るのは無理よ」

通路の奥から靴音が響き、詠土が足を止めた。耳を澄ませたあと、左側の細い通路を指す。

「右から何人か来る。左へ回ろう」

全員が掃除用具庫の陰へ身を寄せると、直後に複数の警備員が右側から走り抜けていった。少年はその背中を見送り、ゲーム用紙を胸へ押しつける。

「僕、人が次に何をするか考えるのが好きだった。でも大人は、その力で知らない人を出し抜けるって言った」
「嫌なら断ればいいじゃない」
「断ったら留学できない。家族へ渡すお金もなくなるって」

少年の声が小さくなった。曜は走る速度をわずかに緩め、その横顔へ話しかける。

「行きたいかどうか、まだ分からなくてもいいと思う」
「分からないままでいいの?」
「僕も学校へ戻りたいのか、まだ分からない。でも、分からないことを、戻りたいって決めたことにされたくない」

少年は曜を見上げ、少し考えたあとにうなずいた。

中央管理室の前には、予想どおり二人の警備員が立っていた。扉は船員証を読み取らなければ開かず、綾火が持つ子ども案内係の名札では通れそうにない。

外国籍の女の子の呼吸が、急に浅くなった。走り続けた疲れと、目の前に立つ大人への恐怖が重なり、胸元を押さえながら小さく息を吸っている。

「大丈夫?」

曜が声をかけても、女の子は答えられなかった。綾火はその手を取り、警備員の前へ進み出る。

「この子、息が苦しそうなんです。医務室へ連絡してください」
「ここは管理区画だ。案内所へ戻りなさい」
「そこまで歩けません。船内電話だけでも使わせてください」

一人の警備員が女の子の顔色を確かめ、胸元の無線機を操作した。しかし雑音しか返らず、舌打ちしながら管理室の扉へカードをかざす。

「中の端末から医療担当を呼ぶ。案内係とその子だけ入れ」

綾火は女の子の背中を支え、警備員とともに室内へ入った。もう一人は廊下へ残り、曜たちを扉から遠ざけようと片手を上げる。

そのとき、通路の反対側から詠土が英語で呼びかけた。

『Excuse me! A little girl is crying near the stairs! She's looking for her parents!』
すみません! 階段の近くで小さな女の子が泣いています! お父さんとお母さんを探しているそうです!

警備員が振り返ると、詠土は階段の方向を指し、日本語で言い直した。

「保護者を捜して泣いている子がいる。案内係が一人もいないそうだ」
「今は手が離せない」
「一般の乗客が集まり始めている。このままでは騒ぎになるぞ」

警備員は周囲を見回し、目立つ騒ぎを避けるためか、詠土の示した方向へ足早に向かった。

室内では、警備員が医療担当へ状況を伝えながら通信端末へ向かっている。綾火は女の子を椅子へ座らせ、扉が閉まる直前に外へ片手を伸ばした。

菜月がその手を掴み、曜とともに室内へ滑り込んだ。警備員が振り返り、菜月の腕へ手を伸ばす。

「誰が入っていいと言った!」

曜は警備員の脇へ身体を入れ、菜月から引き離すように押し返した。綾火も反対側から腕を押し、警備員を開いた扉の方へ追いやる。

廊下で待っていた少年が扉の隙間へ身体を滑り込ませると、三人で警備員を外へ押し戻した。詠土も駆け戻り、警備員が体勢を立て直す前に固定具を扉の隙間へ差し込む。

「ここは拙者に任せてもらおう」
「今だけは時代劇みたいに言わないで!」

綾火が固定レバーを下ろすと扉が閉まり、二人の警備員が外から激しく叩き始めた。菜月は中央端末へ駆け寄り、綾火は監視カメラと船内放送の操作盤を確かめる。

外国籍の女の子は椅子へ座り込み、まだ浅く速い呼吸を繰り返していた。曜が背中へそっと手を添えると、少女は何度か小さく息を吐き、乱れていた呼吸を少しずつ取り戻していった。

モニターには、右舷四番通路へ並ばされた子どもたちが映っていた。青いカードを首から下げた子どものそばで、保護者たちは不安そうに手を振り、係員の説明を聞いている。  

「お母さんたち、何も知らないんだ」

画面の中で、母親が子どもを何度も抱きしめていた。スタッフは二隻目で必ず会えると繰り返し、母親の肩へ手を添えながら、子どもの背中を移乗口へ押し出している。

「あの人たち、本当に助けてるつもりなのね」

綾火が唇を噛む横で、菜月は留学候補者の一覧を開き、続いて緊急時の運用表へ目を移した。

画面には、《第一便完了まで保護者は本船待機》《第一便離脱後、移乗口閉鎖》《非移送者は本船復旧まで待機》という短い指示が並んでいる。さらに最下部には、《対象者データは第一便システムへ移管後、本船端末から消去》と記されていた。

「第一便へ移したあと、この船から記録を消すの?」

曜が画面を覗き込むと、菜月は隣に表示された運航表を開いた。そこには第一便の船体番号と予定航路だけがあり、二便目の船名も、到着時刻も記されていない。

「第一便が離れたら移乗口を閉じて、子どもたちの情報は向こうの船へ移す。保護者は機関が直るまで、ここで待たせる」
「二便目は?」
「どこにもない」

菜月が画面を下まで確認しても、新たな船の情報は出てこなかった。

「少なくとも、今ここへ来る二便目は用意されていない」

菜月の声に、誰もすぐには答えなかった。

「この画面を船内モニターへ出せる?」
「会場用の映像回線なら、ここからつながってる」

綾火は操作盤の端に並ぶ入力切替を確かめた。子ども案内係として舞台裏を回ったとき、抽選会の進行用パソコンから各フロアの画面へ映像を送る様子を見ていた。

「菜月、必要なところを順番に開いて。私が会場へ送る」
「外部にも残したい」
『画面を撮って、こっちへ送れ。外へ届けるのは俺たちがやる』

圭太の声を聞き、菜月は衛星端末のカメラを構えた。データ移管後の本船端末消去、第一便しか登録されていない運航表、保護者の待機指示を順番に撮影し、送信を始める。

一枚目が送られ、二枚目の送信表示が半分を越えたところで、室内の照明が消えた。赤い非常灯が点灯し、中央端末には管理者による遠隔停止を知らせる表示が現れる。

「向こうから切られた」
「あと一枚!」

菜月が最後の画面を開き、衛星端末のシャッターを押した。直後、中央端末の表示が消える。

衛星端末には送信中の表示が残り、数秒後、圭太の声が返ってきた。

『三枚とも受け取った。こっちで保存して、関係機関へ送る』
「候補者の名前は?」
『最初の画面に一部入ってる。今はそれで十分だ。船の中では、お前たちが保護者へ見せろ』

そのとき、固定していた扉が大きく歪んだ。外から工具を使い、無理やりこじ開けようとしている。

「移乗開始まで、あとどれくらい?」
「船を固定する音が止まった。もう始まると思う」

少年は貨物口から響く作業音へ耳を澄ませて答えた。菜月は衛星端末を握り、船内図へ視線を落とす。

「保護者全員へ知らせる」
『船内放送が使えないなら、抽選会の舞台へ行け。メイン会場には予備電源のマイクがある』
「ここから会場まで遠い」
『上には明日香と金充がいる。二人へ連絡する』

衛星端末へ別の音声が入り、明日香の不機嫌そうな声が聞こえた。

『こっちはずっと待ってるんだけど。マヨネーズも残り一袋しかないから、早くして!』
「明日香、レセプション会場の舞台へ行って。抽選会用のマイクを使って、保護者を会場から出さないで」
『何を話せばいいの?』
「子どもだけを先に船へ乗せようとしてるって伝えて」
『明日香ちゃん、僕がまた泣こうか?』
『泣かなくていい。今度は私がしゃべる』

明日香の声が少し低くなった。

『大人たちが子どもを置いていけるなら、置いていった大人を私が集める』

管理室の扉がさらに大きく軋み、固定レバーが外れかけていた。綾火は壁の下にある保守点検口を開ける。

「ここなら会場の裏へ出られる。大人には狭くても、私たちなら通れる」

暗い点検通路へ、綾火、菜月、外国籍の女の子、少年、詠土、曜の順で入った。背後で管理室の扉が破られる音を聞きながら、機械油の匂いがこもる鉄板の中を、肘と膝で進んでいく。

狭い通路では身体の向きを変えることも難しく、肘や膝が鉄板へ当たるたびに鈍い音が響いた。それでも、後ろから迫る怒声を聞けば、立ち止まるという選択はなかった。

レセプション会場の裏手へ出ると、機関停止の最中とは思えないほど華やかな音楽が流れていた。明るい舞台の上では、明日香が抽選会用のマイクを両手で握っている。

「皆さん、聞いてください!」

小学一年生の声へ耳を貸す大人は少なく、司会者は笑顔で明日香へ近づいた。

「さあ、お嬢ちゃん。危ないから舞台を降りようね」

金充が舞台袖から飛び出し、もう一本のマイクを掴んだ。

「僕たちの友達が、知らない船へ連れていかれます!」

会場がざわめいた。司会者は笑顔を保ったまま、金充のマイクを下げようとする。

「子どもたちは突然の事故で混乱しているようです。皆様は係員の指示に――」

明日香が抽選箱を抱え、舞台の中央へ引きずり出した。箱の中からいくつかの球を取り出し、観客席へ向けて掲げる。

「これ、全部に同じ印があるんだけど」

数字はそれぞれ異なっていたが、一部の球には同じ場所へ小さな黒い点が付いている。金充は舞台袖に置かれていた別の袋を持ち上げ、その中身を床へ転がした。

「司会の人、この印がついた球だけ、こっちの袋から箱へ入れてたよ」
「見ていたの?」
「僕、舞台袖で寝たふりしてたから」

司会者が袋を取り返そうとしたが、明日香は抽選箱を抱えたまま一歩下がった。

「当てたい番号の球だけ、印で見分けてたんでしょ」

保護者たちの間から驚きの声が上がった。

「抽選用の管理印です。留学候補のお子様は安全のため、すでに救援船へ――」
「その船は、救助会社の船ではありません!」

菜月が会場へ駆け込み、衛星端末を高く掲げた。曜たちの後ろには、《C―17》に集められていた子どもたちが続いている。

「抽選は最初から決められていました。船が止まった場合は、子どもたちだけを第一便へ乗せ、保護者はこの船へ残す計画です」
「子どもたちの情報は、第一便へ移したあと、この船から消す指示がありました!」

曜が続けると、会場のあちこちから声が上がった。何が起きているのか分からず立ち尽くす保護者もいれば、スタッフへ説明を求める者、まだ主催者の言葉を信じようとする者もいる。

詠土は舞台の前へ進み、外国人保護者たちへ英語で呼びかけた。

『There is no registered second rescue boat. The children’s data will be removed from this ship after the first boat leaves. Do not let them take your children away.』
皆さん、聞いてください! 二便目の救助船はありません! 第一便が出ると、この船から子どもたちの記録は消されます! お願いです、子どもたちを連れて行かせないでください!

反対側にいたフランス語圏の家族へ向き直り、同じ内容をフランス語で伝えた。保護者たちは詠土へ聞き返し、青いカードを下げた子どもや抽選球を見比べながら、少しずつ表情を変えていく。

VIP席にいた国際財団の代表が立ち上がり、穏やかな笑顔を崩さず舞台へ近づいてきた。

「子どもの思い込みで、乗客の皆様を混乱させないでいただきたい」
「思い込みではありません」

菜月が衛星端末の画面を向けた。そこには、《対象者データは第一便システムへ移管後、本船端末から消去》という指示が映っている。

「第一便へ移したあと、どうしてこの船から子どもたちの情報を消すんですか」
「個人情報を複数の端末へ残さないための処置です。移送先の管理システムには正しく保存されます」
「二便目の船名も到着時刻もありません」
「機関停止のような緊急時には、すべての船名を事前登録できるとは限りません。これは未成年者の安全を優先した暫定計画です」
「だったら、保護者と一緒に乗せればいい。どうして子どもだけなんですか」

菜月の問いに、財団代表は笑顔を保ったまま視線を細めた。

「船の定員と救助の優先順位による判断です」
「子どもを優先するのに、親へ行き先も教えないんですか?」

会場の保護者たちから、さらに大きな声が上がった。

その間に、綾火は舞台袖の進行用パソコンへ向かった。子ども案内係として事前に舞台裏を案内された際、抽選会の資料や映像をこのパソコンから大型スクリーンへ送るところを見ていた。

「菜月、端末を貸して」
「映せるの?」
「リハーサルで見た手順と同じなら」

菜月から衛星端末を受け取った綾火は、進行用パソコンへ画像を取り込み、リハーサルで見た手順どおり大型スクリーンへ切り替えた。

対象者データを本船端末から消去する指示が、会場いっぱいに映し出される。続いて、第一便しか記載されていない運航表と、保護者を本船へ残す指示が表示された。

会場のあちこちで、保護者たちが自分の子どもの姿を捜し始めた。青いカードを下げた子どもが近くにいないと気づき、出口へ向かおうとする者もいる。スタッフはその場へ留まるよう繰り返したが、疑いを抱いた視線をもう元へ戻すことはできなかった。

衛星端末のスピーカーから、マリの声が会場へ流れた。

『この資料はすでに関係機関へ送信しました。船内の端末から削除されても、こちらに記録が残っています』

続いて圭太の声が響く。

『あとは船の中にいる大人たちが、自分の目で見て決めろ』

財団代表はスクリーンを見上げたまま、耳元の通信機へ手を伸ばした。表情を崩さず、周囲には聞こえないほど低い声で何かを告げる。

右舷側から金属扉の開く音が響いた。移乗口に残された子どもたちを、スタッフが中型船へ連れ出そうとしている。

「右舷へ行く!」

曜が走り出すと、外国籍の女の子がその手を掴んだ。足はまだ震えていたが、今度は曜の背中へ隠れなかった。

右舷四番通路には、数人の子どもたちが並ばされていた。保護者は柵の向こうで係員へ詰め寄り、中型船へ渡された細い連絡橋の先では、黒い服を着た男たちが待っている。

「救援船への移乗を続けます。お子様の安全を最優先にしておりますので、保護者の皆様は船内で――」
「行きたくない子を、連れていかないでください!」

曜の声が通路へ響いた。スタッフも保護者も一斉に振り返り、大勢の視線を浴びた瞬間、喉の奥が乾き、足から力が抜けそうになった。

逃げ出したい気持ちは消えていない。それでも、隣にいる女の子の手は、曜よりも強く震えている。曜は息を吸い、丸まりかけた背中を伸ばした。

「この子たちは、本当に留学したいって言ったんですか」
「保護者の同意は得ています」
「本人は?」

スタッフは答えなかった。

「断ったら誰かを困らせると思ってる子もいる。期待されて、嫌だと言えない子もいる。行きたいかどうか、まだ分からない子だっています」

曜は隣にいる女の子へ目を向けた。

「分からないことを、行きたいって決めたことにしないでください」

女の子は連絡橋の先にいる男たちを見つめ、曜の手を握ったまま、ゆっくり首を横へ振った。

「行かない」

小さな声だった。それでも、隣に並んでいた少年が青いカードを首から外した。

「僕も、今は行かない」

その隣にいた少女も、青いカードを床へ置いた。

「学校の名前も知らないから、行かない」

最初に動いたのは、一人の母親だった。柵の向こうから自分の子どもの名前を呼び、係員の制止を振り切って手を伸ばす。

「帰ってきなさい。留学のことは、家に帰ってからもう一度話そう」

子どもが列を離れると、母親はその身体を強く抱きしめた。隣にいた父親が迷った末に柵の留め具を外し、ほかの保護者へ道を開ける。

外国人の父親が詠土へ何度も問いかけた。

『本当に、二隻目は登録されていないのか』
『はい。子どもたちの情報を第一便へ移したあと、本船から消す指示もあります』

父親は自分の娘へ向き直り、短く何かを尋ねた。少女が泣きながら首を横へ振ると、その父親も列へ入り、娘の手を取った。

それを見た別の母親が前へ出た。まだ何を信じればよいか分からず立ち尽くしていた保護者たちも、子どもへ一人ずつ意思を確かめ始める。

「本当に行きたいの?」
「帰りたい?」
「怖いなら、もう乗らなくていい」

子どもたちが次々に列を離れ、保護者のもとへ戻っていった。人の流れはゆっくり広がり、やがて連絡橋の前を塞ぐほどになった。

スタッフが一人の少女の腕を掴もうとすると、母親がその手を払い、父親たちが間へ入る。船員たちも、保護者を押しのけてまで移乗を続けることはできず、互いに指示を求めて立ち止まった。

そこへ内治局の男たちが駆け込んできた。

「児童への接触をやめろ」

財団代表が通路へ現れ、声を低くした。

「局の命令に背くつもりですか」

内治局の男は胸元の身分証へ一度だけ触れ、連絡橋の先にいる男たちを見据えた。

「命令には従う。外国籍船への児童移送について、安全確認が終わるまで停止する」
「あなたに、そんな権限はない」
「権限の有無は局へ確認してもらう。それまでは一人も出さない」

内治局員たちは連絡橋の前へ並び、保護者たちと中型船の男たちの間を遮った。すでに子どもたちは家族のもとへ戻り、誰も橋を渡ろうとはしていない。

偽の救援船は接舷を諦めたように連絡橋を引き戻し、《ブルー・ホライズン号》から離れ始めた。

「逃げるぞ!」

船員の一人が叫び、内治局の男が衛星端末を受け取った。

「船体番号と進行方向を送れ」
『もう関係機関へ送ってある。海上保安庁も向かってるが、到着まで少しかかる』
「それまで追跡できる船は?」
『客船側では無理だ。機関が止まってる』

暗い海の上で、中型船は徐々に距離を広げていった。保護者たちは子どもを抱き寄せながら、不安そうにその灯りを見つめている。

数分後、遠くの海面に強い白光が現れた。低い汽笛が響き、海上保安庁の巡視船が近づいてくる。

衛星端末から圭太の声が届いた。

『今度のは本物だ。船体番号も所属も確認した』
『遅いわよ。子どもたちはもう戻ってる』
『逃げ道を塞ぐのは、大人の仕事だろ』

巡視船の照明が中型船を捉え、拡声器から停止命令が響いた。

夜明け前、《ブルー・ホライズン号》は応急処置を終え、巡視船に付き添われながら横浜港へ戻った。財団関係者と船員への事情聴取が始まり、機関停止についても、事故なのか人為的な操作なのかを含めて詳しく調べられることになった。

海外から参加していた子どもたちには通訳と第三者の支援団体が付き、留学の意思や契約内容を一人ずつ改めて確認することになった。

外国籍の女の子は、迎えに来た女性のもとへ向かう前に曜の前で立ち止まった。何かを言おうとして迷ったあと、曜の耳元へ顔を近づけ、自分の名前を小さく囁く。

曜は聞き返さず、その名前を胸の中で一度だけ呼んだ。

「覚えてるから」

女の子は初めて安心したように笑い、迎えに来た女性と手をつないで歩いていった。

大さん橋へ降りると、圭太とマリが待っていた。マリは真っ先に綾火を抱きしめ、その身体に怪我がないことを確かめる。

明日香は疲れ切った顔で圭太の前へ手を出し、隣にいる金充も同じように手のひらを向けた。

「マヨネーズ代」
「僕の号泣演技代も」
「助かった直後に請求書を出すな!」

圭太が頭を抱えると、張り詰めていた空気がようやく緩み、子どもたちの間に笑いが広がった。

少し離れた場所で、曜は朝日に照らされた客船を振り返った。昨日は眩しいほど白く見えた船体が、今は長い夜を越えた疲れを抱え、静かに岸へ寄り添っている。

圭太が曜の隣へ立ち、その背中を軽く叩いた。

「どうだった、シャビーの仕事は?」
「仕事で国家機関と国際犯罪に巻き込まれるなんて、聞いてないよ」
「いい経験になっただろ」
「二度と豪華客船には乗らない」
「そうか。次は飛行機かもしれねえな」
「絶対に嫌だよ!」

曜が思わず大きな声を上げると、圭太は腹を抱えて笑った。昨日までの曜なら、大勢が振り返るような声を出すことなどできなかったかもしれない。

知らない人に見られれば今も胸は苦しくなり、何もかも投げ出して逃げたくなる。それでも、あの船の上には、自分の声を待っている子がいた。

曜は丸まりかけた背中を、ほんの少し伸ばした。

朝日に照らされた大さん橋を、小さな足音が横浜の街へ続いていった。

(第3話 おわり)

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