Prada、怒られたら急にMade in Indiaになったんか
今日も違和感を見つけた。
Pradaが、インド伝統のKolhapuri Chappalsに着想を得たサンダルを、Made in Indiaとして発売するというニュースを見た。
Prada、怒られたら急にMade in Indiaになったんか。
最初はそう思った。
少し意地悪な言い方をすれば、炎上後の軌道修正に見える。
以前、PradaはKolhapuri Chappalsに似たサンダルを発表し、十分なクレジットなしにインドの伝統的な履物を使ったとして批判された。The Guardianは、Kolhapuri Chappalsがインドの伝統的な手工芸による履物であり、地理的表示、いわゆるGI保護も受けていると報じている。
その後、Prada Group公式は、Kolhapuri Chappalsに着想を得たMade in Indiaの限定サンダルを発表した。
公式発表によれば、生産はMaharashtraとKarnatakaの職人によって行われ、LIDCOMとLIDKARというインドの公的機関との協業で進められている。さらにPradaは、3年間で180人の職人を対象にしたトレーニングプログラムも行うとしている。
https://www.pradagroup.com/en/news-media/news-section/26-04-27-prada-kolhapuri.html
ここだけ見ると、話は分かりやすい。
最初に批判された。
その後、出所を明確にした。
職人とも協業した。
Made in Indiaにした。
だから改善した。
たしかに、そう見える。
でも、ここで終わらせると少し浅い。
本当に気になるのは、Pradaが良いか悪いかだけではない。
ラグジュアリーは、他文化をどう扱うべきなのか。
文化は盗まれるものなのか。
それとも、翻訳されるものなのか。
この境界がかなり難しい。
何が起きたのか
まず、今回の流れを整理する。
Kolhapuri Chappalsは、インドの伝統的な履物である。
The Guardianの記事では、Kolhapuri Chappalsはつま先部分のループや編み込まれたTストラップを特徴とする手工芸の履物として説明されている。さらに、2019年にインド政府からGI保護を受けているとも報じられている。
GI保護とは、かなりざっくり言えば、特定の地域で生まれた産品や技術、名称を保護する仕組みである。
つまりKolhapuri Chappalsは、単なるサンダルの形ではない。
地域。
職人。
技術。
歴史。
生活。
そうしたものが結びついた履物である。
そこにPradaが似たデザインを出した。
最初は、十分なクレジットがなかった。
だから批判された。
そして今度は、PradaがMade in Indiaとして、職人や公的機関との協業を前面に出して発売する。
この変化は大きい。
単なるデザインの引用から、制作主体と出所を見える形へ変えたからである。
ただし、それで完全に解決したと言い切るのも早い。
なぜなら、文化の問題は名前を出せば終わるほど単純ではないからである。
普通の見方
普通に見ると、こうなる。
Pradaがインドの伝統文化を借りた。
でもクレジットが足りなかった。
批判された。
だから今度はMade in Indiaにして、職人とも組んだ。
この見方はかなり自然である。
そして、批判した人たちの感覚もかなり分かる。
なぜなら、ラグジュアリーは昔から他文化を引用してきたからである。
民族衣装。
労働着。
軍服。
宗教的モチーフ。
工芸。
地域素材。
伝統的な柄。
それらをハイファッションの文脈へ移し、価格を上げ、物語を与え、グローバル市場へ流通させてきた。
その中には、魅力的なものもある。
文化が別の文脈へ移ることで、新しい美しさが生まれることもある。
しかし同時に、危うさもある。
誰の文化なのか。
誰が作ったのか。
誰が利益を得るのか。
元の職人や地域には何が返るのか。
この問いが残る。
文化を使うことは悪なのか
では、ラグジュアリーブランドが他文化を使うこと自体が悪なのか。
私はそうは思わない。
文化はそもそも、ずっと混ざってきた。
服の歴史は、引用と翻訳の歴史でもある。
ある地域の服が別の地域へ移る。
労働着がモードになる。
軍服が日常着になる。
スポーツウェアがラグジュアリーになる。
民族的な装飾が現代服に使われる。
宗教的な形がファッションへ移る。
完全に純粋な服など、ほとんど存在しない。
だから、文化を引用すること自体をすべて否定すると、ファッションのかなり多くが成立しなくなる。
問題は、文化を使うことそのものではない。
問題は、どう使うかである。
誰が語るのか。
誰が作るのか。
誰の名前で市場に出るのか。
誰に利益が戻るのか。
関係は継続するのか。
それとも、一度だけ素材として使われて終わるのか。
ここに盗用と翻訳の境界がある。
盗用とは、出所を消すことである
文化盗用という言葉は、かなり強い。
使い方を間違えると、ただの怒りのラベルになる。
でも、今回の話で考えるなら、盗用とは出所を消すことである。
どこから来た形なのかを消す。
誰が作ってきた技術なのかを消す。
どの地域に根づいたものなのかを消す。
そして、ラグジュアリーブランドの名前だけで市場に出す。
この時、元の文化は素材になる。
デザインのネタになる。
インスピレーションになる。
しかし、担い手は見えなくなる。
これがかなり問題である。
文化は、形だけではない。
その形を作ってきた人がいる。
技術がある。
地域がある。
生活がある。
時間がある。
それらを消して、形だけを取り出すと、文化はただのデザイン素材になる。
盗用の問題は、そこにある。
翻訳とは、出所を見えるようにして別の文脈へ移すことである
一方で、翻訳は少し違う。
翻訳とは、出所を見えるようにしながら、別の文脈へ移すことである。
これは簡単ではない。
その文化の名前を出す。
職人や地域を出す。
技術の背景を出す。
制作主体を出す。
利益や教育や雇用が戻る形を作る。
そして、単発ではなく継続的な関係にする。
Prada Group公式が発表している今回のMade in Indiaの限定サンダルは、少なくとも形式としてはこの方向へ寄せている。
MaharashtraとKarnatakaの職人。
LIDCOM。
LIDKAR。
NIFT。
KILT。
3年間の職人育成プログラム。
180人の職人。
これらを前面に出している。
つまり、以前の批判に対して、Pradaは単に謝るのではなく、出所と制作主体を見えるようにした。
これは重要である。
ただし、ここでもう一つ問いが残る。
それは本当に関係なのか。
それとも、炎上後のイメージ回復なのか。
Made in Indiaで全部解決するわけではない
Made in Indiaと書けば、すべて解決するわけではない。
ここはかなり大事である。
名前を出した。
現地で作った。
職人と組んだ。
それは一歩前進である。
しかし、それだけでは十分とは言い切れない。
職人にどれだけ利益が戻るのか。
価格の大部分はどこへ行くのか。
Pradaのブランド価値として回収される分と、現地へ戻る分のバランスはどうなっているのか。
3年間のプログラムは、その後も続くのか。
単発の限定コレクションで終わるのか。
地域の職人が自立的に国際市場へ接続できるようになるのか。
それとも、Pradaの物語を補強する役割で終わるのか。
ここは問われ続ける。
文化の翻訳は、名前を出せば完成するわけではない。
関係が続いて初めて、翻訳に近づく。
ラグジュアリーは文化を翻訳してきた
ラグジュアリーは、いつも文化を翻訳してきた。
労働着を翻訳する。
軍服を翻訳する。
民族衣装を翻訳する。
ストリートを翻訳する。
スポーツを翻訳する。
工芸を翻訳する。
生活の中にあったものを、別の文脈へ移す。
そして、価格を変える。
素材を変える。
見せ方を変える。
物語を変える。
ここにラグジュアリーの魅力がある。
同時に、ここにラグジュアリーの暴力性もある。
たとえば、ワークウェアは労働の服だった。
それがファッションになる。
軍服は戦争や規律の服だった。
それが日常着になる。
スニーカーはスポーツの道具だった。
それがステータスになる。
ストリートは外側の文化だった。
それがラグジュアリーの中心へ入る。
この移動は、いつも純粋ではない。
面白い。
でも危うい。
魅力的。
でも搾取的にもなりうる。
PradaのKolhapuri Chappals問題は、その構造がかなり見えやすく出た例だと思う。
工芸は誰のものか
ここで、工芸の問題が出てくる。
工芸は、単なる技術ではない。
地域に根づいている。
生活に根づいている。
身体に根づいている。
長い時間の中で形ができている。
だから、工芸をラグジュアリーが使う時、ただの素材以上のものを扱っていることになる。
以前、ミズノの和紙シューズについて書いた。
スポーツ用品は工業製品なのか、それとも工芸になれるのか、という話である。
ミズノの和紙シューズの場合、スポーツ用品という工業製品の文脈に、和紙という日本の素材や手仕事の文脈が入っていた。
そこでは、機能が極まった先で文化や素材の物語へ戻るのではないか、という問いがあった。
今回のPradaは、さらに鋭い。
なぜなら、Pradaはインドの伝統的な履物をラグジュアリーの文脈へ移しているからである。
スポーツ用品が工芸へ近づく問いよりも、文化の権利や利益配分の問題が強く出る。
ラグジュアリーは、伝統文化を高めているのか。
それとも、値札だけを高めているのか。
ここが問われる。
価格差が生む違和感
The Guardianの記事では、インドでKolhapuri Chappalsが約12ドルで買える一方、Pradaのサンダルは800ドル以上で販売されると報じられていた。
この価格差は、かなり象徴的である。
もちろん、Pradaの商品が単純に現地のサンダルと同じであるとは言えない。
素材も違うかもしれない。
流通も違う。
店舗も違う。
ブランド価値も違う。
デザイン調整もある。
マーケティングもある。
だから、価格差だけで単純に悪と決めることはできない。
しかし、違和感は残る。
元の文化では日常の履物だったものが、ラグジュアリーの文脈へ移ると、何十倍もの価格になる。
その価値はどこから来るのか。
職人の技術から来るのか。
Pradaの名前から来るのか。
それとも、伝統文化をラグジュアリーが承認したことから来るのか。
ここが気になる。
文化は、ラグジュアリーに拾われた瞬間に価値が上がるのか。
それとも、もともと価値があったのに、市場が見ていなかっただけなのか。
ラグジュアリーは承認装置でもある
ラグジュアリーには、承認装置としての機能がある。
ある素材。
ある形。
ある地域文化。
ある職人技。
それらがラグジュアリーの文脈へ入ると、急に高級として読まれる。
これはかなり複雑である。
一方では、見過ごされていた文化や技術に光が当たる。
若い世代が再評価するかもしれない。
海外市場へつながるかもしれない。
職人の技術が注目されるかもしれない。
The Guardianの記事でも、Pradaのショー以降、Kolhapuri sandalsへの関心が高まったという見方が紹介されている。
これはプラスである。
しかし同時に、別の問題もある。
なぜ地元の文化が、ラグジュアリーに拾われて初めて価値があるように見えるのか。
なぜ現地の職人が作っていた時には安く見られ、Pradaが扱うと高級になるのか。
ここには、グローバル市場の権力がある。
ラグジュアリーは、文化を翻訳するだけではない。
文化に値札をつけ直す権力を持っている。
文化は盗まれることもあるし、翻訳されることもある
文化盗用か、文化交流か。
この二択は分かりやすい。
でも実際には、その間にかなり広いグラデーションがある。
完全な盗用もある。
出所を消す。
担い手を消す。
利益を一方的に回収する。
文化をただの装飾素材として使う。
これは盗用に近い。
一方で、かなり良い翻訳もある。
出所を明確にする。
担い手と協業する。
利益や知識が戻る。
関係が継続する。
元の文化が尊重される。
新しい文脈でも魅力が生まれる。
これは翻訳に近い。
Pradaの今回の動きは、少なくとも盗用への批判を受けて、翻訳の方向へ寄せようとしているように見える。
ただし、それが本当に翻訳になるかは、今後の関係次第である。
発売して終わりなら弱い。
プログラムを発表して終わりなら弱い。
本当に職人の技術や地域の産業へ持続的に返るのか。
そこが問われる。
これからのラグジュアリーは、何を使ったかではなく誰と作ったかを問われる
これからのラグジュアリーは、何を使ったかだけでは足りない。
誰と作ったかが問われる。
どの文化に着想を得たのか。
どの地域の技術を使ったのか。
どの職人と組んだのか。
どう利益が戻るのか。
どう関係が続くのか。
どの名前で市場に出すのか。
ここが見られる。
ラグジュアリーは、文化を引用するだけでは許されにくくなる。
美しいだけでは足りない。
高いだけでも足りない。
背景があるだけでも足りない。
背景の持ち主とどう関係を結んでいるかが問われる。
これは、ブランドにとってかなり重い。
でも、避けられない。
なぜなら、消費者はもう表面だけを見ていないからである。
SNSによって、出所はすぐに調べられる。
似ているものはすぐ比較される。
批判はすぐ広がる。
そして、ブランドの対応も見られる。
炎上したかどうかより、その後どう関係を作るかが問われる。
文化の市場化は避けられない
ここで、もう一つ大きな話に接続する。
文化は市場化される。
これは何度も書いてきた。
カルチャーは、地下から始まる。
市場に見つかる。
商品化される。
制度化される。
そしてまた別の場所へ移動する。
今回のPradaも、その流れの中にある。
Kolhapuri Chappalsという地域の履物が、グローバルラグジュアリーの文脈へ入る。
それによって、注目される。
市場化される。
価格が変わる。
意味が変わる。
ここに良い面も悪い面もある。
だから、文化の市場化を単純に否定しても意味がない。
市場化は起きる。
問題は、その市場化が誰を消すのか、誰を残すのかである。
文化が市場へ出る時、元の担い手が消えるなら、それは危うい。
逆に、元の担い手が見える形で参加し、利益や技術や機会が戻るなら、それは翻訳に近づく。
結論
Prada、怒られたら急にMade in Indiaになったんか。
最初はそう思った。
でも考えていくと、これは単なる炎上対応の話ではない。
ラグジュアリーが他文化をどう扱うのか。
文化は盗まれるのか。
それとも翻訳されるのか。
その境界が問われている。
文化を使うこと自体が問題なのではない。
問題は、名前を消すこと。
担い手を消すこと。
利益の流れを消すこと。
出所を消すこと。
関係を一回きりにすること。
盗用とは、文化を素材として消費し、担い手を見えなくすることである。
翻訳とは、出所を見えるようにし、担い手と関係を結び、別の文脈へ移すことである。
PradaのMade in Indiaサンダルは、その境界に立っている。
これは完全な答えではない。
むしろ、問いの始まりである。
ラグジュアリーは文化を盗んでいるのか。
それとも、文化を翻訳しているのか。
その違いは、誰が作り、誰が語り、誰に返っていくのかにある。
Void Labについて
Void Labは、服に現れる時代の変化を観測する小さな研究室です。
ブランドはなぜ物語を売るのか。ラグジュアリーはなぜ生活へ広がるのか。流行はなぜ市場に回収されるのか。
週刊服飾観測・月刊服飾観測を中心に、ファッション、ブランド、消費、カルチャーの違和感を読み解きます。
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完成した答えより、まだ名前のない変化に興味がある人へ。
明日も違和感を書きます。
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