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【短編小説】#1 「続・レンタルこども事務所」

第1話 『大さん橋の神隠し』(前編)

六月の昼下がり、曜は横浜港大さん橋に停泊する豪華客船《ブルー・ホライズン号》を見上げ、途中で首が痛くなって視線を戻した。白い船体は海に浮かぶ建物のように大きく、初夏の陽光を受けた海面が、その足元で眩しく揺れている。

国際こども交流イベントのために貸し切られた船へ特設タラップを渡り、ロビーへ入ると、吹き抜けの天井に大きなシャンデリアが輝いていた。正装した招待客が曲線階段を行き交い、さまざまな国の言葉が重なる中、あきらは自分の足音まで周囲に聞かれているような気がして、知らず知らずのうちに背中を丸めていた。

「曜お兄ちゃん、シャキッとしなさい! 背中が丸まってる! 茹ですぎたうどんみたいだよ!」

鋭い声とともに、フライドポテトの入った紙コップが目の前へ突き出された。小学一年生の明日香は淡い桃色のドレスを着ていても、ただの招待客には見えない。赤ん坊の頃から子役として働いてきたせいか、腰へ片手を当てて曜を見上げる姿には、現場監督のような貫禄があった。

紙コップのポテトには、形が分からなくなるほどマヨネーズがかかっている。明日香は一本つまんで口へ放り込み、まだ背中を伸ばさない曜をじろりと睨んだ。

「う、うん……ごめん。ちょっと圧倒されちゃって」
「ダメ! 曜お兄ちゃんはレンタルこども事務所の新人なんだから、もっと堂々としてなきゃダメ!」
「これでも堂々としてるつもりなんだけど」
「どこが? クライアントに『頼りないスタッフだな』って思われたら、シャビーの営業妨害なんだからね!」
「一年生に営業妨害って言われると、なんか胃にくるな……」

曜は引きつった笑みを浮かべ、首から下げたボランティアスタッフ用のパスへ触れた。薄いプラスチック製で、本来ならほとんど感じないのに、今日は胸元にずしりと鉛のように重く感じる。体育の授業で起きた揉め事以来、曜は学校へ行けなくなり、シャビーへ来てから少しずつ外へ出られるようになったものの、大勢の視線に囲まれると今も足が止まりそうになる。

そんな曜を半ば強引に部屋から連れ出したのが、子役養成学校の所長であり、レンタルこども事務所《シャビー》を率いる圭太だった。

『子どもがいつでも主人公だ。曜、お前はお前だけのステージを見つければいい。外へ出た今日を、まずは一歩目にしろ』

その言葉を信じ、曜が初めて任された仕事が今回のボランティアだった。それでも世界各国から集まった招待客の声が幾重にも重なるロビーでは、自分が場違いな存在に思えて仕方がない。

曜が小さく息を吐いたとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面には船へ乗らず陸に残った圭太の名前が表示されている。通話ボタンを押すと、派手なアロハシャツを着て、サングラスを頭に乗せた圭太の顔が画面いっぱいに映った。

『よお、曜! 無事に船へ潜入できたか?』
「潜入じゃなくて、正式なボランティアだよ」
『細かいことは気にするな。こっちはマリと、大さん橋の近くで優雅に昼飯を食ってるところだ』

画面の端から、フォークを持ったマリが顔を覗かせた。

『曜クン、聞こえる? 明日香が周りのマヨネーズを使い果たしてない?』
「もう手遅れかも」
『それから背筋! 画面越しでも茹ですぎたうどんみたいよ!』
「明日香と同じこと言わないでよ……」
『何かあったらすぐ連絡しろ。あとはお前たちに任せた!』
『圭太、自分だけ食べるのに戻ろうとしてるでしょ!』

マリの怒鳴り声と圭太の笑い声を残し、通話は切れた。騒がしい二人の顔を見たせいか、張り詰めていた曜の肩から少しだけ力が抜ける。

スマートフォンをポケットへ戻したところで、紋付袴姿の少年が静かに歩み寄ってきた。

「自分たちだけ昼飯とは、大人は勝手だな」

小学五年生の詠土は大の時代劇好きで、豪華客船の歓迎パーティーにも紋付袴で現れた。本人はこれが最も正しい礼装だと言い張っている。

「詠土も聞いてたの?」
「大声だったからな。それより曜、ボスが呼んでいる。少し妙なことが起きているらしい」
「妙なこと?」
「なっちゃんから直接聞いた方がいい」

詠土が視線を向けた先には、タブレットを抱えた菜月が立っていた。濃紺のドレスに白いカーディガンを合わせ、赤いカチューシャで髪をまとめている。華やかな装いをしていても、その目は会場の隅から隅までを注意深く追っていた。

曜と詠土が近づくと、菜月は周囲の大人たちへ目を走らせ、二人に顔を寄せるよう手招きした。

「ボス、どうしたの? そんな怖い顔して」
「あの子を見て」

菜月が小さく顎を動かした先では、海外から参加した幼い女の子が、立食テーブルの陰で両耳を塞いでいた。淡い水色のドレスを着ているが、唇まで血の気を失い、肩が細かく震えている。スタッフが笑顔で近づくたび、その体は声をかけられる前から強張った。

「あの子、音が大きいから怖がってるのかな」
「それだけじゃない気がする。大人の顔を見るたびに怯えてるの」

菜月はタブレットへ視線を落とし、女の子の顔写真を確かめた。

「さっき、グラスが床へ落ちる前に、振り向きもしないで受け止めた男の子がいた。その子の近くにも、同じ男たちがいたの」
「招待客じゃないの?」
「参加者リストにも、運営スタッフの名簿にも載っていない。乗船するときに一度すれ違った。あの顔は忘れてない」

正装した招待客に混じり、数人の男が離れた場所でグラスを手にしていた。談笑しているように見えるものの、そのうちの一人が女の子へ視線を向けると、別の男も同じ方向を確かめるように顔を動かした。

「偶然だと思う?」
「分からない。私の考えすぎかもしれない」
「でも、あの人たち、さっきから飲んでないよ」

曜が呟くと、菜月と詠土が男たちのグラスへ目を向けた。誰のグラスも中身がほとんど減っていない。

「ああ。飲むために持っているようには見えない」

菜月はわずかに眉を寄せた。男たちが何者なのかまでは分からない。三人が見つめる先で、立食テーブルの陰にいる女の子が、息を詰まらせるように肩を揺らした。

周囲の大人たちは笑顔で会話を続け、近くの子どもたちも遊びに夢中になっている。誰にも気づかれないよう教室の隅で息を潜めていた自分の姿が、女の子へ重なった。

「あの子、このままだと息ができなくなる」

曜は誰かの返事を待たず、女の子へ向かって歩き出した。背中へいくつもの視線が集まる気がしたものの、今は振り返らなかった。彼女の前まで来ると、驚かせないよう少し離れたところでしゃがみ、同じ高さから顔を覗き込んだ。

「急に近づいてごめんね。僕は曜。ここのボランティアスタッフなんだ」

女の子は耳を塞いだまま、怯えた目で曜を見た。呼吸は浅く速い。曜は首から下げたスタッフパスへ指を添えながら、できるだけゆっくりと言葉を続けた。

「僕もね、大勢の人がいる場所が苦手なんだ。みんなに見られている気がして、頭が痛くなるし、逃げ出したくなる」
「……」
「無理に話さなくていいよ。ここにいるのがつらかったら、少し静かな場所へ行こう。僕も一緒に行くから」

女の子の目に涙が浮かんだ。曜は手を伸ばさず、彼女が自分で動けるようになるまで待った。しばらくすると、耳を塞いでいた小さな手がゆっくりと下がり、そのうちの片方が曜のジャケットの袖をそっと掴んだ。

冷たい指だった。曜はその手を振り払わず、女の子の呼吸が落ち着くまで同じ場所にしゃがんでいた。背後では菜月が心配そうに見守り、詠土は二人ではなく周囲の大人たちへ警戒の目を向けている。

「大丈夫。僕はここにいるから」

女の子はかすかにうなずいた。まだ涙は残っていたものの、肩の震えは少しずつ小さくなっていった。

そのとき、詠土が音もなく曜の隣へしゃがみ込んだ。袴の内側から和柄のハンカチを取り出し、額へ浮かんだ汗を拭う。その横顔はいつになく硬かった。

「曜、なっちゃん。やはり、この船は何かおかしい」
「何か聞こえたの?」
「通り過ぎたクルーのインカムから、英語とフランス語が漏れていた。『すべて予定どおり』『まもなくポイントへ到達する』と話していた」
「船の運航についてじゃないの?」
「そうかもしれない。ただ、予定どおりなら、あんな顔はしない」

詠土が示した先で、クルーの一人が笑顔を作ったままインカムを強く押さえていた。こめかみには汗が浮かび、客へ道を譲る際にも、その視線は何度も奥の通路へ戻っている。

少し離れたテーブルでは、明日香がポテトを食べながらこちらを見ていた。菜月がタブレットを抱え直した直後、会場の床を伝っていた低い振動が不意に消え、グラスの触れ合う音と音楽だけが浮かび上がった。

数人のクルーがほぼ同時にインカムへ手を当てる。すぐに振動は戻ったが、明日香はポテトを持ったまま顔を上げた。

「今、船の音が止まったよね」
「分かったの?」
「撮影所の機械音が止まったときと同じ。大人たち、止まる前から身構えてた」

菜月は答えず、会場を横切るクルーたちを見つめた。

曜たちは女の子を会場の端にある静かな休憩スペースへ連れていき、同じ言葉を話せる女性スタッフへ事情を伝えた。圭太へ何度かけても通話はつながらず、船内Wi-Fiまで接続と切断を繰り返している。

通信設備の場所を確かめようと通路へ出たところで、一人のクルーが笑顔のまま道を塞いだ。

「この先は関係者専用です。お子様方は会場へお戻りください」
「外と連絡が取れないんです」
「一時的な不具合です。どうぞ会場へお戻りください」

クルーはそれ以上の説明をせず、曜たちの返事を待たないまま扉を閉めた。笑顔は最後まで崩れなかったが、閉まる直前まで、その目は背後の通路を気にしていた。

レセプション会場へ戻る途中、丸窓の外では横浜の街並みが小さくなり、空が淡い橙色へ変わり始めていた。会場では何事もなかったように音楽が流れ、招待客はグラスを傾け、子どもたちはゲームやショーに夢中になっている。

「圭太と連絡が取れるまで、気づいたことをそれぞれ確かめよう」
「私は名簿と男たちの顔を見直す」
「私はクルーの会話を聞く」
「じゃあ僕は、あの女の子の近くにいる」
「私は大人たちの顔を見る。カメラが回ってないときの顔なら、いっぱい見てきたもん」

明日香はそう言うと、ポテトの紙コップをテーブルへ置いた。

空が群青色へ変わった頃、窓の外から横浜の灯りは見えなくなっていた。窓には海よりも船内の明かりが強く映り、外を見ようとした曜の顔が、暗いガラスの向こうからこちらを見返していた。

曜たちが再び会場の片隅へ集まると、休憩スペースにいた女の子が自分から椅子を降り、女性スタッフのそばを離れてこちらへ歩き出した。まだ足元は頼りなかったが、曜から目を離さず、一歩ずつ進んでくる。

その直後、華やかな装飾の陰から、昼間に見かけた男たちが一人ずつ現れた。落ち着いた色のスーツを着て、誰も声を荒らげず、表情にも敵意はない。ただ、曜たちがどの方向へ動いても、一人がその先へ立つように静かに位置を変えていた。

周囲の乗客には、知人同士が集まって話しているようにしか見えない。曜は逃げ道がなくなったことを理解した。

(見つかった……)

心臓が激しく鳴り、視線を浴びただけで体が動かなくなった頃の感覚が戻ってくる。頭を抱えてしゃがみ込み、すべてを見ないふりにしたい。

背後で明日香が曜の上着を掴み、女の子もそばまで来ると、その袖を握った。怖さは消えなかったが、曜は二人を背中へ隠し、菜月と詠土の前へ半歩出た。

男たちの中から、体格のいい一人が前へ出た。冷たい目をしているものの、敵意よりも深い疲労が浮かんでいる。

「騒ぐな。レンタルこども事務所だな」

低い声で告げると、男は上着の内側から身分証を取り出した。警察手帳に似た黒いケースには、見慣れない紋章とともに《内治局》の文字が刻まれている。

「圭太を知っている。君たちを探していた」
「おっちゃんを知ってるんですか」

菜月が恐怖を隠すように問い返した。身分証が本物かは分からない。それでも男は、曜たちがまだ知らない何かを知っていた。

男は菜月の問いには答えず、VIP席の方角へ一瞬だけ目を向けた。その動きにつられて曜も視線を移したが、豪華な椅子に座る招待客の中で、誰を見たのかまでは分からなかった。

「この船で、もう何人か消えている」

菜月が息を呑み、詠土の表情が強張った。明日香も曜の背中で動かなくなる。

「消えたって、迷子になったんですか」
「そうではない」
「だったら、警察や船の人に知らせないと」
「船員の一部は把握している。正式な報告は上がらない」

男は周囲の乗客へ視線を配り、さらに声を低くした。

「この船で起きていることは、ニュースにはなりません。明日の朝刊にも、ネットの速報にも、一行すら載らない」
「なぜですか。こんなにたくさん人がいるのに……!」

曜の声が思ったより大きくなり、男の背後にいた一人が周囲を警戒した。男は曜を黙らせようとはせず、しばらくその顔を見つめていた。

「なぜ、誰にも知られないんですか」

男はすぐには答えなかった。さっきまで耳障りだった音楽が、今は壁の向こうから流れているように聞こえる。やがて男は会場の奥にある暗がりへ視線を向け、感情を押し殺した声で告げた。

「存在しない事件だからです」

窓の外に横浜の夜景も大さん橋の灯りもなかった。暗いガラスには、女の子の手を握り返す曜の姿が映っていた。

【第1話 『大さん橋の神隠し』 完 】

第2話(中編)へ



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