【歴史学の歴史10】ランケと近代歴史学の誕生
こんにちは、ニコライです。今回は【歴史学の歴史】第10回目です。
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19世紀、歴史学は新たなステージへと登ります。この時代、歴史学は学問的手法を確立し、独立した科学として扱われるようになったのです。これを成し遂げたとされるのが、ドイツの歴史学者レオポルド・フォン・ランケです。今回は、ランケと近代歴史学の誕生について見ていきたいと思います。

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1.文献学から歴史学へ
最初に、ランケがいかにして歴史学への道を歩むことになったのかを見ていきましょう。
1809年、ランケは14歳で名門ギムナジウムであるシュールプフォルタに入学し、ここでギリシャ語やラテン語を学び、クセノフォンやタキトゥスといった古典を講読します。1814年にライプツィヒ大学に入学すると神学を専攻しますが、当時主流であった合理主義神学には馴染めず、教義学よりも教会史と聖書の文献学的考察・解釈に関心を寄せます。古典文献学を主専攻とするようになったランケは、聖書の購読や注解のみならず、ホメロスなどの古代の文献の知識も深めました。
このようにランケは文献学専攻の学生だったわけですが、トゥキュディデスに関する博士論文の執筆、そして、ニーブーアの『ローマ史』との出会いを通じて、歴史学へ関心を寄せるようになります。以前紹介したように、トゥキュディデスは伝承をそのまま受け入れるのではなく、批判的精神で吟味することを重視した歴史家であり、また、ニーブーアは、古典文献学における批判的手法を歴史学に適用した人物です。ランケは彼らの批判的歴史叙述から多大な影響を受けたと思われます。

「批判的歴史研究」の開拓者の一人。1810年からベルリン大学で「ローマ史」の講義を行い、主著『ローマ史』はその成果をまとめたもの。
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ランケの歴史学への関心が表れた出来事が、ルター伝の執筆です。ランケは学位授与の後の丸々1年を費やし、ルターの著作、卓上語録、書簡集、説教集などの史料を読み、史料に基づくルター像を追求するとともに、ルターを時代との関連から考察しようとしました。この研究は、構想が広がり過ぎたため途中で打ち切られますが、歴史家としての第一歩を踏み出した出来事だといえるでしょう。
2.歴史家ランケの形成
1818年、ランケはフランクフルト・アン・デア・オーダーのフリードリヒス・ギムナジウムに上級教員として着任します。ランケがここで担当することになったのは、古典語、そして歴史であり、週20時間、ギリシャ語、ラテン語、ドイツ語を教え、ギリシャ史、ローマ史、中世史、近世史の講義を行いました。
講義に際してランケは、入念な授業準備を行っていましたが、その特徴は、一般的な概説書を避け、あくまでも史料研究から始めていることにあります。例えば、ギリシャ史の授業準備では、ヘロドトス、トゥキュディデスからはじまり、プルタルコス、クセノフォン、ポリュビオス、シチリアのディオドールなど、古代の史書を拠り所としていました。
さらに、ランケは史料研究を通じて、想像や創作を排し、厳密に事実に即す立場を鮮明化していきます。例えば、ランケは、当時のヨーロッパで流行していたイギリスの作家ウォルター・スコットの歴史小説について、その記述に史料的根拠のない著者の想像が含まれているとし、批判的に述べています。

スコットランド出身の作家。当時のヨーロッパでは、ロマン主義を背景に過去の息吹を伝える歴史小説が流行っており、彼の『クウェンティン・ダワード』もそのひとつであった。
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ランケはこの授業準備を通じて、歴史家としての自覚を持つようになっていったのです。
3.最初の著作の刊行
1824年、ランケの史料研究は学問的成果として実を結び、『1494年から1535年までのロマン・ゲルマン諸民族の歴史』とその付録である『近世歴史家批判』として刊行されます。
前者は、イタリアやスペイン、フランス、ドイツなどの諸国民の歴史を統一体として捉えようとする試みであり、ランケの最初の著作となりました。そして、この著作の中で、非常に有名な次の一節が述べられています。
ひとは歴史に、過去を裁き、未来の益になるよう同時代人を教え導くという任務を追わせてきた。しかし本書の試みは、そのような高尚な任務を引き受けるものではなく、ただ事実は本来どうであったかを語ろうとするにすぎない。
トゥキュディデスやポリュビオスといった古代ギリシャの歴史家、ルネサンス期のマキャベリ、そして啓蒙主義時代のヴォルテールらは、歴史から将来に役立つ教訓を引き出すために、歴史を探求してきました。しかし、ランケはそうした態度を批判し、あくまで真実を探求しようとする自身の立場を示したのです。
そして、後者はランケの歴史学的手法を述べたものです。ランケは近世史を研究する中で、近世の歴史家たちの記述に互いに矛盾する点があることに気が付き、これらの史書の性格を明らかにし、その叙述のどこまでが信頼できるかを検討したのです。例えば、従来近世史の権威とされていたグイッチャルディーニの『イタリア史』については、その大部分が他書からの寄せ集めであり、その中に記されている演説も、著者の創作か、あるいは故意に変更されたものであることを明らかにしました。

ルネサンス期フィレンツェの歴史家。その主著『イタリア史』は刊行後の50年間で10版を重ね、ラテン語、フランス語、ドイツ語、英語、オランダ語、スペイン語など、各国で翻訳された。
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4.ベルリン大学へ
最初の著作を出版した頃、ランケは、フランクフルト大学に収蔵されていたヴェスターマン文庫を読み尽くしてしまい、この地でのさらなる研究は不可能であると考えるようになっていました。ランケが新天地として望んだのは、当時ドイツ最大の図書館を有していたベルリンでした。こうしてランケは、1825年にベルリン大学の員外教授に就任し、以後60年に渡って、当地での研究に励むこととなります。

プロイセン文部省・教育局長。ランケとプロイセン文部大臣をつなぎ、彼のベルリン大学招聘に一役買った。
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王立ベルリン図書館の史料を利用できるようになったランケは、ヴェネツィア公使の報告書などに沈潜し、1827年に『16、17世紀のける南ヨーロッパの諸君主・諸民族』を刊行します。しかし、さらなる研究のために、ランケはベルリンの史料だけでは不十分だと感じ、1827年から31年の4年間、ローマやヴェネツィアなどのイタリア諸都市、さらにオーストリアの首都ウィーンを訪問し、史料収集旅行に出かけました。この成果は『教皇史』および『宗教改革時代のドイツ史』としてまとめられ、ランケの名声をさらに高めることとなりました。
ランケは自身の研究のみならず、大学における教育にも力をいれます。彼が採用したのは「演習(ゼミナール)」という手法であり、この実践的な演習を通して歴史研究の手ほどきをしました。彼の弟子の一人ジーベルによれば、ランケの指導は個々の自発性に任せ、その能力を発揮させる原則に基づいていましたが、批判的手法から逸脱する誤りに対しては、容赦ない批評を受けたといいます。
5.ランケ史学の広がり
ランケは長いベルリン大学時代に、ヴァイツ、ジーベル、ケプケ、デンニゲス、ギーゼブレヒト、ヴィルマンス、ヒュルスなど、多くの優秀な弟子たちを排出しています。彼らはドイツ各地で大学教授となってランケ流の批判的歴史学を広めるとともに、『ドイツ中世史料集成』や『歴史学雑誌』の刊行に携わるなど、ドイツにおける歴史学の発展に大きく貢献しました。

ランケは1871年にベルリン大学を退職するが、最晩年まで歴史家としての活動を続け、1880年から未完の大著『世界史』を執筆し、亡くなるまでバイエルン科学アカデミー歴史委員会の会長であり続けた。
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ランケ史学の広がりは、ドイツだけにとどまりません。フランスのエルネスト・ラヴィスやイギリスのウィリアム・スタッブといった歴史家たちはランケ史学に感銘を受け、ゼミナールやランケの史料批判を自国の大学にも導入し、自分の弟子たちに伝えていきまました。さらに、19世紀末の米国では、歴史家の大半がドイツに留学しており、ランケ史学を積極的に輸入していきました。
そしてランケ史学は、明治維新後の日本にも到達します。1887年、東京帝国大学の史学科教授として、お雇い外国人としてランケの弟子のルートヴィヒ・リースが招かれたのです。リースはランケ流の批判史学を日本人の学生たちに教え込み、さらに『史学雑誌』や史学会といった専門誌・学会の創設にも貢献しました。

ドイツの歴史学者。明治20年に東京帝国大学史学科教師に赴任する。日本歴史学の発展の貢献するとともに、「侍」や「大和魂」などを題材にした日本論も執筆している。
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6.まとめ
最後に、ランケの歴史学的手法をまとめます。
①史料へのこだわり
ランケは歴史を研究する上で、既存の概説書ではなく、研究者が対象とする時代、その当時に書かれた文書にこだわり続けました。現代歴史学では、こうした文書を一次資料あるいは史料と呼びます。ランケは歴史記録の原典ともいうべき史料をひたすら追い求め続け、そこから史実を構築することにこだわり続けたのです。
②史料批判という手法
ランケは史料に書かれていることを鵜呑みにするのではなく、これを批判的に検討し、その史料の性格や、史料のどの部分が信頼に値するのかを明らかにしようとしました。こうした手法は「史料批判」といいます。「歴史的事実の追求」は、トゥキュディデスやポリュビオスといった古代ギリシャの歴史家から、ヴォルテールなどの啓蒙主義者たちも取った立場でしたが、ランケはその具体的な手法を確立し、徹底的に適用したのです。
③歴史の個別主義
「ただ事実は本来どうであったか」という言葉に表されているように、ランケは歴史への実用主義的・教訓主義的態度を拒否し、ただひたすらに歴史的真実を追求する姿勢を示しました。ランケはまた、「おのおのの時代はどれも神に直接する」とも語っており、各時代の存在そのものに価値が宿っていると信じていました。ランケは、啓蒙主義者たちにように、歴史に普遍的法則を見出すのではなく、各時代の個性を尊重する立場を取ったのです。
ランケの貢献によって、ヨーロッパで長らく文学の下位ジャンルとして扱われてきた歴史は、真に独立した科学としての地位を確立することになります。すなわち、ここにおいて現代にも通じる近代歴史学が確立したのです。こうした功績から、ランケはヘロドトスや司馬遷と並んで、「近代歴史学の父」と称されます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
参考
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