【短編小説】#2 「続・レンタルこども事務所」
第2話 『船底のチェスゲーム』(中編)


「存在しない事件だからです」
内治局の男が告げた言葉は、冷たい金属片のように曜の胸へ沈んでいた。華やかなレセプション会場では音楽が流れ、正装した招待客たちが何事もないようにグラスを傾けている。そのすぐ近くで何人もの子どもが消えていると聞かされても、シャンデリアの光も、大人たちの笑顔も少しも変わらなかった。
男は身分証を上着の内側へ戻すと、曜のそばにいる外国籍の女の子へ視線を移した。周囲にいた内治局の職員たちも、招待客の会話を邪魔しない程度の歩幅で距離を詰め、非常口や中央階段へ続く通路を静かに塞いでいく。
「その子はこちらで保護する」
「この子は、あなたたちを怖がっています」
「今は本人の意思だけで判断できる状況ではない」
男が片手を上げると、黒いスーツを着た女性職員が女の子の前へ進み出た。声も表情も穏やかだったが、差し出された手を見た途端、女の子は曜の背中へ隠れ、ジャケットの袖を冷たい指で強く握った。
曜は後ろへ下がりそうになる足を止めた。内治局が本物の国家機関なのか、彼らの言う保護が正しいのか、自分には分からない。ただ一つ確かなのは、女の子が差し出された手を選ばなかったことだった。
そのとき、ズボンのポケットでスマートフォンが一度だけ震えた。通信状態を示す表示は圏外のままだったが、受信できずに止まっていたらしいメッセージが、遅れて画面へ現れている。
送信時刻は、内治局の男が圭太の名を出した直後だった。
【圭太:内治局は悪党じゃねえ。だから面倒なんだ。命令が先で、子どもの声が後になる。大人の決めた通りに動くな。盤面を見て、自分たちで選べ】
最後の一行を読み終えるより先に、メッセージは送信時刻だけを残して灰色へ変わった。返信を押しても接続できないという表示が出るだけで、圭太へ言葉を返すことはできなかった。
曜は画面を菜月と詠土へ向けた。
「自分たちで選べ、か」
詠土が声を潜めると、菜月は返事をせず、会場を囲む職員たちの位置を確かめた。四方に散っていた内治局の職員は、客の流れへ紛れながら非常口、中央階段、エレベーターへ続く通路を押さえている。
菜月はタブレットへ指を滑らせ、簡単な会場図を開いた。職員の位置へ小さな印を置いたあと、会場の端にいる金充、ポテトの紙コップを持つ明日香、料理を運ぶ給仕スタッフの動線へ順に目を向ける。
数秒の沈黙のあと、菜月はタブレットへ素早く指を走らせた。
「出口を全部押さえられてる」
「正面からは抜けられないね」
「だから、正面からは行かない」
会場の端では、演劇体験を終えた金充が衣装係のスタッフと片づけを手伝っていた。少し離れた立食テーブルのそばには明日香も立っていて、ポテトの紙コップを抱えたまま菜月からの合図を待っている。
菜月がタブレットを胸元へ寄せ、画面をわずかに傾けると、金充が小さくうなずいた。明日香も最後のポテトを口へ入れ、紙コップを握り直す。
「明日香と金充が、あそこへ人を集める。詠土は外国人スタッフを反対側から呼び込んで」
「私は何と言えばいい?」
「体調を崩した子がいると伝えて。なるべく大勢を連れてきて」
「分かった。曜は?」
「女の子に聞いて。私たちと一緒に行くかどうか」
曜は背後を振り返った。女の子は話の内容を理解できているのか分からないまま、不安そうに曜たちの顔を見比べている。
曜は彼女の前へしゃがみ、できるだけゆっくりと言葉を選んだ。
「ここから離れたい?」
「……」
「あの人たちのところへ行くか、僕たちと一緒に行くか、自分で決めていい。どちらを選んでも、僕は怒らないよ」
女の子は内治局の職員たちを見たあと、曜の手元へ目を落とした。震える指がゆっくりと伸び、その小さな手が曜の手を握る。
曜は握り返し、女の子が自分から立ち上がるのを待った。
「一緒に行こう」
曜が立ち上がった瞬間、会場の反対側から金充の泣き声が響いた。
「うわああああああん! ママー! ママがいなくなったあああ!」
さっきまで退屈そうに舞台道具を触っていた金充が床へ膝をつき、大粒の涙をこぼしていた。わずか数秒で顔を赤くし、呼吸まで乱してみせる演技に、近くの招待客たちが一斉に振り返る。
「どうしたの?」
「迷子じゃないか?」
「スタッフを呼んで!」
大人たちが集まり始めると、明日香がポテトの紙コップを持ったまま人垣へ飛び込んだ。
「金充、泣いちゃダメ! ポテトあげるから!」
「そんなんじゃ、ママの代わりにならないよおおお!」
「そんなの、食べてみなきゃ分からないでしょ!」
明日香が金充を抱き起こすふりをして腕を大きく動かした瞬間、紙コップが傾いた。マヨネーズのかかったポテトが、近くにいた内治局の男性職員の袖とズボンへ派手に落ちる。
「あっ、ごめんなさい! わざとじゃありません! 本当に、全然、ちっとも、わざとじゃありません!」
謝りながらも、明日香の声は会場全体へ届くほど大きかった。汚れた男性職員が騒ぎを抑えようと身をかがめたところへ、周囲の大人たちが心配そうに集まり、包囲の一角が人垣へ飲み込まれていく。
先頭にいた男は騒ぎへ目を向けなかった。曜たちから視線を外さず、部下へ短く命じる。
「持ち場を離れるな」
さすがに泣き声だけでは包囲は崩れない。その直後、詠土が英語とフランス語を交互に使い、離れた場所にいたイベントスタッフへ助けを求めた。
「子どもが倒れました! 呼吸が苦しいようです。医療スタッフを東側の入口へお願いします!」
金充は言葉に合わせて胸を押さえ、床へ倒れ込んだ。泣き声が途切れ、喉を詰まらせるような音へ変わる。演技だと知っている曜でさえ、思わず駆け寄りたくなるほど真に迫っていた。
「救護班を呼んで!」
「場所を空けてください!」
外国人スタッフ数人が人垣へ入り、招待客を左右へ下がらせる。救護用の折り畳み担架まで運び込まれ、華やかだった会場の流れが大きく乱れた。
人の壁によって、内治局の男から曜たちの姿が一瞬だけ隠れる。
「今よ」
菜月は非常口へ向かわず、給仕スタッフが料理を運び込む小さなサービス扉へ走った。内治局が押さえていたのは乗客用の出口ばかりで、ワゴンの陰にあるその扉には職員が配置されていない。
菜月は昼間、料理を運ぶスタッフが扉を肘で開けていたことを覚えていた。取っ手の下へ手を入れ、隠された押し板へ力をかけると、扉が音もなく開く。
「曜、早く!」
曜は女の子の手を引き、人垣の陰を抜けた。詠土がそのあとへ続いたが、内治局の男はすぐに三人の動きを見つけた。
「止まれ!」
低い声が背中へ飛んでくる。曜は振り返らず、サービス扉までの距離だけを見た。
あと数歩というところで、別の男性職員が横から現れ、進路を塞ごうとする。逃げ道を探した曜の目に、床へ広がったマヨネーズと、そこへ転がるポテトが入った。
「詠土、右!」
曜が叫ぶと同時に、詠土が女の子の肩を抱いて方向を変えた。追ってきた男性職員は曜を捕まえようと踏み出し、革靴の底でマヨネーズを踏む。
靴底が滑り、男の身体が一歩だけ傾いた。その隙に曜は横を抜け、菜月の待つサービス扉へ滑り込むと、最後に詠土と女の子を招き入れた。
菜月が扉を閉める寸前、会場の向こうで明日香が小さく親指を立てるのが見えた。
「サービス通路へ入った。会場内では追うな。下層で止めろ」
内治局の男が無線へ告げる声が、閉まりかけた扉の隙間から聞こえた。
金充と明日香は会場へ残る。二人まで一緒に逃げれば、陽動が演技だったとすぐに見抜かれてしまう。扉が閉まると、音楽も招待客の声も急に遠のいた。
そこは華やかな会場とは別の船内だった。壁には金属製の配管がむき出しになり、天井の蛍光灯が一定の間隔で続いている。料理の匂いはすぐに消え、代わりに機械油と湿った鉄の匂いが鼻へ入った。
「明日香と金充、大丈夫かな」
「内治局は大勢の前で二人へ乱暴なことはできない。今は私たちが止まらない方がいい」
菜月はそう言いながらも、閉じた扉を一度だけ振り返った。上階から短い電子音が鳴り、続いて重い扉が開く音が響く。内治局がサービス通路へ入ってきたのだと、誰に言われなくても分かった。
「追ってくるぞ」
「こっち」
菜月がタブレットに保存していた船内図を開き、右側の通路を指した。現在地から下層デッキへ続く階段は、三つ先の角を曲がったところにある。
曜たちは走り出した。女の子はドレスの裾を踏みそうになりながらも、曜の手を離さない。
通路の途中には、食器を積んだワゴンや清掃道具が並んでいた。菜月は人の気配がするたびに立ち止まり、先に角の向こうを確かめてから進む。
船内図では、突き当たりに階段があるはずだった。ところが角を曲がると、目の前を厚い防火扉が塞いでいた。扉の脇には赤い表示灯がつき、電子錠が作動している。
「図面と違う」
「非常時に閉まる扉じゃないのか?」
「違う。誰かが先回りして閉じたんだと思う」
菜月がタブレットを拡大する。公式の船内図には、扉そのものが記載されていなかった。
背後から靴音が聞こえ始める。一人ではなく、一定の間隔を保ちながら迷わずこちらへ近づいている。
菜月は左右を見回したが、別の通路はなかった。戻れば追跡者と鉢合わせになる。
「ごめん。私が道を間違えた」
「菜月のせいじゃないよ。図面にない扉なんだから」
「それでも、このままじゃ挟まれる」
菜月の指がわずかに震えていた。誰よりも早く異変へ気づいた菜月も、この船のすべてを知っているわけではない。
曜の手を握っていた女の子が突然足を止め、防火扉ではなく、その手前にある細い通路へ顔を向けた。配管の影に隠れ、作業員一人が通れるほどの幅しかない。
「どうしたの?」
曜が尋ねると、女の子は通路の奥を指した。その唇が、初めて小さく動く。
「……ブルー」
日本語なのか英語なのか判別できないほど、かすかな声だった。奥の壁には青い帯が引かれている。曜たちが走ってきた通路には黄色い帯があり、菜月の船内図にも色分けの説明は載っていなかった。
詠土が壁の表記を見上げる。
「さっき、クルーがフランス語で話していた。『青い線を下りろ』『対象者はCデッキへ』と言っていたんだ」
「どうして早く言わなかったの」
「特別プログラムの参加者についてだと思っていた。でも、この子は青い線を知っている」
女の子はもう一度、青い帯を指した。曜は追跡者の靴音を聞きながら、菜月を見る。
公式図面どおりに進んでいれば、曜たちはこの防火扉の前で行き止まりになっていた。内治局は、子どもたちが乗客向けの経路を選ぶと読んでいたのかもしれない。
「こっちへ行こう」
「青い線には何があるか分からない」
「このまま待っていても捕まる。それに、この子はこっちを選んだ」
女の子は曜の言葉に応えるように、細い通路へ一歩入った。菜月は数秒迷ったあと、タブレットを閉じる。
「分かった。今度は図面じゃなく、この子を信じる」
四人は配管の影へ身を滑り込ませた。その直後、背後の通路へ内治局の職員たちが現れる。
「防火扉の前にいない」
「青い作業線だ。別の階段から下へ回れ」
無線の声が金属壁へ反響した。内治局は別の経路から先回りするつもりらしく、追ってきていた靴音がいったん遠ざかっていく。
青い帯の通路は急な階段へ続いていた。階段を一段下りるたび、エンジンの振動が足裏へ強く伝わり、空調の音も大きくなって互いの声さえ聞き取りにくくなる。
途中で船体が大きく傾き、天井の蛍光灯が一斉に明滅した。女の子が足を滑らせ、曜の手から離れかける。
曜は手すりへ片腕を絡め、もう片方の手で女の子を引き寄せた。
「大丈夫?」
「……うん」
初めて、はっきりと返事が返ってきた。曜は驚いたが、足を止める余裕はない。離れていた靴音が、別の方向から再び金属壁へ響き始めていた。
階段を下り切ると、左右へ同じような通路が分かれていた。壁には青い帯が二方向へ伸び、どちらにも区画番号が並んでいる。
「どっちだ?」
「さっき聞いた会話では、Cデッキの十七番と言っていた」
「十七番……」
女の子が、自分の腕へ巻かれた白い紙製のリストバンドを見せた。イベント参加番号とは別に、小さく《C―17》と印刷されている。
菜月は女の子の手首と壁の表示を交互に見た。
「参加者リストには、こんな番号はなかった」
「この子たちを分けるための番号かもしれない」
「C―17は右だ」
詠土の言葉を聞き、四人は右側へ進んだ。
その先の通路には監視カメラが設置されていた。菜月が足を止め、カメラの向きを確かめる。
「おかしい。通路全体じゃなく、扉の前だけ映してる」
「中へ入る人間を記録するためか?」
「それなら入口も映すはず。あれは扉から出てくる人だけを見る角度よ」
カメラの下には重厚な防火扉があり、脇には数字キーとカードの読み取り部分が設けられていた。表示には《C―17》と出ている。
「この中だ」
曜が近づこうとすると、菜月が腕を掴んだ。
「待って。カメラに映る」
「でも、ここしかない」
「壁際を通って。カメラの真下に死角がある」
四人は配管沿いに身を寄せ、一人ずつ扉の脇へ移った。数字キーは一、四、七、九の表面だけがほかより曇り、何度も押された指の跡が残っている。
「使われている数字は四つ」
「詠土が聞いた順なら、四、七、九、一だ」
「順番が合っている保証はない」
遠ざかっていた靴音が、今度は通路の反対側から近づいてきた。内治局はすでに別の階段を下り、Cデッキへ回り込んでいる。
菜月が数字キーへ手を伸ばしかけたとき、曜はカードの読み取り部分に細かな擦り傷が集まっていることへ気づいた。首から下げた青いスタッフパスを外し、機械へ近づける。
「曜、それはイベント用よ。船員区画の鍵にはならない」
「分かってる。でも、番号だけで開けるなら、ここにこんな傷はつかない」
曜はパスケースの裏側を読み取り部分へ押し当てた。短い認証音が鳴り、消えていた数字の入力欄が四桁で表示される。
「扉を開ける鍵じゃなく、暗証番号を入力するための認証なんだ」
菜月は一、四、七、九のキーを見つめた。
「詠土が聞いた順でいく。四、七、九、一」
「順番が合っている保証はないぞ」
「分かってる。でも試せるのは一度だけ」
菜月が《4791》と入力すると、表示が緑へ変わり、扉の内部から重い金属音が響いた。しかし完全には開かず、《内側承認待ち》の表示が点滅する。
「内側からの操作が必要だ」
「誰かいるなら、気づいて」
曜が扉へ耳をつけると、向こう側から小さく金属を叩く音が返ってきた。外側の認証が始まったときから、誰かが扉のそばで待っていたらしい。
背後の通路に、内治局の職員たちの影が現れる。その瞬間、内側から短い認証音が鳴った。

扉がゆっくりと開き、細い隙間から少女の顔が現れる。明るい茶色のショートボブに、船内イベントの子ども案内係を示す紺色のベストを着ていた。
「遅い。外側の認証表示が変わるのを、ずっと待ってたのよ」
「綾火……どうしてここに?」
「説明は中でする。早く入って」
小学四年生の綾火は曜たちの人数を素早く数え、最後に女の子の手首へ目を落とした。怪我がないことを確かめてから、四人を室内へ引き入れる。
扉が閉じる直前、内治局の男が通路の角へ姿を現した。
「待て!」
綾火は答えず、内側のロックをかけた。重い扉が閉まり、男の姿が細い線の向こうへ消える。
部屋の中は貨物倉庫ではなく、折り畳み椅子と長机が並ぶ船員向けの研修室だった。壁には世界地図が貼られ、机の上や床には同じ青いファイルが散らばっている。
その奥に、十人ほどの子どもたちがいた。豪華な服を着たまま椅子へ座る子、壁際で膝を抱える子、床へ落ちたファイルを拾おうともせず見つめている子もいる。縄で縛られてはいないが、窓のない部屋には出口が一つしかなく、その扉には外側から鍵がかけられていた。
「この子たちは?」
「イベントの途中で『海外研修候補者に選ばれた』と言われ、個別面談のためにここへ集められたの。子どもたちの話では、保護者には特別プログラムだと説明されてるみたい」
綾火は扉の認証装置を確かめながら答えた。子ども案内係として別のフロアを担当していた綾火は、参加者の何人かが一般客の使わないエレベーターへ乗せられていくのを見て、近くの船内スタッフへ知らせた。
しかし、特別プログラムだから問題ないと取り合ってもらえず、圭太への通信もつながらなかった。子どもたちの行き先だけでも確かめようと追った結果、この部屋へ一緒に閉じ込められたという。
「元のフロアへ戻ろうとしたときには、もう扉が開かなかった。外側の認証がなければ、内側からも動かせなかったの」
「それで、僕たちが来るのを待ってたんだ」
「誰が来るかまでは分からなかった。でも外側の認証が通れば、最後の承認だけはできた」
綾火は曜のスタッフパスへ目を向けた。
「ここはもともと船員用の研修室なの。イベントスタッフの認証がまだ残っていたみたい」
「圭太が用意したわけじゃないんだね」
「曜が傷に気づかなかったら、誰も入れなかったわ」
部屋の奥にいた子どもたちは、曜たちが入ってきても声を上げなかった。一人は椅子に座ったまま世界地図を見つめ、一人は指を規則正しく動かして何かを数えている。別の少年は青いファイルを胸へ抱え、扉が動くたびに肩を強張らせていた。
誰も泣いていなかったが、その静けさは泣き声よりも曜を不安にさせた。曜が一歩近づくと、青いファイルを抱えた少年がスタッフパスへ目を向ける。
「お兄ちゃん、帰してくれる人?」
小さな声だった。曜はすぐに答えられなかった。自分たちだけで全員を安全に連れ出せるのか、出口の向こうには内治局がいる。根拠もなく帰れると約束することはできない。
それでも何も言わなければ、少年はまた壁だけを見つめるようになる気がした。
「帰る方法を探しに来たんだ。だから、もう少しだけ待っていて」
少年は曜の言葉を聞き、青いファイルを抱く力をわずかに緩めた。その姿は部屋へ閉じこもり、誰かが扉を開けてくれるのを待っていた頃の曜自身と重なった。
隣にいた女の子が曜の手を離し、子どもたちの方へ歩いた。腕のリストバンドを見せると、同じように《C》から始まる番号をつけられた子どもたちが初めて顔を上げる。
「この子も、ここへ連れてこられる予定だったんだ」
「たぶん、十七番目」
菜月がリストバンドを見つめながら答えた。綾火は机の上に残されていた資料を一冊開く。
顔写真の横には、参加者名簿にはない評価項目と記号が並んでいた。何人かの写真だけが二重の四角い枠で囲まれ、年齢や国籍とは別の基準で選別されていることだけは分かる。
「これ、参加者名簿じゃない」
「子どもたちを選ぶための資料だ」
詠土の声が低くなる。
その瞬間、扉の外から認証音が鳴った。一度、二度と短い電子音が続き、内側のロック表示が赤く点滅する。内治局が外部認証を始めたのだ。
「開けられるまで、どのくらい?」
「長くて二分。相手が管理権限を持っていたら、もっと早い」
綾火が答えると、部屋の子どもたちが一斉に扉を見た。曜は少年の前から立ち上がる。逃げ道はなく、扉の外には国家組織がいる。ここまで来ても、何が正しいのかはまだ分からなかった。
やがて最後の認証音が鳴り、扉のロックが外れる。重い扉が開き、蛍光灯の逆光の中に内治局の男が立っていた。後ろには数人の職員がいるが、誰も武器を構えてはいない。
男が室内へ入ると、最後に続いた職員が防火扉を閉じ、内側の操作盤へ手を伸ばした。低い施錠音が響き、曜たちの退路が再び塞がれる。
内治局の男は部屋の子どもたちを見渡し、曜たちへ冷たい視線を戻した。
「そこまでだ。これ以上、君たちの行動を黙認できない」
「この子たちを閉じ込めたのは、あなたたちなんですか」
「今は詳しく話せない。この子たちは外へ出せない事情がある」
「こんなに怖がってるのに?」
「ここを離れれば、さらに危険な目に遭う」
「だったら、どうして何も教えないんですか」
「それ以上は話せない。情報が漏れれば、彼らを守れなくなる」
内治局の男は曜の後ろにいる子どもたちへ目を向けた。その表情には、第1話で見た疲労がさらに濃く浮かんでいる。
「君たちがここへ入ったことで、計画を変更しなければならない。全員、別の場所へ移す」
「また隠すんですか」
「隠さなければ、奪われる」
曜は青いファイルを抱えた少年を振り返った。少年は椅子から立ち上がれず、曜のスタッフパスだけを見ている。
子どもたちを守るという男の言葉が、すべて嘘だとは思えなかった。だからこそ、その方法を正しいとも言えなかった。
「この子たちが何を怖がってるか、聞いたんですか。誰と帰りたいか、一度でも聞いたんですか」
「君たちには分からない」
「守るって、声を聞かないことなんですか」
曜の声は震えていた。それでも目を逸らさなかった。
内治局の職員たちの間に短い沈黙が落ちる。男はほんの一瞬だけ部屋の奥へ視線を向けたが、やがて感情を閉じ込めるように表情を戻した。
「今は、それしか方法がない。彼らを守るための、これが唯一の隠蔽だ。大人しく、そこを離れろ」
内治局の男が言い終えた直後、船底から突き上げるような振動が走った。折り畳み椅子の脚が床を擦り、机の上の筆記具と青いファイルが一斉に滑り落ちる。
天井の蛍光灯が大きく揺れたかと思うと、船内を満たしていた重いエンジン音が不意に途切れた。内治局の男が胸元の無線機へ手を伸ばし、後ろにいた職員たちも同時に表情を変える。
「何が起きたんですか」
「君たちはここから動くな」
男は曜の問いに答えず、部下へ短く指示を出した。その声には、初めて隠しきれない焦りが混じっていた。
数秒遅れて赤い非常灯が点灯し、研修室が不穏な赤色に染まる。奥にいた子どもたちは声を上げることもできず、互いの肩を寄せ合った。
曜が女の子の手を握り返した直後、船体がもう一度大きく揺れ、閉ざされた防火扉の向こうから、金属製の台車が壁へ激突したような音が響いた。
【第2話 『船底のチェスゲーム』 おわり 】
