毘沙門天と徳川家康|多聞山天現寺の開山と縁起書に纏わる疑問と考察
家康公の陣中守り本尊とされる毘沙門天の由来について紐解き、その背景にあるものを考えることは、未来のために出来る、記憶を繋ぐことです。
#未来のためにできること 、#きおくをつなごう
1.主な出来事

2.関連する史料

3.家康公ゆかりの毘沙門天

4.四つの疑問と考察
疑問1:多聞山天現寺の開山時期
幕府開府百二十年を過ぎて、戦国乱世は遠い昔となった時期に、家康公の陣中守り本尊をお祀りする、多聞山天現寺が開山(1719)されたのは何故でしょうか。
《考察》
この時期は八代将軍吉宗公の治政(1716–1745)のもと、五代将軍以降に問題が大きく顕在化した、幕府財政の悪化、農村・武士層の不安定化、幕府権威の低下などのに対する、享保の改革が進められていました。特に吉宗公は家康公に対する畏敬の念が強く、家康公の陣中守り本尊であった毘沙門天に光を当てることは、家康公のご威光を高める事に資すると考えられたことも、理由の一つと推察されます。
疑問2:お像が禅宗に託された理由
徳川家は、松平氏の代より浄土宗を菩提寺としていました。家康公の晩年は、天台宗へも傾倒されていたとされます。では、この毘沙門天をお祀りしたのが、臨済宗のお寺だったのは何故でしょうか。
《考察》
徳川家と禅との関りで有名なのは、沢庵宗彭(1573-1645)です。安土桃山から江戸前期にかけての、沢庵漬けで有名な臨済宗の僧侶です。三代将軍の家光公から深く信頼され、江戸品川に東海寺を開山しました。
また、幕府重臣の柳生宗矩(1571-1646)と禅との関りも深いものがあります。宗矩の父は剣豪として名高い柳生石舟斎宗厳であり、父から新陰流(柳生新陰流)を学びました。石舟斎から受け継いだ新陰流の剣技に優れ、家康公、秀忠公、家光公の三代にわたり剣術指南役を務めました。その剣技は、古今無双の達人と称されるほどでした。父の創始した新陰流を、徳川幕府の御流儀として確立し、全国に広めました。これにより、柳生流は当時最大の剣術流派の一つとなりました。剣術の達人としてだけでなく、活人剣(人を活かす剣)、無刀取り(武器を持たない状態で相手の武器を奪い制する技)など、精神性を重視した独自の武道思想を提唱しました。その思想は、沢庵和尚との交流を通じて深められたと言われています。これら禅と武家との関りから、この毘沙門天のお祀りを禅宗に託したのではないかと推察されます。
疑問3:幕府公文書への記載
幕府公文書の『縁起集』(1727)に「多聞山毘沙門天王之縁起」が収録されたのは何故でしょうか。
《考察》
享保の改革の中では、財政再建や農政だけでなく、知識・法令・文献の整備も重要な柱とされました。そして、法典編纂(公事方御定書)、学問・実学書の整備と普及、出版の奨励と統制が行われました。大学守による『縁起集』の編纂も、その一つと考えられます。そして、家康公のご威光を示す陣中守り本尊の縁起も、そこに収録されたものと推測されます。
疑問4:民間信仰への広がり
多聞山天現寺の開山後数十年を過ぎて、寺社仏閣の縁起を集めた『縁起叢書』(1754)や江戸の観光ガイドブックである『江戸名所図会』(1834)に、この毘沙門天が掲載されたのは何故でしょうか。
《考察》
多聞山天現寺の開山の目的は、家康公のご威光に改めて光を当てることに加え、毘沙門天のご威徳を広く民衆へも広げることでした。そして、広尾の毘沙門堂と呼ばれ、勝負運・金運の仏様として広く信仰を集めていました。その証左として、『縁起叢書』や『江戸名所図会』への掲載と推察されます。

