【短編小説】#4 「続・レンタルこども事務所」
第4話『病院のお引越し』


朝六時半、レンタルこども事務所《シャビー》のワゴン車が総合病院の正面玄関へ着いたとき、曜はそこが本当に病院なのか一瞬分からなかった。玄関前には患者搬送車とトラックが並び、ストレッチャーや段ボール、台車に載せられた医療機器が、白衣や作業服の人たちの間を絶え間なく行き交っている。いつもの病院なら静かに人を迎える場所が、今日は巨大な引っ越しセンターのようだった。
築五十年以上になる病院は、この日一日をかけて同じ地域内に完成した新病院へ機能を移すことになっていた。壁には《第1便》《新病院・三階》《小児病棟》と色分けされた紙が貼られ、受付脇には大小の箱が積み上がっている。入口から奥を覗くだけでも、建物の中身が少しずつ外へ運び出されているのが分かった。
「病院って、引っ越せるんだな」
「建物ごと運ぶわけじゃないでしょ」
「杏、それくらい分かってる?」
「じゃあ何を運ぶの?」
「ベッドとか、機械とか……患者とか」
「最後だけ急に怖い言い方しないでよ」
五階建ての建物を見上げたまま一水が答えると、杏が呆れた顔をした。その隣では木陽が、車椅子の患者を乗せた搬送車を興味深そうに眺めている。曜にとっても病院の引っ越しなど初めてで、旅立ちにも見える光景の中に、普段とは違う緊張が混じっていた。
圭太は四人を玄関脇へ集め、薬や医療機器へ勝手に触れないこと、患者の搬送を手伝おうとしないこと、医師と看護師の指示を最優先にすることを確認した。
「じゃあ私たち、何するの?」
「小児病棟の子どもたちの相手だ」
「それだけ?」
「それだけをちゃんとやれ。今日は医者も看護師も移転作業で手いっぱいだ。待っている子が不安になったり、退屈して勝手に動き回ったりしないようにする」
「簡単じゃん」
「今ので急に不安になった」
「なんでよ?」
マリが即座に返すと、杏は頬を膨らませた。圭太は笑わず、今日は遊びではなく仕事として子どもたちと向き合うのだと、もう一度だけ念を押した。
小児病棟へ上がると、そこもすでに半分だけ別の場所になっていた。掲示物はところどころ剥がされ、ナースステーションの棚には空いた場所が目立ち、病室の入口には患者ごとの移送時刻が貼られている。看護師たちは腕時計と移送表を交互に確かめながら、短い言葉で指示を飛ばしていた。
師長から説明を受けている途中、一水の視線が若い看護師のところでぴたりと止まった。段ボールを二箱抱えようとしているのを見るなり、さっきまで眠そうにしていたことなど忘れたように駆け寄っていく。
「持ちます」
「え、大丈夫?」
「こう見えて力ありますから」
「さっき車で、朝早すぎるってずっと文句言ってたよね?」
「人間には心境の変化ってものがあるんだよ」
「五秒で変わったね」
「杏は黙ってて」
看護師が笑うと、一水は機嫌よく箱を運んでいった。年上のお姉さんが好きだとは聞いていたが、曜はここまで分かりやすいとは思っていなかった。
木陽は窓際にいた幼い女の子が落としたうさぎのぬいぐるみを拾い、そのまま隣へ座った。
「これも一緒に引っ越すの?」
「うん。うさちゃんも新しい病院」
「じゃあ一番荷物少ないね」
「お洋服あるよ」
「じゃあ僕より多いかも」
「新しい病院でも、うさちゃん置くところあるかな」
「なかったら作ればいいよ」
数分もしないうちに、女の子は木陽へぬいぐるみの名前まで教えていた。子どもにも大人にも最初から壁を作らないところは、木陽らしかった。
杏は待っている子どもたちを見回し、退屈していると分かると、いかにも自分の出番が来たという顔をした。
「みんな、今日ずっとここで待ってるの?」
「お昼まで」
「暇じゃない?」
「暇」
「でしょうね。こういうときは私がいないと盛り上がらないから」
「誰が決めたの?」
「クラス見てたら分かるでしょ。私が休んだ日、静かだったって言ってたじゃん」
「先生が授業しやすかったって言ってた」
「それ、褒めてない?」
同じクラスだからこその遠慮のない言い合いに、病室のあちこちから笑い声が起こった。杏は「ほらね」と得意そうに曜を見たが、曜は少し離れたベッドにいる男の子へ目を向けた。
小学四年生の楓太は、曜と同い年だった。ベッド脇には午後一時と書かれた移送票があり、身の回りの荷物もほとんど箱へ納められている。小児喘息で何度か入退院を繰り返していると聞いたが、本人は病気の話をされること自体が嫌らしく、曜が見ているだけで先に口を開いた。
「何?」
「別に」
「病人だからって気遣ってんの?」
「してない」
「ならいい。俺、そういうの嫌いだから」
「どういうの?」
「大丈夫? 苦しくない? 休む? って何回も聞かれるやつ」
「じゃあ聞かない」
「それはそれで冷たくない?」
「普通にしろって言ったじゃん」
「普通って何?」
「知らないよ」
二人は少し黙ったあと、同時に笑った。楓太の体調は朝から落ち着いており、予定どおりなら午後には新病院へ移ることになっている。本人も引っ越しを嫌がっている様子はなく、大掛かりな一日をちょっとしたイベントのように眺めていた。
昼前になると、最初の患者たちが順番に新病院へ向けて出発し始めた。移送時刻が決められているため、残っている子どもたちには待ち時間が生まれ、絵本も玩具もすでに箱へ入っている病室では時間を潰すものがほとんどない。時計を見る子が増えたころ、杏が椅子から立ち上がった。
「はい、限界」
「何が?」
「この空気。暇すぎる」
「病院なんだから静かな方がいいんじゃない?」
「今から一番面白い人を決めます」
「誰が審査するの?」
「みんな」
「杏が勝つまで終わらないやつじゃん」
「一水、やる前から負け惜しみ?」
挑発された一水まで加わり、木陽も病室の子どもたちに押される形で参加した。一水が圭太の眼鏡を押し上げる仕草を真似し、杏が担任教師の口癖を大げさに再現すると、病室の空気が一気に明るくなる。
木陽は「絶対に笑わない顔」をするだけでなぜか受け、曜まで引っ張り出されて、杏と学校での失敗談を暴露し合うことになった。
「体育で曜がボール避けたら、後ろの先生に直撃したんだよ」
「杏だってそのあと笑いすぎて転んだだろ」
「それは関係ない!」
「自分が言い出したんじゃん」
楓太もベッドの上で腹を押さえて笑っていた。その笑い声を聞くたび、曜たちも嬉しくなった。待ち時間を忘れさせることができているのだから、自分たちの仕事はうまくいっている。四人とも、いつの間にかそう思い込んでいた。
「もう……無理」
「じゃあ終わりにする?」
「いや、最後のやつだけ」
楓太自身が笑いながら手を振ったため、杏も「じゃあ本当に最後ね」ともう一つだけモノマネを続けた。もともと不安定だった呼吸に笑いが重なり、楓太の息の合間へ短い咳が混じり始めたが、本人もまだ笑っていたため、誰もすぐには異変だと気づかなかった。
二度目の咳は少し長く、三度目には笑い声が消えた。
「楓太?」
曜が声をかけると、楓太は大丈夫だと答えようとしたらしい。唇は動いたものの声にならず、肩が細かく上下し始めている。その顔から、さっきまであった笑みだけが抜け落ちた。
曜は椅子を蹴るように立ち上がった。
「看護師さん呼んで!」
一水が廊下へ走り、木陽が入口を開ける。駆け込んできた看護師は楓太の状態を確かめるとすぐ医師を呼び、曜たちには壁際へ下がるよう指示した。

そこから先は、四人にできることが何もなかった。医師と看護師が処置を続ける間、少し前まで笑い声に満ちていた病室には機器の音と短い指示だけが響き、曜たちは廊下で黙って待つしかない。
杏が、自分の指先を見つめたまま口を開いた。
「私が……」
「俺もやった」
「僕も」
「俺も止めなかった」
誰か一人のせいではないと分かっていても、気持ちが軽くなるわけではなかった。そこへ移転作業を手伝っていた圭太が戻ってきて、四人の顔と閉じた病室の扉を見比べた。
杏が先に頭を下げる。
「ごめんなさい」
「俺に謝ってどうする」
「でも……」
「お前たち、今日ここへ何しに来た?」
「子どもを楽しませに……」
「違う。仕事をしに来たんだ」
圭太は怒鳴らなかった。そのぶん、低い声が四人へまっすぐ届いた。
「楽しませるのはいい。ただ、相手が楽しんでるかじゃなく、自分たちが盛り上がってるかしか見えなくなったら、それは仕事じゃない」
「……はい」
「今度はちゃんと見ろ。何が必要なのか、自分で考えろ」
それ以上は責めず、圭太は病室の扉へ目を向けた。
しばらくして医師から、楓太の発作は落ち着いたと知らされた。大事には至らなかったものの、安全のため予定していた午後一時の移送は見合わせ、もうしばらく旧病院で経過を見ることになった。
楓太の時間だけが止まったように見える一方で、病院の引っ越しは待ってくれなかった。ほかの患者たちは予定どおり新病院へ向かい、一台、また一台とベッドが病室から消え、入口の名前札も外されていく。プレイルームの絵本や玩具も箱に収まり、壁に飾られていた子どもたちの絵まで一枚ずつ剥がされていった。
午前中まで人の声が重なっていた小児病棟から、少しずつ生活の音が抜けていく。床にはベッドの脚が残した跡、壁には掲示物を留めていたテープの跡だけが残り、最後に病室へ取り残されたのは楓太のベッド一台だった。
「すげえな」
「何が?」
「病院なのに、誰もいなくなってく」
曜も廊下へ目を向けた。人も荷物も減るたびに、さっきまで病院だった場所が、ただの古い建物へ近づいていく。
楓太は窓の外を見ながら、しばらく考えていた。
「古くなったから、新しいとこに移るんだよね」
「うん」
「じゃあさ、曜たちの事務所も古くなったら引っ越すの?」
「……どうだろ」
「みんな一緒に?」
「たぶん」
「新しい場所はあるの?」
「ないと思う」
「じゃあ、なくなったらどうすんの?」
曜は答えを探したが、すぐには出てこなかった。シャビーという名前が建物を指しているのか、圭太やマリや仲間たちが集まっている場所を指しているのか、これまで考えたこともない。
「分かんない。でも、建物が変わっても、みんな一緒ならシャビーなんじゃないかな」
「病院も?」
「それは……新しい方に行ってみないと分かんない」
楓太はそれ以上聞かなかった。
午後になると新病院側でも人手が足りなくなり、圭太とマリは一水、木陽、杏を連れて先に移動することになった。曜だけが旧病院へ残りたいと申し出ると、圭太は理由を聞いた。
「責任取るつもりか?」
「違う」
「じゃあ何だ」
「楓太、一人だから」
圭太はしばらく曜を見てから、医療スタッフの邪魔をしないこと、楓太の状態に変化があればすぐ看護師を呼ぶことを約束させた。
「あと、お前まで無理に喋らなくていい」
「え?」
「相手をするってのは、ずっと何かしてやることじゃない」
その言葉を残し、圭太たちは新病院へ向かった。
午後三時を過ぎるころ、旧病院は朝とは別の建物のように静まり返っていた。受付の職員はすでに新病院へ移り、待合室の長椅子も半分ほど運び出され、一部の診療区画では照明まで消されている。まだ人の声が聞こえるのは、楓太のいる小児病棟と、最後の撤収作業が続いている場所くらいだった。
そんな廊下を、一人の女性が歩いていた。
里帆、二十五歳。仕事を少し早めに切り上げ、父・マキオの見舞いへ来たのだが、玄関へ入った瞬間から妙な静けさを感じていた。いつもなら人が行き交う受付に誰もおらず、売店のシャッターも閉まり、廊下には台車が通った跡と、運び忘れたような小さな紙片しか残っていない。
父が入院していた病室まで上がり、恐る恐る中を覗くと、そこにあるはずのベッドはすでに運び出され、隣の病室も同じように空になっていた。廊下の先まで視線を伸ばしても人影はほとんどなく、壁に残ったテープの跡や床の擦れだけが、ついさっきまでここに患者や看護師がいたことを伝えている。
少し前まで父が入院していたはずの場所なのに、今は生活の気配だけがきれいに抜け落ち、病院そのものがひと足先にどこかへ行ってしまったようだった。里帆はスマートフォンを取り出して病院名と住所を確かめたが間違ってはいない。父へ電話をかけても、呼び出し音が静かな廊下に重なるだけで応答はなかった。
数日前、父と電話で交わした会話が蘇る。
「見舞いなんて来なくていいぞ! 事足りてるし、ネットもあるし、風呂にも入れる。コンビニにも自由に行けるし、不自由ないぞ」
「着替えとか必要じゃないの?」
「いらん、いらん。お前はお前のことだけ考えてろ!」
あそこまで言われれば、見舞いへ行かない方が父も気楽なのだと思うしかなかった。それでも入院していると聞けば気になり、結局こうして来てしまったのに、父どころか病院から人そのものが消えている。
里帆がもう一度、空になった病室を覗いたときだった。
「誰か探してるんですか?」
背後から声がして、里帆は驚いて振り返った。廊下の少し向こうに、小学生くらいの少年が立っている。

「え?」
「さっきから病室、ずっと見てるから」
「父のお見舞いに来たんだけど……人がいなくて」
「もう引っ越しましたよ」
「……誰が?」
「病院が」
「病院?」
「はい」
「病院って、引っ越すの?」
「俺も今日知りました」
里帆は数秒、曜の顔を見つめた。自分よりずっと小さな子どもから、まるで当たり前のように「病院が引っ越した」と説明されている状況が、あまりにも現実離れしていた。
「君は患者さん?」
「違います」
「じゃあ、なんでここにいるの?」
「仕事です」
「……仕事?」
「レンタルこども事務所です」
「ごめん、さらに分からなくなった」
里帆が思わず笑うと、曜も少しだけ笑った。
父の名前と入院していた病棟を聞いた曜は、旧病院に残っている看護師へ里帆を案内した。照会すると、マキオは昼過ぎの便で新病院へ移り、すでに新しい病室へ入っていることが分かった。
「よかった……」
里帆が胸を撫で下ろすのを見て、曜は尋ねた。
「移転するって聞いてなかったんですか?」
「私はね」
「お父さんは?」
「……たぶん知ってた」
里帆はそれ以上、父のことを説明しなかった。移転先が分かっても、すぐに足が向かなかったのは、数日前に言われた「来なくていい」がまだ耳に残っていたからかもしれない。
そこへ小児病棟から看護師が曜を呼びに来た。楓太が目を覚ましたらしい。
「俺、戻らないと」
「そっか。ありがとう」
「新病院、ここからそんなに遠くないですよ。場所は看護師さんが教えてくれます」
「うん」
里帆は曜が戻る方角へ目を向けた。空っぽになっていく病院で、同じ年頃の子が一人だけ残っていると聞くと、不思議と気になった。
「その子、一人なの?」
「今は」
「曜くんと同じくらい?」
「同じ四年生です」
里帆は少し迷ってから、会ってもよいかと尋ねた。曜は看護師へ確認を取り、短時間なら構わないと許可をもらった。
病室へ入った里帆を、楓太は怪訝そうな顔で見た。
「誰?」
「お父さんの見舞いに来たのに、病院ごと逃げられた人」
「ちょっと曜くん」
楓太が吹き出した。
「病院に逃げられたの?」
「笑わない。君、さっき笑いすぎて大変だったんでしょ」
「曜、言った?」
「少し」
「余計なこと言うなよ」
里帆はベッド脇の椅子へ腰掛け、自分の名前を名乗った。ほんの数分だけ話して父のところへ行くつもりだったが、気づけば二十分近く経っていた。
「里帆って、兄弟いるの?」
「いない。一人っ子」
「俺も」
「じゃあ家で喧嘩する相手いなかったんだ」
「ゲーム負けても全部自分のせい」
「それは兄弟いても自分のせいでしょ」
「弟いたら押しつけられるじゃん」
「最低だなあ」
楓太が笑うと、里帆もつられて笑った。少し咳が出た瞬間、里帆は反射的に顔を覗き込んだが、楓太はすぐに気づいた。
「大丈夫」
「何も聞いてないよ」
「顔が聞いてる」
「……面倒くさい子だね」
「病人扱いするなって曜にも言った」
「じゃあ普通にする」
「曜と同じこと言うなよ」
少し前に出会ったばかりなのに、里帆はずれた毛布を直し、楓太は水を取ってくれと平気で頼んでいる。曜は少し離れた椅子から二人を見ていたが、いつの間にこんな距離になったのかと、少しおかしくなった。
「自分で取れるでしょ」
「喘息の患者に冷たくない?」
「さっき病人扱いするなって言ったよね」
「そうだっけ」
「都合いいなあ」
里帆が呆れながら水を渡すと、楓太は当然のように受け取った。
そのとき、里帆のスマートフォンが鳴った。画面には父からの着信が表示されている。
「出ないの?」
楓太に言われ、里帆は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『お前、まさか見舞いに来てないだろうな』
「……来てないよ」
『そうか。それでいい。俺は何も困ってないからな』
「うん」
『仕事はちゃんと行けよ。俺のことで予定変えたりするな』
「分かってる」
『じゃあな』
電話が切れると、楓太がすぐ尋ねた。
「なんで嘘ついたの?」
「来るなって言われてるから」
「じゃあ、なんで来たの?」
「来るなって言われても、気になるものは気になるの」
「変なの」
「大人はそういうものなの」
「便利な言葉だな、それ」
里帆は苦笑した。
「そろそろ行くね。父のところ」
「怒られるんじゃないの?」
「たぶん」
「なら行かなきゃいいじゃん」
「怒られても会いたいから行く」
「ふーん」
楓太は興味がないふりをして窓へ顔を向けた。
里帆が病室を出ようとすると、
「またね」
と小さく言った。
「また会うの?」
「知らない」
「じゃあ、またね」
里帆が出ていったあと、曜が楓太を見る。
「また会いたいんじゃない?」
「うるさい」
楓太は窓の外へ顔を向けたままだったが、口元だけは少し緩んでいた。
新病院へ着いた里帆は、父の病室へ入った瞬間に怒鳴られた。
「お前! 来るなって言っただろ!」
「だから来てないよ」
「来てるだろ!」
「旧病院には行ったけど」
「同じことだ!」
マキオは六十歳とは思えないほど大きな声を出したあと、咳払いをしてベッドへ座り直した。
「仕事は?」
「終わらせてきた」
「無理してないだろうな」
「してない」
「飯は?」
「食べた」
「ちゃんと?」
「お父さん、私の見舞いしてる?」
マキオは黙った。
里帆はベッド脇に、見覚えのある古いマグカップが置かれているのを見つけた。何年も前に自分が贈った安物で、持ち手には小さな欠けまである。
「それ、まだ使ってたんだ」
「何が?」
「マグカップ」
「使えるからな」
「新しいの買えばいいのに」
「これで事足りてる」
里帆は一瞬だけ父を見たが、それ以上は何も言わなかった。
新病院の小児病棟では、一水、木陽、杏が届いた荷物を開いていた。真新しい壁と傷一つない床の中へ、旧病院から運ばれてきた古びた箱が次々と積まれている。
一水が台車を運んでいると、《処分》と書かれた荷物のそばに、見覚えのある箱が置かれていることに気づいた。朝、旧病院のプレイルームから運び出していた箱だった。
「これ、捨てるんですか?」
作業員が伝票を確かめ、首を傾げた。
「処分品のところに置いてあるけど……違うの?」
「これ、子どもたちの絵が入ってましたよ」
近くにいた看護師が中を確認すると、絵や折り紙、色あせた写真、使い込まれた壁飾りが詰まっていた。
「危なかった。これは新病院へ持っていくもの」
「新しい病院なのに、これも?」
「引っ越しだからね」
「新しいのに替えるんじゃないんですか?」
「全部捨てて新しくするなら、引っ越しじゃなくてもできるでしょ」
「……なるほど」
一水は箱を抱え直し、今度は誰に頼まれたわけでもなくプレイルームまで運んだ。
杏は箱の中身を見るなり、スマートフォンに残していた旧病院の写真を開いた。
「ここ、白すぎて落ち着かない」
「病院なんだから白いでしょ」
木陽が言うと、杏は絵を一枚取り出した。
「だから貼る」
「勝手に?」
「怒られたら剥がす」
木陽も箱から折り紙の飾りを取り出した。
「じゃあ僕これ」
「曲げないでよ」
「杏より上手いよ」
「は?」
二人は言い合いながら、真新しいプレイルームへ旧病院のものを少しずつ戻していった。一水も加わり、本棚や玩具の位置を整える。木陽は朝に会った女の子のうさぎを見つけると、窓際の小さな棚に場所を作って座らせた。
完全に同じ場所にはならなくても、全部が知らないものばかりではなくなっていった。
作業の途中、木陽は廊下へ目を向けた。新しく到着した子どもへ母親が駆け寄り、その横では父親が荷物を持っている。別の病室では、家族が新しいベッドの位置を一緒に決めていた。
「どうした?」
マリが横から聞いた。
「別に」
「そう」
マリはそれ以上聞かなかった。木陽も視線を戻し、次の箱を持ち上げた。
旧病院では夕方近くになり、ようやく楓太に移送の許可が出た。最後の患者搬送車も玄関前へ着き、看護師が荷物を確認している。
曜がベッド脇の鞄を持ち上げると、楓太が窓の外を見たまま言った。
「行かない」
「何で?」
「ここでいい」
「ここ、今日で終わりだよ」
「分かってる」
「明日から誰もいないじゃん」
「分かってるって」
少し間を置いて、楓太は続けた。
「ここなら知ってるんだよ。夜に苦しくなったらナースステーションまで何歩かも知ってるし、トイレも分かる。どの看護師が夜勤だと足音うるさいかも知ってるし、発作が起きても、ここなら大丈夫だった」
曜は「新しい病院も病院だよ」と言いかけたが、口にしなかった。楓太が怖がっているのは設備や建物ではなく、自分が何度も助けられた場所から離れることなのだと、ようやく分かった。
「知らない場所、嫌?」
「別に」
「俺は嫌だった」
「何が?」
「シャビー」
「今いるとこ?」
「初めて行ったとき。知らない大人も子どももいて、帰りたいって思った」
「今は?」
「帰るところ」
「いつそうなった?」
「分かんない」
「さっきから分かんないばっかだな」
「分かんないものは分かんない」
「役に立たねえ」
「無理に行けとも言ってないし」
二人が黙ると、遠くで台車の音が一度だけ響き、すぐ消えた。旧病院は、いよいよ本当に空になろうとしていた。
そのとき曜の端末が震え、杏から新病院のプレイルームの写真が届いた。真新しい壁には旧病院から運ばれた絵や折り紙が並び、見覚えのある本棚や玩具も写っている。
「楓太、これ」
曜が画面を見せると、楓太はしばらく黙っていた。
「あれ、俺の絵じゃん」
「どれ?」
「左の魚。俺、小二のとき描いた」
続いて一水から短いメッセージが届いた。
《一枚足りない》
杏から送られてきた次の写真を見ると、絵が並んだ壁の端だけが不自然に空いている。
楓太は自分の荷物を探し、小さな紙袋から四つ折りの画用紙を取り出した。色鉛筆で描かれた古い病院の絵で、窓には不揃いな黄色が塗られている。
「これだ」
「最後まで持ってたから、箱に入んなかったんだ」
楓太は絵を見つめたあと、曜へ聞いた。
「里帆も向こうにいる?」
「お父さんのところにいると思う」
「怒られてるかな?」
「たぶん」
「それでも行ったんだ」
「怒られても会いたいって言ってたから」
楓太は少しだけ笑った。
「変な人だよな」
「うん」
「……俺も行く」
曜が顔を上げると、楓太は画用紙を持ち直した。
「これ持ってかないと、引っ越し終わらないじゃん」
「そうみたい」
楓太は看護師を呼び、自分から移送することを伝えた。
搬送用のベッドに乗った楓太が病室を出ると、曜はその横を歩いた。午前中まで子どもたちの声が響いていた病棟には、空になった病室と何もないプレイルーム、照明の落ちたナースステーションが残っている。壁のテープ跡や床の擦れだけが、ここで長い時間が過ぎたことを静かに示していた。
一階へ降り、正面玄関へ近づいたところで、楓太が看護師へ声をかけた。
「ちょっと止めて」
自動ドアの手前で搬送用ベッドが止まり、楓太は身体を少し起こして古い病院を振り返った。
「ありがとうございました」

誰に向けた言葉なのか、曜には分からなかった。医師や看護師かもしれないし、何度も助けてもらった病室かもしれない。建物そのものへ言ったようにも聞こえたが、誰もそれを尋ねなかった。
搬送車の扉が閉まり、古い病院から最後の小児患者が出発した。
新病院までの道のりは短く、つい先ほどまでいた旧病院と同じ地域にありながら、楓太にとっては何もかもが初めての場所だった。玄関にはマリと一水、木陽、杏が待っており、杏は楓太を見るなり何か言いかけたものの、昼間の発作を思い出したのか、その言葉を飲み込んだ。
楓太は車椅子で新しい小児病棟へ入り、プレイルームの前で足を止めた。真新しい壁には見覚えのある絵や折り紙が並び、古い本棚や玩具もちゃんと収まっている。
「……病院、ちゃんと来てるじゃん」
「建物は来てないよ」
「そういう意味じゃない」
楓太は持っていた絵を広げた。壁には一か所だけ空白が残されている。
「そこ」
杏が指した。
「わざと空けた?」
「たまたま」
「絶対嘘だろ」
「写真見ながら十回くらい位置直してたじゃん」
「一水、あとで覚えてなさいよ」
楓太は笑いかけ、途中で小さく咳をした。杏の表情が一瞬だけ固まる。
「大丈夫。今のは普通の咳」
「……ならいい」
杏は余計なことを言わなかった。
楓太が絵を貼り終えたころ、娯楽室の方から里帆が歩いてきた。父の病室へ行ったあとらしく、少し疲れている。
楓太はすぐに気づいた。
「里帆姉、お父さんいた?」
「いた。ものすごく怒られた」
「やっぱり?」
「来るなって言っただろって」
「帰れって?」
「帰れって」
「帰るの?」
「帰らない」
「なんで?」
「会いに来たんだから」
「里帆姉らしい」
「今日会ったばっかりで何が分かるのよ」
「なんとなく」
曜は《里帆姉》という呼び方に一瞬だけ目を丸くした。里帆は訂正せず、呆れたように笑っている。それから何日か経った午後、曜が別の依頼で新病院を訪れ、用事を終えて娯楽室を覗くと、楓太とマキオがオセロ盤を挟んでいた。里帆はその横で飲み物を開けながら、二人の勝負を眺めている。

「おじさん、そこ置いたら負けるよ」
「言うな。自分で考える」
「さっき俺には教えたじゃん」
「あれは忠告だ」
「同じじゃん」
「同じじゃない」
「いつからそんな仲良くなったの?」
曜が思わず尋ねると、楓太が盤面から顔を上げた。
「この前」
「早っ」
「こいつが勝手に話しかけてきたんだ」
「おじさんからでしょ」
「どっちでもいい」
里帆が呆れると、マキオが曜へ顎をしゃくった。
「お前が楓太の話するから、どんな奴かと思って見に来ただけだ」
「それでオセロ?」
「成り行きだ」
「何回目?」
「数えてない」
「三回以上」
「楓太、言わなくていい」
楓太が声を立てて笑い、マキオまでつられて口元を緩めた。
飲み物を取りに立った里帆へ、マキオが何気なく声をかける。
「お前、また来たのか?」
「楓太君とこよ! お父さんはついで!」
「ついでの割には毎回俺のところにも来るな」
「通り道だから」
「違う階だろ」
「細かいなあ」
以前なら「もう来なくていい」と続けていたのだろう。マキオは一度口を開きかけたが、その言葉を飲み込んだ。
「帰り、暗くなる前に帰れよ」
「分かってる」
楓太が二人を交互に見る。
「今日、喧嘩しないんだ」
「いつもしてないよ」
「してないな」
「してるじゃん」
三人の声が重なり、娯楽室に笑い声が広がった。
曜は扉のところで少しだけその様子を眺め、あの日のがらんどうの廊下を思い出した。
そこで始まったものは、ちゃんとここまで来ていた。
(第4話 おわり)
