銀蛇謳海~31~海の王
船尾に夜礼、中央に瀬織津姫と海若を乗せた柳舟は水晶宮を目指して滑るように波間を走ります。
「私はいつも姫に心配させてばかりだね」
「違うのです。わたしが貴方をもっと信じればいいのです。それができないのは、わたしが………」
「瀬織津姫」
そう呼んで海若は彼女の目をのぞきこみました。相対する双つの碧海は澄み透り、蒼が内側から溢れています。
「私は『真海』の王で、それ以外何者でもないし他の何者になることもできない。なぜだと思う?」
「………それは、貴方がそれだけのお力を持った神だからです」
「半分だけ正解」
「…………はん、ぶん?」
「貴女がそう信じてくれているから。………私は弱いかも知れない」
「そんなことはありません」
多くの海で暮らすものにとって、綿津見というのは隙のない完全な存在でした。海の頂点です。
それに老綿津見は彼女にとって世界そのものでしたから、疑う余地のないのは当然でした。
ーでは海若は?
その疑問が胸に萌したことに瀬織津姫には動揺しました。
横に座る年若い海の王は先代をそのまま幼くしたように見えます。しかしその手には先程彼女が傷を覆った布が少し解けたまま巻きついていました。
ー信じないといけないから、わたしは何も怖くないふりをしていたのかも知れない………。
彼のほどけかけた布を巻き直しながら、
「お疲れでしょう………」
とたずねれば、
「こんなことは疲れたうちに入らないよ」
と返ってきます。姫はくすりと笑いました。
「なにか面白いのかい?」
「ええ。もしかしたらわたし達は似た者同士なのかしら、と思ったのです」
「姫と私が?」
「ええ………。強がりなのです」
夜礼が不思議そうな顔でこちらを見ています。いつもは迷わず海若に吸い付く視線が、自分の上に止まっていることに居心地の悪さを覚えた姫は目を逸らしました。
海中に潜った柳舟は『竜宮』の正門をくぐり抜けようとしています。
その先には光に揺れてさんざめく水界が広がっていました。瑠璃色の魚の群、折り重なる珊瑚の繊細な造形、白砂の道、奥へ奥へと向かうほど青みを増す水、それらが迎え入れてくれます。
「『竜宮』はまるで海若そのものって感じだな………」
周りを見まわしながらー一度目はそんな余裕はありませんでしたのでー夜礼は、少しばかりうっとりした様子で言いました。
「私そのものとは、ねえ夜礼、どういうふうに?」
「どうって…………、キラッキラで眩しくて煌びやかで……多少恐ろしくもあるのだが………、おおむね、神っぽい」
「………神っぽい………って?」
それ以上は夜礼も説明できず笑ってごまかしました。
でも本当は分かっていたのです。この海でいちばん美しいものーそれが海若であり『竜宮』なのだと。
神さまというのは病気はしませんし怪我だってしません。
もし病んだり傷つくことがあってもすぐに治ってしまいます。まして多くの神は、老いることなければ死ぬこともありません。
ですから夜礼も長いこと痛いことも苦しいことも知らずにいました。知らないことは知らなくていいことです。
神さまは個々が完全なひとつ機関として在るので、交流を求めなければそれで全て完結してしまいます。特に夜礼のような神さまならなおさらでした。
ー俺は知らなかったってことを知ったんだな。
綿津見の心は海のようだと神々は言い習わします。
海の心は海の生きとしいけるものを愛する心に他なりません。その結実がどんな悲しみも癒すという仙郷、哀しみのない『竜宮』を造りあげたのだとしたら。
海の王は哀しみを知っている者なのでしょう。綿津見はとても強大な力を持つ神さまですが、美しいものは強いだけでは創れませんから。
「誰ぞ知る 黄泉と海とは 裏表 身果つるほどに 照り輝やけど…………なーんてね」
思いつくままに歌を口ずさんだ夜礼に驚いた顔で海若は、
「なんだ、詠めるじゃないか」
と言いました。そういえば宴席で歌詠をにべもなく断ったこともありましたので。
「よき歌詠ですね」
瀬織津姫に褒められて夜礼はとても意外な心持ちでした。
「裏表とは、言ったものだなぁ………誰ぞ知る、か。知ったからって何も変わらないよ。彼らにとって大切なのは楽土が楽土であり続けることなのだし」
「貴方は…………」
それでいいのですか、と聞きかけて夜礼は慌てて口をつぐみました。
「でも八十諸神が私に傅くのは当然だよ。だって『真海』の守護、海の王なのだからね」
海若は自信たっぷりといった顔で口角を思い切りあげたのでした。
柳舟はそうこうするうちに水晶宮へ到達し、竜人竜女の手厚い出迎えを受けながら一行は離宮へと向かいました。
海若の影の中に棲むものは鳴りを潜めています。腕の切り傷もすぐに癒え、普段通りの様子です。
「お休みのところ失礼しますよ、綿津見どの」
離宮にやってきたのは沫那芸神でした。
白い髪を頭上で束ね、生成りの柔らかな衣を重ね、福福とした顔の目元には笑い皺が刻まれています。
おっとりした風貌ですが水晶宮の万事を取り仕切っている才智に富んだ神さまです。
「いやいや実に見事な、海の王の名に相応しい戦いっぷりでしたなぁ。あの姿になられた天都比古禰どのをあそこまで追い詰めるとは、いやはや全くもって………」
「本題は何かな? 沫那芸どの」
「本題もなにもわたしゃ貴方にいたく感心したものですから。それであの右脚に巻きついていたのが黄泉の何やらですかね?」
「跳ねっ返りが出しゃばったのだ。躾けはしておいたからもう出てはこない」
「ほっほっほ。じゃじゃ馬娘はいったいどれだけ居るんでしょうかね」
「貴方のところで面倒でもみてくれるのかい?」
「いやいや滅相もない。全て綿津見どのにお任せしますぞ。ところでご寝所に香をご用意いたしましたが」
「香?」
海若は瀬織津姫を見ました。
「わたしはなにも………」
殺風景な離宮に彼女が調度品を用意させたわけでもなさそうです。沫那芸の後から侍女が香炉を差し出しました。
「この香はうちの妻が調合したものでして」
「そうか、沫那美どのによろしく伝えてくれ。綿津見が感謝しておったと」
「そう言って頂けると妻も喜ぶでしょう」
侍女が離宮の中に香炉を据えたのを見届け、沫那芸神は離宮の扉へと向かいました。
綿津見に背を向けたさい鼻の前で仰ぐような仕草をしたのが、夜礼の方からだけ見えました。それだけでなくボソリと、
「『黄泉』の匂いはいただけない………」
と言う声も夜礼の耳に転がり込みました。
夜礼には黄泉の匂いと言われても分からず、ただ沫那芸が去って行くのを見送りるだけでした。
続く
帰宅の途につく夜礼。平穏な日々に戻ると思いきや…………運命の歯車が軋みはじめる。次回『双子』。いいなと思ったら応援しよう!
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