見出し画像

【歴史学の歴史13】アナール学派と社会史①

こんにちは、ニコライです。めちゃくちゃ間が空いてしまいましたが、今回から連載【歴史学の歴史】を再開します。

前回の記事はこちらから。

前回すでに片足を突っ込んでしまいましたが、今回から本格的に20世紀の歴史学について取り上げていきます。

1929年、フランスのストラスブール大学で新しい歴史学雑誌『社会経済史年報』、通称『アナール』(仏語で「年報」の意)が刊行されます。『アナール』は単なる学術誌ではなく、近代歴史学を批判し、歴史学を刷新することを目的とした、極めて意欲的なものでした。そして、フランスの一地方から始まったこの運動は、やがて世界中の歴史学に大きな変革をもたらすことになります。

今回から3回2回に渡って、『アナール』を中心とするアナール学派の登場と発展、彼らが生み出した「新しい歴史学」について見ていきたいと思います。


1.近代歴史学への批判

第10回で取り上げましたが、19世紀にはドイツの歴史学者レオポルト・ランケによって近代歴史学が確立され、全世界へと広がっていきました。

しかし、19世紀末から20世紀初頭には、早くも近代歴史学に対する批判が登場するようになります。特に問題視されていたのは、以下の3点です。

①歴史学の専門主義化
ランケによって確立された歴史学の手法は、「史料批判」といいます。これは研究対象とする時代の当時に書かれた文字資料=「史料」を批判的に検討し、客観的な史実を明らかにしていくという手法であり、独自の研究手法を確立したことで、歴史学は独立した科学となったわけです。

ところが史料批判が定着すると、やがて歴史学者たちは史料批判のみに終始するようになり、史料以外には関心を示さない史料万能主義的な態度を取るようになります。それはすなわち、考古学や経済学、社会学、人類学、民俗学などの隣接する諸科学の成果を顧みないことを意味し、歴史学は諸科学との横断的な連携を失い、専門主義に陥ってしまいました。

②政治史への偏重
当時の歴史学者たちがアクセスすることができた史料の大多数は、王朝や政府、官庁などによって作成された公文書でした。こうした史料を使って描かれる歴史は、当然、国制史外交史、軍事史などの政治的事件や制度の歴史となり、広い意味での政治史が歴史学の主流をなすようになりました。

また、第11回で取り上げましたが、19世紀の歴史学は国民国家の形成やナショナリズムと深く結びつくようになったこともあり、国家当局やエリート層もこうした傾向を後押しししました。

その一方で、政治の表舞台に登場することのない市井の人々の歴史や、経済史や文化史といった、政治史以外のジャンルはほとんど顧みられなくなってしまいます。歴史学は政治史偏重に陥ってしまったのです。

③歴史の「物語史」化
ランケ以降の政治的事件だけを扱うようになった歴史は、「物語史」と呼ばれるようになります。物語史においては、史料から読み取れる政治家や軍人、高位聖職者や知的エリートたちの決定や意図が重視され、これらを時系列順に並べるだけで歴史の全体像ができると考えられていました。

しかし、こうした人物や事件を中心とする歴史叙述では、因果関係が単線化・単純化され、その背景にある社会的・経済的・文化的・地理的といった複雑な諸要因は無視されてしまいます。ランケ以降の歴史学は、歴史の表層的な動きしか記述しなくなってしまったのでした。

◆◆◆◆◆

歴史学のこうした状況にいち早く批判を加えたのは、フランスの社会学者・経済学者であるフランソワ・シミアンです。シミアンは、歴史家の抱く3つの偶像として①政治の偶像(政治史への偏重)、②個人の偶像(著名な人物への注目)、③年代の偶像(起源追求の重視)をあげ、彼らが社会現象や社会関係への着目がない、と非難しました。

シミアンはデュルケム学派に属していましたが、同学派は社会学のもとに諸科学を総合することを構想していました。このため、シミアンは歴史学もまた、その課題においても方法においても他の社会科学と異なるべきではなく、社会学のもとに総合されるべきだと主張しました。

シミアンと同時期の哲学者アンリ・ベルも、歴史学の政治史偏重・物語史化を批判しました。ベルもまた専門主義に対抗して諸科学を統合しようと試みていた人物であり、1900年に『歴史総合評論』という雑誌を創刊し、社会学者や経済学者、地理学者、心理学者、歴史学者らが対話をする場を設けました。先述のシミアンが活動したのも、この雑誌においてでした。

このような政治史偏重・物語史化を批判し、専門主義を克服しようとする知的雰囲気の中、1920年代になると、いよいよ歴史学の中からも歴史学刷新の動きが登場することになります。

2.『アナール』の創刊

第一次世界大戦後、アルザス・ロレーヌ地方をドイツから奪還したフランスは、この地を戦後フランスの学術の拠点とするため、優秀な研究者たちを同地のストラスブール大学に招聘します。その中に、今回の主人公となる2人の歴史学者がいました。それが、マルク・ブロックリュシアン・フェーブルです。

マルク・ブロック(1886−1944)
ユダヤ系フランス人の家庭に生まれる。古代ローマ史の研究者であった父の影響で歴史学の道を志し、エコル・ノルマル・シュペリウール卒業後、ドイツに留学。帰国後はリセの教師をしながら中世史の研究を行い、1919年からストラスブール大学助教、1920年には教授に任命される。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16690946
リュシアン・フェーブル(1878−1956)
フランス北部のナンシーの生まれ。エコル・ノルマル・シュペリウールとソルボンヌ大学で歴史学を学ぶが、当時から主流派の歴史学の手法に違和感を覚える。1919年からストラスブール大学教授職に就任。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30289507

ブロックとフェーブルは、ともに政治史主流の歴史学のもとで教育を受ける一方で、ベルの『歴史総合評論』を通じて、歴史学への批判と新しい学問潮流にも触れていました。2人は、ストラスブール大学において、同業の歴史学者たちのみならず、心理学者のブロンデルや、宗教社会学者のル=ブラ、社会学者のアルヴァクス、さらにはドイツ語、英語、スラブ語などの言語学者たちと交流を深め、歴史学刷新の計画を練っていきました。

そして、1929年、その活動の拠点として、2人が主催する雑誌『社会経済史年報』、通称『アナール』を創刊します。『アナール』は2つの特徴を持っていました。第1に、対象を政治史に限定せず、人間活動の全域にわたる歴史を考察対象としたこと。そして第2に、様々な学問分野の成果を積極的に受容しようとしたことです。この第2の特徴は、『アナール』の編集委員に、4人の歴史学者に加え、社会学者、経済学者、政治学者、地理学者が名を連ねてたことからもわかるかと思います。

こうして、ブロックとフェーブルによる歴史学刷新運動が本格的に始動したのです。

3.ブロックとフェーブルの「新しい歴史学」

では、ブロックとフェーブルが目指した新しい歴史学とはどのようなものだったのでしょうか?ここでは、ブロックの主要著作のひとつである『奇跡を行う王』(1924年)から、その特徴を見てみましょう。

本書の副題は「王権の超自然的性格に関する研究。特にフランスとイギリスの場合」です。このタイトルの時点で、『イングランド国制史』や『フランス国民正史』、『プロイセン政治史』などと名付けられた19世紀の歴史書とはかなり趣が異なることが感じられると思います。

本書でブロックが取り上げている主題は、「ロイヤル・タッチ」と呼ばれる風習です。中世のイギリスとフランスでは、国王は病気を治癒する力を持つと信じられており、両国では病人を宮廷に集め、国王が彼らに手で触れて治療するという治癒の儀式が行われていました。この「王の奇跡」は、特に瘰癧(るいれき・結核菌性リンパ節炎のこと)に効果があるとされていたことから、「王の瘰癧さわり」とも呼ばれます。

クローヴィスによるロイヤル・タッチを描いた図
ロイヤル・タッチは、フランスではカペー朝ロベール2世から、イギリスではプランタジネット朝ヘンリ2世からはじまるとされる。その後の中近世を通してこの慣習は続けられるが、イギリスでは名誉革命を、フランスではフランス革命を経て終焉する。
Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=27860191

こうした主題を取り上げる理由は、前書きにおいて以下のように示されています。

ところで、往時の王政がいかになるものだったかを理解するためには、なかんずく長期にわたって王政が人心を把握したことを理解するためには、王政が臣民に押し付けた行政、司法、財政の組織のメカニズムを徹底的に解明しても、まだ決して十分ではない。さらにまた、絶対主義ないし神授王権の観念を抽象的に分析、あるいはもろもろの大理論家の思想の中に探り求めても、不十分なのは同じである。王家をめぐって花開いた信仰と寓話の奥を探ることが不可欠なのだ。多くの点で、こういう民俗そのものが、いかなる教説の書物にもまして雄弁なのだ。

ブロック『奇跡を行う王』

このように、王政を理解するためには制度や思想の研究だけでは不十分であり、王家に対する信仰や民間伝承を研究することも重要なのだ、というのがブロックの主張です。つまり、本書の主題は「王権」であり、あくまで「政治史」ではありますが、従来の歴史学とは違う、新しい視点からの政治史というわけです。

ブロックは、「瘰癧さわり」を論じるため、従来の歴史家が使うような華々しい議会の記録などではなく、地味な財政帳簿、行政文書、さらには文学作品、宗教文書、医学書、典礼書、図像資料などの様々な資料を駆使しました。さらに、単に風習の起源、展開、そして終焉を論じているだけでなく、「王の奇跡」がどのようにして広まり、信じられるようになったのか、そして、その背後にある民間医療、迷信、魔術的実践はかなるものだったのかを論じています。

以上をまとめると、①従来の政治史の枠組みにとらわれない主題設定、②公文書も含めた様々な資料の使用、そして③人々の集団的な心理に踏み込んだ考察、が特徴として上げられるでしょう。特に③については、 歴史学の手法のみならず、人類学的・民俗学的なアプローチも取り入れられているのが特徴です。こうした人々の思考や感覚を主題とする歴史は「心性史」と呼ばれるようになりますが、本書はこの心性史を確立した古典のひとつといえるのです。

4.「問題史」というアプローチ

もう一つ、ブロックとフェーブルが歴史研究をするうえで重視したことがあります。それは、「問題関心に基づくアプローチ」です。

近代歴史学の父であるランケは、歴史学の目的を「ただ事実は本来どうであったか」を明らかにすることだと述べました。しかし、フェーブルはこうした考えを「無邪気なリアリズム」だと退けます。歴史的事実は、冷凍マンモスのようにそのまま保存されているわけではなく、人間が解釈・組織し、再構築するものだ、というのです。

そして、歴史的事実を再構築する際のスタート地点となるものは、歴史家の「問題関心」なのです。つまり、歴史家はただ漠然と事実を集めたり、あるいは特定のイデオロギーに沿って過去を説明するのではなく、彼が生きる現在、あるいは未来にとっての「問題」に関心を持ち、その問題の歴史的根源を明らかにするために歴史と向き合うのだ、というのです。フェーブルにとって歴史学とは、「今日の人間がどうしてもみずからに課さなければならない問題への問い」であり、歴史家は単なる事実の観察者ではなく、事実を解釈し、再構築する主体なのです。

このような歴史のあり方を、フェーブルは「問題史」と呼んでいます。これはすなわち、「問題としての歴史」あるいは「問題提起の歴史」という意味です。問題史においては、歴史的研究の起点は現代におかれ、現代から過去へと問いかけることで、現代を相対化し、現代の事象をよりいっそうよく理解できるとされます。

5.少数の批判者から新たな正統派へ

1933年、フェーブルがコレージュ・ド・フランスの教授に、1936年にブロックがソルボンヌ大学の教授に任命されたことで、『アナール』もまた、その拠点をパリへと移します。2人はパリにおいても、『封建社会』(1939年)などの優れた研究を発表し、フランスの歴史学界で影響力を強めていきます。

しかし、第二次世界大戦が勃発し、フランスがドイツの占領下に置かれると、『アナール』の経営も困難な状況に追い込まれます。フェーブルは誌名を『社会史年報』(後に『社会史論叢』)に変え、不定期刊行物とすることで雑誌を守り続けました。一方、ユダヤ系であったブロックは、公職追放に合うリスクが高かったことから『アナール』を去り、レジスタンス活動に身を捧げるようになります。しかし、1944年にゲシュタポに逮捕され、銃殺されてしまいます。

ブロックが収監されたモンリュック監獄
ブロックは1944年3月に逮捕・投獄され、監獄にてゲシュタポによる厳しい拷問を受ける。その後、ノルマンディーから連合国軍が迫る6月、26名の囚人たちとともに銃殺される。
CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=35572011

大戦が終結すると、1946年に『アナール』は再始動します。このとき、雑誌名はより幅広いテーマを扱うという意味で、『年報ー社会・経済・文明』と改められました。主宰者はフェーブルが単独で努めることになりますが、彼の周りにはフェルナン・ブローデル、ジョルジュ・フリードマン、シャルル・モラゼ、ポル・ルイヨといった新しいメンバーが加わりました。

さらにフェーブルは、新しい拠点の創設にも着手します。フランスには、研究と実習を基礎にした高等教育機関である高等研究実習学院があります。ここには1868年に創立以来、各分野ごとに5つの部門が備えられていましたが、フェーブルの働きかけによって、1947年に経済・社会科学を専門とする第六部門が新たに創設されました。フェーブルはこの第六部門の主宰者も努め、様々な人間科学の交流と共同研究、そして教育を推進しました。

社会科学高等研究院
高等研究実習学院第六部門は、1975年に社会科学高等研究院として独立し、今日に至る。
CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=73883516

6.まとめ

ストラスブールで狼煙が上がった近代歴史学に対する抵抗運動は、やがてパリに拠点を移して影響力を増し、大戦後はフランスの歴史学界に大きな影響力を持つようになります。ブロックとフェーブルら少数集団による試みは、大きな知的潮流へと成長したのです。

ブロックとフェーブルの功績といえば、やはり歴史研究により積極的な意義を与えたことでしょう。これまでの歴史学といえば、王権や国家を正当化する過去を描くことを目的としていたり、あるいはキリスト教や啓蒙主義といった特定のイデオロギーに沿った歴史を表現したり、はたまた歴史家に単なる過去の観察者としての役割しか与えないようなものでした。

しかし、「問題史」というアプローチを採用することで、歴史家は主体的な解釈者へと変貌し、現代から過去へ、そして過去から現代への往復することで現代社会を分析するという科学的方法が確立されました。2人の「新しい歴史学」とは、科学としての歴史学を再定義するものだったのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

◆◆◆◆◆

連載を最初から読みたい方は、こちらから

次回


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集